パンプキンミルクとペトリコールの協和音
武 頼庵さま主催「初恋」企画参加作品です。
今回は小説でお送りします
雨粒が窓を控えめに叩いている。自分以外の客がいない小さなカフェは、貸し切りのようで気分が上がった。マスターが時間をかけて温めて砂糖を少しだけ加えた牛乳はふんわり丸みのある匂いがする。
このカフェに初めて入ったのは高校生の頃だ。その時も確か肌寒くて、間違えて薄着で登校した私は冷気から逃げる為に入った。店に入ったと同時にくしゃみをした私にマスターが温かいカフェラテを淹れてくれたのを覚えている。社会人になってからオフィスがこのカフェの徒歩圏内だったので週に2日は入っている。
ホットミルクに口をつけたところで雨の音が一瞬だけ強くなって、また小さくなった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
足音を立てずに近づいて来たのは、はにかんだ顔が魅力的な人だった。
「伊弦さん、先月ぶり?」
「うん、愛美子は仕事休みなんだな。あ、ホットミルク」
伊弦さんはマスターにかぼちゃケーキとアメリカンコーヒーを頼んで私の向かいに座った。特等席であるカウンターから離れた窓際のテーブル席は、他の席よりも外の音が聞き取りやすい。ひっそりティータイムを過ごすにはうってつけ過ぎる。
伊弦さんは私の姉の後輩だった。小学生だった私は母に連れられて姉の高校最後の大会を観に行った。姉と伊弦さんの2人だけが立っている舞台を観た私は、
『愛してる!』
初めて声だけで、人を眩しいと感じた。
その衝撃のままにいつもバッグに入れていたメモ帳に手紙を書いて、姉を通して伊弦さんに渡した。伊弦さんとはそれきりだと思っていた。
けど、私が高校二年生になってから、私たちの交流が始まった。そのきっかけがこのカフェのこのテーブル席で相席をしたことだった。
『すみません』と言われて『いえいえ』と答えて、学校の話を少しだけして、『伝票貸して』と言われて見せたら支払いを一緒にされて、彼が『帰る時気を付けて』と言いながら店を出た時には、もう好きな人だった。
日曜日の午後、カフェに入れば必ず伊弦さんがいた。世間話をして、思い切って連絡先を聞いた。彼女といる時は引き返して、彼女と別れたと落ち込んでいる彼を見たらまた私が一緒に座って、カフェから出てゲームセンターやテーマパークにも行った。その付き合いをブランクがありながらも、9年続けている。
先月、伊弦さんと名古屋で開催されたマンガ家の個展に行った。去年、結婚を考えていた恋人に捨てられた伊弦さんの4回目の傷心旅行だった。「まだ元気ではないけど」と言いながらも楽しんでくれたみたいで安心した。思い切って誘って良かったと思う。
他にお客さんもいないので、伊弦さんは注文したケーキとコーヒーをカウンターまで取りに行っていた。
「それしっとりしてて美味しかったよ。こないだ食べた」
「ホント? いただきます」
「アタシももう一回頼も」
私はマスターにかぼちゃのケーキとストレートティーを注文する。冷めたミルクを飲み干すタイミングと、伊弦さんがケーキを飲み込むタイミングが一緒だったことに吹きだしそうになる。
雨はまだ止まない。外にいる女性がピンヒールで歩きにくそうにしていて、なんでそんなもの履いて来たのか少し呆れる。
窓から雨を見ていたところに伊弦さんの「機種変いつするかな……」という呟き。伊弦さんに視線を向けると、伊弦さんも窓の向こうを見ていた。
「決めなくていいの?」
「うん……3年前のモデルだから替えたいなって思ってんだけど」
こないだLINE届いたし、と黒いスマホを見つめる。伊弦さんを捨てた元恋人と同じ機種だ。知っているのは、その時に伊弦さんが嬉しそうに話したから。
「まだLINE送ってくんの? 振ったのそっちじゃん」
「だよな。あんまり話したくないからスタンプとか定型文で切ってる」
伊弦さんは笑った。
「愛美子さん、ケーキが切れましたよ」
「あ、はーい」
マスターの声を聞いて、私はカウンターへ歩いた。
「よろしければカップも」
「ありがとうございます」
空になったミルクのカップと、ケーキとホットティーが乗ったトレーを交換した。
「それではごゆっくり」
マスターは穏やかな声で言うと、カップを磨き始めた。
ゆっくりテーブルまでトレーを運んで、伊弦さんの向かいに座る。伊弦さんはかぼちゃのケーキを一口分フォークに刺してそのままにしていた。
「好きなの? まだ」
「ん?」
伊弦さんはコーヒーカップに口をつけたままぼんやりした声を出した。
「や、好きだよね。好きだから私がいるんだもんね」
「ああ」
ごめん、とカップを置いて、伊弦さんはむにゅむにゅと口を動かした。
「いいよ。癒されるまで付き合わせればいい」
私に視線を合わせた伊弦さんは小さく溜息をついて、ケーキの欠片が刺さったフォークをくるくる回し始めた。
「何で愛美子みたいな子がモテなかったの?」
「決めつけないでよ」
「え? モテた?」
「あと一口いらないならください」
食べるよ、と伊弦さんはクスクス笑ってオレンジ色の欠片を口に収めた。私もフォークで大きくケーキを切って口に収める。かぼちゃのピューレをそのまま固めたような、しっとりした食感と濃厚なかぼちゃの味が少しだけ気分を上げた。
愛美子、と声の玉がぽとんと落ちた。声の持ち主はまた窓から雨を見ている。
「え?」
「彼氏作んないの?」
伊弦さんから予想外の質問が来て、反射のように私は熱い紅茶を飲み込んだ。喉に熱い水の玉が通る感覚が過ぎた。
「伊弦さんと会ってからそんな気ないもん。だから伊弦さんならウェルカム」
「え、カッコいい!」
両手を広げた私に伊弦さんは声の調子を上げた。垂れ気味の目が下がって、人懐こい笑顔になる伊弦さんを見て、私は割れてウィスキーを垂れ流したチョコレートのように取り返しのつかない心に気づかないふりをする。
「そりゃずっと好きだったからね」
本気の告白は、今は出来ない。
「やっぱいい子だな、愛美子は」
そう言った伊弦さんの声は、きっと甘い果汁のような味がする。
私は、ただの捌け口で良かった。でも伊弦さんがどんどんカッコ良くなって、居ても立ってもいられない時もある。無防備だから何か仕掛けてやろうって思ってやめたなんてことは何回もあった。でもそれは伊弦さんは関係なくて、私の制御が利かないから。
「だって、先月の名古屋もさ、『手つなごっかなー、いやでもなー、いや一瞬だけ、いやいや迷惑だよなー』って左手が何往復もしてた」
左腕の肘を曲げ伸ばしして見せると伊弦さんは「そんなことしてたの?」と笑った。
「今度腕組んで歩かない?」
「何で? やだ」
伊弦さんは恥ずかしそうに優しい拒否をする。少し残念な気持ちは置いておくことにした。雨はまだ止まない。
テーブルに出ている黒いスマホが目に入った。多分だけど、機種変するのは心が揺らぐから。そういえばLINEが届いたと言っていた。
「LINEなんて?」
「ん? ああ……」
元恋人の女性は、伊弦さんを捨てて両親が決めた婚約者と結婚した。ちょうど去年の今頃に別れて、今年の四月に式の招待状が来たと言う。付き合っている間も結婚の話が進んでいたことに混乱したのを覚えている。
「妊娠したんだってさ」
「は? 何それ?」
そんなことを失恋で傷ついてる、それも自分が振った男に言うの? そんな無神経な女だとは思わなかった。見せつけてるの? まだ友達としてやれると思ってるの? 意図がわからない。
「今、四ヵ月なんだって」
「ふーん」
いい彼女さんだった。四、五回会っただけの私も、こんな女性に巡り合うことはないだろうと思った。だから、たとえ舞い上がっていたとしても、こうやって伊弦さんを掻き乱すあの人に裏切られた気持ちになる。
「死んで生まれてくればいいのに」
ザーーーーッ! バタバタッ! バタバタッ!
雨がだんだん強くなる。私の言葉に、伊弦さんは何も言わなかった。
「……あの、別に変な意味じゃない。授かった命は尊いってわかってる。……ただ、伊弦さんと同じくらいの絶望を味わえばいいって、私が個人的に思っただけだから」
「うん」
「だから……そんな悲しみ溜めこんだみたいな笑い方しないでほしい。なんか、どう接したらいいのか分からなくなるから」
私は紅茶に口をつける。熱かった紅茶は適温になっていた。
本当にいい彼女さんだった。ふわふわのお菓子のような外見をしているのに、気さくな女性で、初めて会ったとき、私をバカにすることもなければマウンティングを取ることもなかった。
『あー! この子が愛美子ちゃん? 伊弦から聞いてるよ! 会えてうれしー!』
『あのね、私も海外映画好きなんだー。ほとんど吹き替えで見るんだけど……』
行き会ったときは、このカフェで三人で最近見た映画について話したし、一緒に食事もした。バレンタインに行き会ったときには『愛美子ちゃんも食べて』と手作りのカップケーキをくれた。
勿論、伊弦さんのことも大切にしてくれていた。カフェで行き会った伊弦さんが記念日に貰ったものを持ち歩いていたり、『今度のデートでどこそこに行く』と嬉しそうに話していたりもしたから。私が裏切られた気持ちになったのは、彼女なら、伊弦さんを幸せにしてくれると思っていたし、伊弦さんも彼女が大好きだったからいい家庭になると思っていたから。諦めて良かったと思いたかったから。
伊弦さんは泣いたような笑い顔を崩さなかった。
「あの……ごめん」
「ううん。……ただ、愛美子にそんなこと言って欲しくなかったなって」
コーヒーを含む伊弦さんの薄い唇を、私はじっと見ていた。
例えばさ、とさらりとしたハイバリトンが零れ落ちる。
「例えば、あいつが別の人と結婚したのに、理由があったとしたら……」
「理由?」
「まぁ、そんなワケは無いんだけど……」
「やめてよ」
伊弦さんが思いついた理由がどんなものなのかは、聞く気になれなかった。きっと親に借金やら何やらの事情があって、娘を差し出す代わりに旦那か旦那の家がそれを肩代わりする、とかありきたりな事情だろう。
「いや、一つの可能性を言っただけじゃん」
伊弦さんは苦笑した。
「だって責められなくなっちゃう」
私はふて腐れて、まだ温かい紅茶に角砂糖を落とした。
甘い紅茶を啜っている私に、「今度はどこ行こうか」と伊弦さんは言った。普段は変な色気がないさらりとした声で、ふとした時に甘さのある声を出す。声を張ったときの突き抜けるような響きは、心にかかった靄を飛ばしてくれるようだった。
伊弦さん、あなたが無口な人じゃなくて良かった。
無口だったら、私が恋した声は聴けないでしょう?
私は「大阪は行ったことないよ」と次の傷心旅行のプランを提案した。
「あ、いいな! USJ行きたい! ライド乗らなくていいから散歩感覚で歩き回りたい」
「いいの? ハロウィンだから出て来るよ?」
「え? 何が?」
「ゾンビ」
「……昼にまわって、夜ホテルで過ごす」
私は手を叩いて笑った。相変わらずホラーは苦手らしい。VRをつけてホラーゲームを体験したとき、私にしがみついていたのを思い出した。
「いいじゃんゾンビ見ようよ」
「やだ」
私はまた声を上げて笑った。笑って、また紅茶を注文した。伊弦さんもアメリカンコーヒーをまた注文した。
いつしかテレビで小説家が言っていた。世の中には、人間の心を傷つけるものが多すぎる。私はそれを勝手に訂正する。人間の心を傷つけるものは世間にゴロゴロ転がってはいない。人間の心を傷つけるものは、人間の心なんだ。人間の型に正しくしまわれた心が、持ち主の中で不可視な凶器を作って、持ち主の言動や思考を通して相手の心を傷つけるんだろう。伊弦さんを見て、私はそう思った。そう思って、固まったコンクリートのような重い心を抱えて雨が降る外を眺めた。
「伊弦さん」
雨が少し弱まった。乾いたコンクリートが雨水を吸い込んだあの匂いはもう消えているだろう。あの匂いは結構好きだ。石や土の匂いを思い切り吸い込んで、口から息を吐くと都会の真ん中で自然と同化したような気持ちになる。
「ゾンビが嫌なら11月にしない?」
今日も彼の側で、満足したふりをする。彼の凶器に、泣きたくないから。
ありがとうございました!
余談ですけど、伊東健人さんの声って素敵ですね!