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7 完成か命か

「もうやめてくださいか……そう言われた主人公は……」


 咲は相変わらず俺にしがみついている。背中に咲の体温を感じる。脚の痛みはもう感じない。いつしか俺の両足は根本まで消滅していた。


「咲、お前の顔を見せてくれ」


 俺は顔を横にひねった。


「旦那様……」


 咲は涙で濡れた顔を上げた。美しい。髪は乱れ、目は泣き腫らしている。しかし、それがかえって色気を感じさせる。

 ヒロインに「もうやめてくれ」と言われた主人公はこの表情を目にしてどう考えるだろうか。


「咲、俺は小説家だ。小説を書くことでしか自分が生きた(あかし)を示せない」

「……」

「この作品が俺の人生そのものなんだ」


 国を守るために命がけで戦ってきた主人公だ。恋人に止められたからと言って今更引けるわけがない。第一、このままでは日本どころかロシアも悪魔の手に落ち、世界が滅びる。恋人だって無事では済まないはずだ。


「咲、手を貸してくれ。完結まで、構想が固まったんだ」


 咲の目から再び涙が流れた。

 (もうこの人は止められない)そう感じた時のヒロインの表情はこんな風なのか。

 俺は再び筆魔を呼び出した。


「全部くれてやる。最後まで書き切るぞ」

「あの方に見られてしまいましたが、よろしいので?」

「構わんさ。咲も戦友だ。咲、いいな?」

「……最後まで見届けます」

「よく言った」


 咲は俺の右側に寄り添って、手を俺の右手に添えた。自然と咲の頬が俺の右頬に触れる。


「さあ、始めよう」


 俺は思考を開始した。 



   ◇ ◇ ◇


 奉天の会戦は日本軍の勝利に終わった。あとは日本海に展開する海軍の戦果に全てがかかっている。主人公の帝国陸軍軍人としての役割は果たされた。しかし、まだ黒鳩を仕留めたわけではない。

 黒鳩は怪我を押してロシア帝国の首都サンクトペテルブルクへと飛来した。皇帝に敗北を報告するためだ。皇帝とは、将校の美しい妻を生け贄として食らい、将校を醜いバケモノへと変貌させたあの悪魔である。

 敗北の報告に激怒した悪魔は黒鳩の首を掴むと握りつぶしてしまう。


   ◇ ◇ ◇



 話が展開するにつれて、俺の左手に激痛が走った。筆魔め、命に関わらず、筆も握らない左手から食おうという魂胆だろう。


「ううっ!」


 我慢をしてもやはり声は出てしまう。見ると、指先から徐々にその存在が希薄になっていくのがわかる。咲もそれを見ると自分の左手を絡めた。


「旦那様、お気を確かに」

「うむ」



   ◇ ◇ ◇


 主人公とヒロインは馬を飛ばしてサンクトペテルブルクへと向かった。傷はまだ癒えていない。広大な大地を半月かけての大移動である。

(俺は死ぬかも知れない。しかし、この使命は果たさなければならない)口には出さないが主人公の心の中には覚悟ができている。

(何が起ころうと、私は最後まで支え続ける)ヒロインの覚悟もまた固まっていた。


 サンクトペテルブルクに着くと、そこには人の姿はなかった。女子供は生け贄とされ、男はバケモノの姿に変えられている。一体一体倒していくが、これではキリがない。

「皇帝を倒さねば全人類が滅ぼされる」そう悟った二人は宮殿へと向かった。


   ◇ ◇ ◇



 俺の左腕が完全に消滅した。痛みに耐え続けたせいで息が荒い。咲は体のバランスをうまく保てなくなった俺を左腕で抱きかかえて支えてくれている。


「筆魔。筆を咲が持つのはかまわないか?」

「問題ございません。ただし、咲様は中川様に常に触れていてください」

「よし、次は右手をくれてやる」

「旦那様、右手がなくなる前にもう一度だけ……」


 咲は俺を抱き起こすと、上半身だけとなった俺を抱きしめた。俺もそれに答えるように残った右腕を咲の背中に回した。そして、しばらくお互いの鼓動を確かめるようにじっと抱きしめ合った。


「続けましょう」

「ああ」


 咲は筆を握った。その横で仰向けになった俺は続きの展開を頭に思い描く。咲の左手は俺の胸元にある。



   ◇ ◇ ◇


 宮殿の玉座の間。きらびやかな装飾が施された部屋で悪魔は玉座に座っている。首都にいる人間は全てバケモノに変えたのだろう。これらを東に向かわせるか、それとも西に向かわせるかを思案している。

 そこに主人公たち二人が現れた。


「お前がクロパトキンに手傷を負わせたのだな。いい面構えだ。その女を生け贄に捧げて朕の側近にならんか?」

「断る! そうして女達を生け贄にして、男たちをバケモノに変えて、行き着く先は人類滅亡ではないか!」

「ならば、死ぬがいい」


 悪魔が立ち上がった。抜刀して身構える主人公たち。しかし、悪魔は平然とした表情で右腕だけをすうっと肩の高さまで持ち上げた。そして、ゆっくりと手のひらを二人に向けた。

(ドン)という音と共に衝撃波が二人を襲う。主人公はかろうじて踏みとどまった。しかし、ヒロインは吹き飛ばされて壁に激突してしまった。

 一瞬後方に気を取られた主人公のわずかな隙をついて悪魔が急激に距離を詰める。主人公がはっとした表情をした時にはもう遅かった。悪魔の手刀が横殴りに主人公を吹き飛ばした。

 悪魔はヒロインに近づいていく。


「血を捧げよ。それで愛する男が強大な力を得るのだ。女としては本望であろう?」

「やめろ!」


 主人公が渾身の力を込めて後ろから悪魔を斬り裂いた……と感じた刹那に悪魔は姿を消した。

 

「お前は大人しくしていろ」


 後ろから声がした。振り返ろうと思う間もなく、再び悪魔の手により主人公は横に吹き飛ばされて壁に激突した。

 更に悪魔はヒロインに近づき、目の前に立つと右手を差し出した。ヒロインは呆然とした表情のまま立ち上がった。


「心臓を……捧げます……」


 両手で悪魔の手首を掴み、自分の左胸に導いた。


「や……め……ろ……」


 主人公の声はヒロインには届いていない。ヒロインは静かに目を閉じた。


「健気な女だ。お前はアンデッドとして蘇らせたあと、あの男とまぐわあせてやろう」


 悪魔の左手がヒロインの肩にかかり、今にも右手が心臓を抉り取りそうになったその瞬間、ヒロインがかっと目を見開いた。


「食らいなさい!」

「ぐわぁぁぁ」


 ヒロインが隠し持っていた銀の短刀が悪魔の左目に突き刺さった。よろよろと後ずさる悪魔に主人公の刃が襲いかかる。

 (ザクッ)という肉と骨が断ち切られた音が玉座の間に鳴り響いた。


「おのれ! 人間ごときが! 悪魔の頂点に君臨するこのサタンを倒そうというのか」


 悪魔は振り返ると両手で主人公の首を絞めた。

 しかし、主人公はひるまない。むしろ悪魔に体を密着させると羽交い締めにした。


「俺ごと刺せ!」


 主人公の叫びに反応したヒロインは悪魔を串刺しにした。


   ◇ ◇ ◇



 書き終えた。俺の体は両腕がすでに消滅し、胴体は胸のあたりまで消えかかっている。まだ、体が残っているのは、筆魔が残しておいたからだろう。全てを食べてしまっては話を書き進めることができないからだ。小説が完結すると捕食が再開された。

 咲はその様子を見て俺に覆いかぶさると、名残惜しいように顔を覗き込んだ。


「どうやら完結できたようだ」

「お疲れ様でした。旦那様」

「この小説の権利はお前に全てを譲る。机の引き出しに遺言が二通ある。ひとつは雑誌社の黒田宛、もうひとつはお前の叔母宛だ。二人に任せておけば、うまく取り計らってくれるだろう」

「お金などいりません。ただ、この原稿は旦那様だと思って一生大切にいたします」

「好きにしろ」


 もう思い残すことはない。俺は自分の生きた証をこの世に残せた。

 咲はぽろりと大粒の涙をこぼした。


「また、私は一人になってしまいます。やっと……やっと家族ができたと思ったのに……」

「叔母さんがいるではないか」

「叔母はいい人です。でも……」


 咲の叔母には実の娘もいる。やはり咲は遠慮のようなものを感じてきたのだろう。

 しかし、咲はすぐに気を取り直したように笑顔を見せた。


「もう愚痴は言いません。私にはこの原稿があるんです。これを読めば、いつでも旦那様と会えます」


 筆魔の侵食は肩にまで達した。不思議なことに心臓を食われても俺は生きている。普通に肉体を失うのとは仕組みが違うのかも知れない。食われるというよりは筆魔の支配下に入るという感じか。しかし、首まで食われれば、いよいよ喋れなくなるだろう。


「そろそろお別れだ。お前と暮らすようになってからは楽しかった」

「ありがとうございました」


 あごが食われようとした時、咲は俺にそっと口づけをした。そのままじっと動かずにいる。

 口がなくなり、鼻がなくなり、目がなくなる。美しい咲の顔もこれで見納めだ。


 いよいよ脳がなくなる。これで考えることもできなくなる。

 最後に俺は考えた。


 ああ、短かったが、いい人生だった


以上で完結です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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