3 咲という女
翌月。俺は日本橋へ向かう人力車に揺られている。内臓の一部を失ってから、俺は体力が大きく落ちたのを感じている。何をするにも息が切れる。体が重い。雑誌社まで歩いて移動するのが酷く億劫だ。これからは移動に人力車を多用することになるだろう。
新大橋にさしかかった。一つ上流側に架けられた両国橋は昨年に鉄橋に架け替えられた。しかし、この橋はまだ木造だ。俺は真新しい両国橋よりもこちらの橋のほうが趣があって好きだ。あえてこの橋を通るように頼んだのだ。
平日の朝である。仕事場や学び舎へ向かう者ばかりで、のんびりと散歩をしているような人は見えない。人々の顔には自信のようなものが見える。旅順におけるロシアとの戦いは日本の勝利に終わった。やはり大陸での戦争が有利に運ばれているということが一般大衆の意識にも影響を与えているのではないか。
しかし、それはあくまで序盤戦である。日本軍が被った損害も大きい。戦争では例え勝利を収めたとしても無傷というわけにはいかない。そこを考えないで何が戦争だ。
俺の作品も主人公の勝利、勝利で書いてきたが、そろそろ負傷させてもいい頃かもしれない。幸い筆魔との取引のおかげで痛みに対する描写ならいくらでも書ける気がする。
などと考えているうちに雑誌社に到着した。編集室内は相変わらず活気を見せている。挨拶すると当たり前のように応接室へ通された。以前ならば、原稿を預かって終わりだったところだ。
「お忙しそうですね」
「ええ。ロシアとの戦争もだいぶ動きがあるようです。旅順よりももっと奥地の奉天で大きな衝突があるようです」
「そうですか。私の小説も舞台を奉天に移さないといけませんね」
「あとで記者からの報告の写しをお渡ししますよ。ところで中川先生、足の具合はどうですか?」
どう答えたらいい? まだ痛いといえば医者を紹介されるかもしれない。断るわけにはいかないだろう。しかし、この足を医者に見せるのはまずい。
「痛みはだいぶ引きました。まだ歩くのには支障がありますが」
「気をつけてください。今日は顔色も良くないようです」
担当編集者は思い切ったように切り出した。
「先生、引っ越しをしてはいかがですか? 一度お伺いしましたが、あの長屋はお世辞にも快適とは言えませんよ。あそこで長時間正座をしていたら足に良いわけがありません。私がよいところを探しますよ」
「はぁ」
なんともマヌケな声をあげてしまった。引っ越しか。まさかそんな提案が出るとは思わなかった。
しかし、これは良いかも知れない。確かに今の住まいは褒められたものではない。なにより寒くて仕方がない。
「よろしくお願いします」
俺は彼に全てを任せることにした。
それから十日ほど経った頃、雑誌社から使者が来た。いい引越し先が見つかったらしい。下見をしてくれということだ。案内されるままに行ってみることにした。
行ってみると何のことはない、雑誌社まで歩いて十分ほどの場所だ。平屋建ての一軒家。六畳の部屋ふた部屋と同じ大きさで絨毯張りの洋室がひと部屋。六畳一間の今の住まいとはまるで違う。なにより大きいのは風呂があることだ。これまでは銭湯へ通っていた。足の指を失ってからは濡らした手ぬぐいで体を拭いて済ませていたのだ。
黒田が先に来ていて、大家らしい中年の女性と話をしていた。その後ろには若い女性が会話に加わることもなくぽつんと立っている。
「どうです、中川先生? 家賃は四円だそうです。今の原稿料なら十分払えるでしょう」
「ちょっと広すぎやしませんか? 三部屋も要らないなぁ」
「将来的にご家族ができたらこれくらいの部屋は必要ですし」
なんとも気の早い男だ。そんな間柄の女性など候補すらいないのに。
「それに執筆活動は洋室でやればいいと思うんです。それなら椅子に座って書ける」
「なるほど」
足のことまで気遣ってくれているわけか。雑誌社に近いというのも同じ配慮なのだろう。
「それとね、身の回りの世話をするものも必要だと思うんです」
黒田はちらりと後ろを見た。大家の後ろに控えている若い女性。歳は二十歳前後か。うつむき加減に視線を床に落として、じっと立ち尽くしている。淡いあずき色の和服に身を包み、肩のあたりまで伸びた艷やかな黒髪を首の後ろで束ねた姿はあくまでも控えめだ。
大家が紹介した。
「咲といいます。さあ、ご挨拶なさい」
咲は無言のまま軽く会釈した。
「ふふふ、すみません。引っ込み思案な子でして。でも料理も得意ですし、掃除も洗濯も家事は一通りこなします」
親子だろうか。しかし、どうしたらこのおしゃべりな大家からこんな無口な娘が生まれるものなのか。
「文字の読み書きはできますか?」
「……(こくり)」
「もう、何も言わなかったら伝わらないでしょうに。この子は読み書きそろばんを初め、学問も一通り出来ますわ。なんでしたっけ、最近流行りの小説も読んでますし……」
「小説ですか。私も物書きでして。今は何を読んでらっしゃるのですか?」
「……舞姫を」
森鴎外か。文体は古臭いが、名作だ。海外留学した主人公が現地で美しい女性と出会い、交際する話だ。感情を表に出さないこの娘も内心は恋に焦がれることもあるのだろうか。この清らかな娘が恋に狂ったら一体どんな表情を浮かべるのか見てみたい気もする。
「できれば、提出前の原稿の誤字脱字を指摘してくださると助かるなぁ」
「……(こくり)」
「あははは、なんでも申し付けくださいませ。できますとも」
その後も色々と尋ねたが、結局は母親と会話しているようなものだった。
とにかく、俺はその場でここに引っ越すことに決めた。