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2 はらわたを捧げる

※この時代の1円は現在の2万円ほどの価値です。

 翌朝、俺は早起きして雑誌社へ向かった。普段ならば歩いて三十分ほどの道のりである。

 しかし、今日は違った。足の指がないだけでこんなに歩くのが困難になるとは思わなかった。物につかまりながら、やっとの思いで歩いて行く。


「号外! 号外! 我軍が旅順要塞を占領!」


 号外が配られている。どうやらロシアとの戦争は局面が大きく動いたようだ。

 俺はほくそ笑んだ。旅順で勝利を収めた日本軍。同じく旅順でバケモノを退治した俺の小説の主人公。ちょうどいいタイミングで一致しているじゃないか。


 ようやく雑誌社に到着した。約一時間。普段の倍の時間がかかったことになる。


「おや、中川さんじゃないですか。どうしました?」


 黒田が驚いた顔をしている。昨日原稿を受け取ったばかりなのになぜまた来たのかと思っているのはもちろんだ。しかしそれ以上に、俺が物につかまってようやく歩いている姿に驚いたようだ。その視線は俺の足に釘付けになっている。もっとも、靴の中の足がどうなっているのかなんて外からは分からないだろう。

 いや、足などどうでもいい。まずは作品だ。


「実は例のバケモノ退治の話の続きが思いついて、昨日一気に書き上げたんです。読んでもらおうと思って」

「いや、それより足はどうされたんです?」

「長々と正座していたのがいけなかったんですかね。痛みが……」


 俺は咄嗟に嘘を吐いた。まさか作品のために足の指を売ったとは言えまい。

 

「それより原稿を読んでもらえませんか。今回のは自信があるんです」


 黒田は戸惑った様子で原稿に目を落とした。

 しかし、その表情も一枚目の原稿用紙を読んでいる間にみるみる変わっていく。あっという間に読み終えて二枚目へ。紙をめくる時間も惜しいとばかりに三枚目へ。四枚目、五枚目……。

 ついにすべて読み終えた。その間、俺はずっと立ったまま待たされていたわけだが、読むのに夢中になっていた黒田にはそれを気遣う余裕もなかったようだ。俺の方へ向き直ると切り出した。


「中川先生、今後の方針について奥でお話しましょう」


 俺は黒田に案内されて応接間に通された。初めて知った。こんな部屋があったとは。


「まあ、座ってください。中川先生、今回の作品は前回を上回る面白さです。正直驚きました」

「そうですか。それは良かった。苦労して書いた甲斐があったというものです」

「先生、この作品を一年連載しましょう。完結したら書籍化するのです。この内容なら確実に読者がついてきますよ」

「それは願ってもない話です。ところで、申し訳ないのですが、原稿料を前借りしたいのです」

「昨日もそうおっしゃっていましたね。余程お困りの様子ですね」

「実は借金がありまして、今日返済しなければならないのです」

「今月は二つ原稿を提出していただいたのです。前借りなどと言わず、そのままお支払いいたしましょう。で、借金というのはおいくらなんですか?」


 俺は正直にそのまま答えた。


「残りがあと五十円です」

「では、その額を今回の原稿料といたしましょう。帰りは人力車を呼びますので乗ってお帰りください。その足では大変でしょう」

「では、お言葉に甘えてそうします」


 驚いた。五十円といえば俺にとっては半年くらいかけてやっと稼げる額だ。それを一括でくれるというのだ。良い作品を生むとこんなにも待遇が違ってくるのか。



 自宅へ戻るとそのまま文机の前に座り、例の筆を手に取った。

 二つ返事で連載すると答えてしまったが、果たして可能なのだろうか。今日提出した原稿は筆魔の力を借りて書き上げたものだ。しかし、これからは俺一人で書かねば連載などは不可能だ。奴の力を使って書いていては俺の肉体が消滅してしまう。


 考えていると、誰かが玄関の戸を乱暴に叩いた。昨日の借金取りだ。


「先生、返済を受け取りにまいりました」


 俺が玄関に顔を出すと、男は昨日と同じようにニヤリと笑う。

 俺は男の顔を覗き込んだ。これだ。この刃物を真綿で包んだような危険な笑顔。これを文章化して脳裏に焼き付けたい。主人公を目の前にしてニタリと笑うバケモノにこんな表情をさせたらどんなにか恐ろしいか。しかし、まだ甘い気がする。


「実はこれまでの借金を全部今日返済してしまいたいと思っている。いくらだったかな。三十円くらいか?」

「ご冗談を。それでは元本のみです。ご存知でしょう? 借金というのは利子の支払いも含むんですよ」


 男は少し暴力を覗かせつつも笑顔を保っている。バケモノの笑顔としてはこれくらいがちょうどいいかもしれない。


「では、利子も合わせてどれくらいだ?」

「五十円です」

「それは不当だろ。元本と利子が大して変わらないじゃないか」

「いやいや。これはちゃんと借用書にも書いてあることです」


 男の表情が変わった。どうせならば怒りを見せたバケモノの表情も見ておきたい。俺は更に煽る。


「それが不当というのだ。そんな暴利をむさぼる奴があるか」


 怒れ。もっとバケモノじみた表情を見せてくれ。


「おい! 下手に出てれば付け上がりやがって! 借りたもんを利子をつけて返すのは当たり前じゃねぇか。出せねぇっていうなら指を差し出せと昨日も言ったよな! 忘れたとは言わせねぇぞ!」


 俺は男の目を見つめた。怒りが十分に満ちている。大勢の日本兵を食い殺して暴れまわるバケモノの表情はこれだ。眉間にはしわが寄り、こめかみには血管が浮き出ている。顔は真っ赤になって、息も荒くなっている。まだ食い足りねぇ、おめえも食い殺してやるという狂気の表情。俺は脳内のノートに男の表情を書き記した。


「悪かった。五十円だな。今すぐ払う」


 俺は懐から札束を取り出した。

 実際、不当だとは思う。しかし、これだけ観察させてもらったのだ。モデル料だと考えれば納得できない額ではない。


 男はキツネにつままれたような表情で金を受け取った。出来れば敗北感に打ちひしがれるバケモノの表情も引き出したいところだが、この状況では難しいだろう。とにかく、これでこの借金取りとも縁を切れるのだ。良しとしよう。


 もうこの男に用はない。俺は何か言おうとしている男を放置して、すぐに文机に向かった。あの表情の記憶が鮮明なうちに文章にしてしまいたい。



 ところが、納得行く文章が作れない。さきほどはしっかりとした文章として脳内に記憶したつもりだった。しかし、いざ紙に落としてみると陳腐な表現に思えて仕方ないのだ。

 紙に書いてはクシャクシャに丸めて捨てる。また苦悶の表情で紙に記していく。それを何度も繰り返すが一向に文章はまとまらない。

 ここで、おれの脳裏にひとつの考えが浮かんだ。


(腎臓は二つある)


 俺は文机に取り付くと筆を取り出して筆魔を呼び出した。


「腎臓一つで文章はどれだけ書ける?」

「腎臓ですか……内臓を切り売りしようと考えた方はお客様が初めてでございますな。しかし、腎臓一つではそれほどの支障があるとも思えず……」

「これで最後ではない。ちょっとはまけておけ」

「どうでしょう。片方の肺も合わせて一万文字ということでは?」

「わかった。それでいい」


取引は成立した。


「どのような文章になさいますか?」

「激しい戦闘だ。相手は人喰いのバケモノ。多くの日本兵を食った。次はもっと生きのいい獲物が欲しいと主人公に襲いかかる」

「人を丸呑みですか? それは相当大きな口ですな」

「そうだ。頭全体が口のようなバケモノだ」

「その前に戦いに至る過程を書かなければなりませんが……」

「わかっている。はじめるぞ」


 俺は新しい原稿用紙を広げた。物語を頭に思い浮かべる。



   ◇ ◇ ◇


 旅順陥落に歓声をあげる日本兵たち。一方、ロシア兵たちのあいだには、降伏に激昂する者、落胆する者、内心ほっとする者、様々な表情が見られる。

 そんな中、一人のロシア軍将校が自室で怪しげな魔法陣を床に描いて儀式を始める。まばゆい光が部屋全体に広がり、その中から現れたのは一体の悪魔。黒い肌に赤い目、頭からは山羊のような角が伸びている。背中には黒い羽。その羽をバサバサと羽ばたかせながら将校に何が望みかを尋ねる。

   

   ◇ ◇ ◇



 俺の想像に従って筆が走り始める。と、同時に腹に強烈な痛みが起こった。何かネズミくらいの大きさの生き物が俺の内臓を食い破って暴れまわっているような感覚だ。


「ぐっ!」


 右手に力を込めて筆を離さないように必死に耐える。左手は腹に当てて押さえた。しかし、体内で暴れまわるものをとうてい押さえられるものではない。だが、ここで気を失ってしまえば全てが無駄になる。なんとか正気を保ちつづける。何も知らないものが今の俺を見たら、悪魔に乗り移られたと思うかも知れない。全身をプルプルと震わせながらも懸命に思考を巡らせる。



   ◇ ◇ ◇


 将校が望んだのは自分に日本兵を皆殺しにできる力を与えて欲しいというもの。しかし、悪魔は生け贄を要求する

 そこで将校の頭に浮かんだのは美しい妻。透き通るような白い肌。宝石のような青い瞳。愛らしい赤い唇。金色に輝く長い髪。それらを思い浮かべて将校は戸惑う。

 悪魔は将校の脳裏に浮かんだものを読み取り、それならば生け贄として申し分ないと低い声で告げる。

 待ってくれと言うまもなく、将校の姿は醜いバケモノの形に変貌していく。顔全体が口になっているバケモノ。縦に裂けた口からは無数の牙が生えている。体は熊のように全身が茶色い毛で覆われ、唯一原型をとどめているのは頭から生えた金髪だけだ。

 バケモノと化した将校は外に飛び出して、日本兵を次から次へと襲って食べていく


   ◇ ◇ ◇



 ついさっきの俺の試行錯誤が嘘のようにスラスラと文章が出来上がっていく。その出来に疑問の余地はない。

 俺は少し休憩した。息が苦しい。先ほど俺の体内で暴れていたものは少し上に位置を移したような気がする。全身が汗でびっしょりと濡れている。しかし、なんとか気を失わずにやれている。もう少しだ。

 俺は大きく息を吸い込むと思考を再開した。



   ◇ ◇ ◇


 主人公とバケモノが対峙する。バケモノの口には日本兵の腕が引っかかってぶら下がっている。もはや人間の言葉は発していない。しかし、バケモノの表情が「この人間はうまそうだ」と語っている。その笑顔は先ほど俺が見た借金取りの表情そのものだ。

 辺りに無残に広がっている仲間たちの遺体を見て、主人公の怒りが爆発する。刀を鞘から抜き去ると一気に間合いを詰める。そのままの勢いで抜き打ちに斬り払って、バケモノの後方まで駆け抜ける。バケモノは長く鋭い爪で受け止めようとするが、全く間に合わない。左腕を大きく切られて怒りの表情を浮かべる。


   ◇ ◇ ◇



「そう。この表情だ……」


 怒り狂ったバケモノの表情。筆が記した文章は俺が記憶したあの男の怒りの表情を見事に表現している。危険を犯して借金取りを刺激したかいがあったというものだ。

 俺はそこから一気に書き切った。これで来月提出分の原稿も完成した。そう思って気を弛めた瞬間に意識を失った。

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