1 最初の生け贄
ペンが走らない。俺は頭を掻きむしった。
東京の下町・両国にある家賃が安いことだけが取り柄の長屋。建てつけの悪い戸の隙間からは寒風が吹き込んでくる。火鉢もない閑散とした部屋に置かれた文机はひんやりと冷たい。
世は日露戦争の真っ最中。清国の次はロシア帝国を破るのだと景気の良い話が飛び交っている。そんな中、俺の周りだけ不景気だ。
大学を卒業して売れない小説家になった。二十七歳になった今、なんとか食っては行けているといった状況だ。
先々月はシベリアの大地へ向けて出征する兵士と恋人の話を書いた。あれはしみったれた話で不謹慎だと苦情が来たそうだ。それならばと、先月は旅順に現れたバケモノを勇敢な兵士が退治する話を書いた。そこそこ受けたらしい。
雑誌の読者というのは阿呆なのかもしれない。いるわけのないバケモノの脅威より恋人との別れの方がよほど身につまされる話題じゃないか。
そして、新年を迎えた今月はその続きを書けと雑誌社の担当から言われている。書けるわけがない。あれはあれで完結したのだ。第一、俺が書きたいのはそんな架空のおとぎ話じゃない。
しかし、いよいよ食うに困ってきた。書かねば食っていけぬ。いざとなったら親父の形見でも売らなければならないかもしれない。俺はふと押入れに目をやった。
「いくらで売れるかな」
俺は押入れから親父の形見を取り出し文机の上に置いた。桐の木の箱に恭しく収められた墨と硯と筆。なんでも平安時代の品物らしい。とは言え、先祖代々伝わる品などではなく、親父が骨董屋で買い求めたものだから眉唾物だが。墨には金箔で漢文が記されており、硯には龍の模様が彫られている。しかし、筆だけは地味だ。
「こいつは偽物っぽいな」
俺は独り言を言いながら、筆を手に取った。何の変哲もない竹の軸に白い毛。すでに使われていたものらしく、先端部分は黒くなっている。この墨の残り具合だと、ちゃんと手入れがされていたのかも怪しい。
空中を大きな紙に見立てて筆を左から右に払ってみる。すると……。
「偽物とは失敬な」
「うわぁ!」
驚いた。筆の軸から腕が二本左右に伸びた。軸の先端からは顔が飛び出した。俺は思わず筆を放り投げた。
「痛たた。投げるとはなにごとですか」
「なんだ、こいつは」
「私は筆魔。筆に宿る妖怪でございます。以後、お見知りおきを」
そう言うと、筆魔は空中にフワフワと浮かんだまま下卑た笑いを見せた。言葉は丁寧だが、見た目の不気味さは拭えない。
「筆が進まぬとお困りのご様子ですな。私にお任せください。歴史に残る名文をしたためてご覧に入れましょう。なぁに、お代はあなた様の体の一部をいただくだけです」
俺は思わず後ずさった。こいつは俺の体を乗っ取ろうというのか。
「体の一部? 馬鹿を言え。そんな恐ろしいことができるものか」
「もったいない。いただくと言ってもほんの一部です。それで歴史に残る名文を後世に残せるのですよ。安いもんじゃありませんか。曲亭馬琴様などもお得意様でしたよ」
「馬琴? 南総里見八犬伝の滝沢馬琴か」
「ええ、あの方は思い切ったことをなさいましたな。目を提供くださった。他の者に書かせるから口さえ動けば良いと」
そういえば聞いたことがある。滝沢馬琴は晩年に失明して、口述筆記で南総里見八犬伝を完成させたと。
「目など渡せるもんか。第一、俺には代わりに書く者がいない」
「それは名目でございます。書くのは私。あなたは頭で考えるだけでよろしいのです。しかし、妖怪に書かせたと世間に広めるわけにはいきませんでしょう?」
「とにかく、俺は自分の体を売り渡すなど考えていない」
「今はお入り用ではないと? では、しばらく休んでおりましょう。お取引くださる気がおこりましたなら、いつでもお呼びください。」
困惑している俺に一言言い残して筆はぽとりと文机に落ちた。
指でつついてみたが何も反応はない。疲れて幻覚でも見たのだろうか。俺は恐る恐る筆を手に取った。まったく普通の粗末な筆だ。しかし、何か薄気味悪さを感じた。こいつは早いところ売ってしまった方が良いかも知れない。
翌日。俺は日本橋にある雑誌社へ原稿を届けに赴いた。社内には十人くらいの人間が動き回っている。大陸から戦況を報告する電信が届いたらしく、慌ただしくやり取りが行われている。
俺は自分の担当者をその中から探して近づいた。
「黒田さん、これが今月分の原稿です」
内容は担当者の要求した話の続きではない。あらかじめ書き溜めてあった話だ。
黒田は原稿の出だし部分だけをちらりと読んで眉をひそめた。
「中川さん、私は先月の続きを書くように言ったはずですが?」
「あれは続きが思いつかなくて……この話だって面白いはずです。戦場で戦う息子と故郷でそれを思う母親の物語です。同じ境遇の人が読んだら、きっと共感が……」
「今はそんな話は求められていないんですよ。困ったなぁ。先月の話は休載ということにしておきますか」
黒田が苦虫を噛み潰したような顔をしている。しかし、俺はそれでも切り出しにくい話をあえてしなければならない。
「原稿料を前借りすることはできませんか?」
「またですか? 先月はあの話の続きならと考えて原稿料を先にお渡ししたのです。続きでないなら、先になどお渡しできませんよ」
困ったことになった。俺は肩を落としながら家路についた。
家に着いてからも俺は暗澹たる気持ちを拭い去れないでいた。文机の上には親父の形見がポツンと置かれている。
頭を抱えながらじっと見つめた。
すると乱暴に戸を叩く音が部屋に響いた。来たか。
俺は恐る恐る玄関の戸を開いた。
「先生、返済の期日が来ました。今日は原稿料が入る日ですよねぇ」
男は俺の顔を見てニヤリと笑った。俺を『先生』と呼んでくれるのはこのガラの悪い男くらいのものかも知れない。しかし、その笑顔の底には暴力の影が見える。
「ちょっと待ってくれないか。今は持ち合わせが無いんだ」
俺の一言を聞いて、男の態度は豹変した。俺の胸ぐらを左手で掴むと壁に押し付けた。そして、右手に持った短刀を鞘から抜くと俺の顔の真横に突き立てた。
「待てだぁ? なら、指を一本貰おうか。両手の指十本で十ヶ月は待ってやれるぞ。もっとも、物書きのあんたが指を持って行かれたら仕事にならんがな」
俺は男の目を見つめた。こいつは本気で言っているのだろうか。目を合わせても男は視線を逸らすことはない。放っておいたら何をするかわからない危うさ。俺は底知れぬ恐ろしさを感じて震えた。先ほど感じた笑顔の底にある暴力の影はこれだったのだ。
「あ、明日また来てくれ。まだ原稿を提出してないんだ。明日にはきっちり今月分を払う」
「そうですか。先生、それならそうとおっしゃってくれればいいのに」
また、男の態度がガラリと変わった。男は短刀を鞘に納め、帯に挟むと両手で俺の胸元の乱れを直した。
「それでは、また明日来ます」
獲物を前にして舌なめずりするような不気味な笑顔を残して男は去っていった。
再び文机に向かうと頭を抱えた。待つだけで指一本だと? 妖怪より人間のほうが余程タチが悪いじゃないか。
俺は筆を取り出した。そして、覚悟を決めると宙に文字を書いた。
「まいどありがとうございます」
筆魔が現れた。昨日は驚いたが今日は自分の意志で呼び出したのだ。不気味ではあるが、恐ろしくはない。俺はじっとこの妖怪を観察した。こいつの笑顔のほうが先ほどの借金取りよりもはるかに愛嬌があると思える。
「指一本でどれくらいの文章を書ける?」
「さよう。指と言っても、手の指と足の指では価値が違います。足の指では文章を書けませんからな。足の指ならば一本千文字。手の指、それも利き手の指ならば一本一万文字といったところです。利き手でなければその半分ですな。」
「ならば、足の指を十本くれてやる」
「かしこまりました」
俺は投げやりになっていた。あんな悪魔のような男に指をくれてやるくらいなら、この妖怪にくれてやって名文をこの世に残してやる。
「では、どんなお話にいたしましょうか」
「英雄の話だ。旅順に現れたバケモノを屈強な日本兵が倒した。それが先月書いた話。その続きを書きたい」
「では、新たなバケモノが必要ですな。そのバケモノは死んで後に怨念を残した。その怨念がロシア兵の死体に乗り移り、夜な夜な暴れ回るというのはどうでしょう?」
「いいな。前回の功績を讃えられて乃木大将から直々に日本刀を賜る。それでバケモノを倒すということにしよう」
「よろしいですな。では、私を持って、頭の中で場面を浮かべてください」
言われるがままに脳内で登場人物を動かす。
◇ ◇ ◇
まずは、乃木大将から刀をいただく場面だ。刀は美しい光を放つ見事なものだ。柄も鞘も黒にして、刀のまばゆさと対称的にしよう。主人公は拝領した刀を左腰に押し当ててみる。すると全身になにか力のようなものがみなぎるのを感じる……。
◇ ◇ ◇
ここまで考えたところで、俺の意志とは無関係に筆が動き出した。不思議なことに墨をすっていないのに筆は黒々とした文字を原稿用紙に記していく。
しかし、それと同時に俺の両足のつま先に猛烈な痛みが走った。俺は思わず、あぐらをかいている足の指を左手で押さえた。
「ぐわぁぁ! 俺の足を……食っているのか!?」
「ああ、考えるのを止めないでください。一気呵成に書き上げなくては文章に勢いが生まれません」
「だ、だが……」
「これくらいは我慢なさいませ。書き終われば痛みは収まります」
脂汗を流しながら痛みを懸命にこらえる。気を抜けば意識を失いそうだ。俺は息も絶え絶えになりながらも更に続きを思い浮かべる。
◇ ◇ ◇
その夜、ロシア兵の遺体に怨霊が取り憑き、鬼となる。鬼はロシア軍の軍服を身にまとっているが、角と牙が生えていて、目は赤い。もはや人ではないので獣のような咆哮を上げている。それが日本軍の陣地を襲うのだ。主人公がそれを迎え撃ち、壮絶な戦いが始まる……。
◇ ◇ ◇
三十分ほど経って文章は出来上がった。俺は筆を放り出すと畳に大の字になった。長い距離を全力疾走してきたかのように大きく肩で息をする。畳には大粒の汗が滴り落ちた。
「ふむ、なかなかの名文ですな。これは面白い。一万文字を少し超えましたが、超えた分はお近づきの印に差し上げるといたしましょう」
筆魔の奴め。出来上がった文章にしか興味がない。俺の体などどうでもよいという口調だ。
上半身だけ起き上がって、足元を見た。俺の足の指は消滅していた。あれだけあった痛みが今は全く無い。見たところ、切断されたのではないようだ。存在自体がなくなった感じだ。幽霊の足がないのと同じように両足のつま先が薄ぼんやりしているのだ。
手を当ててみる。もちろんつま先があったはずの部分が手に感触を与えることはない。指の付け根であった部分はふんわりとしていて、手応えがない。はっきりとした皮膚や肉のような感触がまるでない。
俺は原稿用紙を手に取って読んだ。
面白い。おそらくこんな文章は筆魔の力を借りなければ作り出せないだろう。ただ、自分がこの作品の素晴らしさを感じ取れたのは嬉しかった。俺には作品を正しく評価する力があると確信を持てた。
文章を最後まで読み終わるのに苦労はなかった。むしろ、あっという間の時間だった。これならば売れる。確信を持ったところで俺の手から力が失われ、ハラリと原稿用紙が落ちた。そして、そのまま眠りについてしまった。