一話 「悪夢再来」
夜が来る、もう二度と思い出したくない過去を連れて、忘れてはいけない現実を連れて。誰かの安息の夜は少年にとって後悔の夜。暗闇の中で目を閉じるたびに深い深い闇に魂だけがどこまでも落ちていくような感覚がする。目を開いてもそこにあるのは闇、部屋の角がやたらと暗く感じるのは気のせいだろうか?
それは少年の誕生日の事だった。いつもは帰りが遅い父も帰ってきており、久しぶりに家族揃っての食事という事で母が腕によりをかけて作った料理がテーブルには所狭しと並べられ、妹と少年ははしゃいでいた。
幸せな空気に誘われたのか『あいつ』は突然リビングの窓を突き破って現れた。今日でなくとも良かっただろうに、よりによってこの日に狙ったかのように『あいつ』が来てしまった事は一人の少年を深く傷つける事となった。
「逃げるんだ! 早く!」
響く父の声が少年の鼓膜を突き抜ける、早く逃げ出したいと心が叫んでいるはずなのに少年の足は動かない。
妹は床にへたり込んだまま動けない少年の手を握って震えている、守らなくてはいけないのだ兄として。
「早く!」
母が兄妹の手を握って走り出そうとした瞬間、父が『あいつ』の手によってあっさりと紙を破くように
悲鳴も上げる間もなく二つに分けられたところを少年は見た。
『あいつ』はどうやら生きている人間を標的にしているらしい、動かなくなった父に興味を失くしたのか醜く歪んだ鋭利な爪を振りかざし『あいつ』は向かって来た。
爪は脆く弱い兄弟に向かう、柔い肉に爪を突き立て、細い骨を折り、ぷるりとした美しい内臓を引きづり出す事を『あいつ』は望んでいたに違いない。
「あ……」
その望みは兄弟の母によって防がれる。母は兄弟の前で胸を貫かれ床に倒れこんだ、口から塊のような血を吐き出し、僅かに痙攣した後に母は残された兄妹の手を少しだけ握ると動かなくなってしまった。
少年は妹の手を引いて玄関に走り出した、少年が後ろを振り向くことは無い、それは少年に許された唯一の抵抗だ。
必死の思いで少年が玄関の戸に手をかけた時に手が急に後ろに引っ張られた、後ろを見ると『あいつ』の爪は妹の胸を母と同じように貫き地面まで深々と突き刺さっていた。
「お兄……ちゃ……ゖて」
妹の口から一筋の血と消えかけた言葉が流れ出した、小さい手は兄である少年の右手を握っている。
少年はここで死ぬべきだったのかもしれない、父と母と妹と。だが少年はーー逃げた。
冷たくなっていく妹の手を放し逃げ出したのだ。
走って、走って、走った。足の裏が擦り剝けて血が出ても構わずに逃げた、死にたくないという一心で。
結局生き残ったのは少年一人だけだった、残された少年の脳裏から離れずに時折夢にまで『あいつ』はやってくる。
あの声と共に。
「お兄ちゃん助けて」
血まみれの妹が少年の手を掴んだ。
あの時『あいつ』は確かに笑っていた。
「うわぁ!!」
ベットから彼が跳ね起きると目覚まし時計がけたたましく鳴っている、外は気持ちよく晴れていて窓からは温かい日差しが差し込んでいるというのに彼は背中にびっしょりと汗をかき、言いようのない気だるさを感じた。
「また……あの夢か……」
彼ーー剣崎康平はたびたび『あの時』の夢を見る、そしてその夢を見るたびに思う、これはきっと罰なのだと一人だけのうのうと生き残ってしまった自分への。
彼はこれと言った特徴の無い人間だ。短い黒髪に平凡な容姿、平凡な背丈加えて勉強ができるわけでもスポーツが得意なわけでもないどこにでもいる極々平凡な人間だ。強いて言うならば悲惨な過去を持っている事と時折見る悪夢によって跳ね起きる事ぐらいが特徴のようなものだ。
康平は時計を黙らせてから汗まみれの服を脱いだ。シャワーを浴びたいとも思ったが節水と登校時間が迫っていた事もあり手早く汗の始末を付けなければならない。仕方なく枕元に置いてあった制汗シートで体を拭うとひんやりとした感触が今日も生きているという感覚をくれる。
制服に着替え、トーストに目玉焼きといった具合に朝食を簡単に済ませてから、身支度を手早く済ます。
一人きりの部屋を出て少しさび付いた階段を降りるとそこには木下良子がいた。
「おはよう、今日も早いのね」
彼女曰く階段下の暗がりにはゴミがたまりやすいらしく、康平が出てくる時間はいつもそこを掃除している。良子の明るい笑顔に少しだけ救われながら康平は挨拶を返した。
「おはようございます」
良子は康平が今住んでいるアパートの大家で、早くに夫を亡くしてからは一人でアパートの経営をしているらしい。
程よい茶髪のショートカットの髪は快活な彼女によく似合っており、三十代半ばらしいがそれを全く感じさせない容姿は朝の掃除風景さえ近隣の住民の目の保養にするほどだった。
「そうだ、康平君。最近物騒だからあんまり遅くに帰ってきちゃだめよ? 昨日遅かったでしょ」
内心康平は焦った。バイトをいくつか掛け持ちしてると帰りも必然的に遅くなってしまう、だからなるべく音を立てないように帰って来ていたのだがどういう事かばれてしまったらしい、良子はたまにお節介が過ぎるのが傷だ。
「すいません、気を付けます」
「うんうん、ならよろしい。困ったことがあったら何でも言ってね。じゃいってらっしゃい」
頭を下げてから康平は歩き出す。次からどうやってばれずに帰ってこれるか悩みながら。家族を亡くしてから、これといって頼れる親戚などがいなかった康平は中学卒業まで養護施設に入っていたが高校入学と同時に施設を出た。
その後はバイトを掛け持ちして生活していた。国から補助を受けないかという連絡もあったが、康平はそれを断り続けている。
「おっ! 相変わらず速いな!」
あれこれ考えながら道を歩いていると後ろから声がした。金髪頭をツンツンと尖らせ屈託のない笑顔を見せる彼は太田博信、仲間内でノブと呼ばれている少年だ。
小学校からの付き合いで、『あの事件』でこの町の小学校に転校してきた康平に一番最初に声をかけた人物でもある。
人当たりがよく他人との間に変に壁をつくらない、彼は人付き合いの上手くない康平とは逆の立場にいながらもその関係は良好なまま今日まで続いている。
「おはよ、朝から元気だよなお前」
基本的に毎日をテンション高めでかつ気を使いすぎなくともいいノブの存在は康平には大きい、もしノブがいなければどうなっていたかを康平は真面目に考えた時期があったがその時は考えれば考えるほど良い結果にたどり着かず恐ろしくなり考えるのをやめた。
「おうさ! 俺はいつだって元気だぜ!」
そうやってなんでもない事を話しながら学校へ歩いて行く、そんな時にある話題が出た。
「なあなあ、お前知ってるか? バラバラ殺人の事」
朝の晴れやかな通学路に似つかわしくない物騒な言葉だったが、康平は良子の言っていた『最近物騒だから』という言葉を思い出す。
「いや、詳しくは知らないけどなんかあったの?」
「お前なぁ……テレビとか見ないのかよ!? 今じゃその話題で持ちきりだぜ?」
そう言われれば、バイト先のテレビでそれらしい事を言っているのが聞こえたが忙しかったためすっかり忘れてしまっていた。しかも家でテレビはほとんど見ない上に康平はスマホすら持っていない。
「昨日も駅の高架下で見つかったんだってよ、でさ......これはあくまで噂なんだけどな……」
ノブは声を潜めて康平に耳打ちした。
その日、康平はずっと上の空で授業を受けていた。数学の公式も、英語の文法も、国語の物語の内容すら何一つ頭に入っては来ない。ただ朝に聞いた言葉で頭がいっぱいだ。
「犯人は......人間じゃないらしい」
ノブにスマホを借りて調べるとネットにはこうあった。
ーー南原市ではここ一か月の間に十数件のバラバラ殺人事件が発生しており、その手口は残忍そのもので遺体はどれもズタズタで原型をとどめておらず、そのどれもが鋭利な刃物で切り裂かれた痕跡がある。そして被害者や犯行現場、時刻に至るまで共通点が一切なく捜査は難航しているーー
というのが大まかな事件の内容らしい、加えてなぜか知らないが必ず関連で『犯人は人間ではない!?』『巨大クリーチャー人間を襲う?』そんな質の悪い噂の域を出ない記事が出てくるのだ。
康平は『人間ではないモノ』が人を殺しまわっているなんて噂をそんなわけない、と容易く切り捨てられない自分が嫌だった。何度も何度もあの影がちらついて仕方ない。
あれこれ考えている内に授業は全て終わってしまった。帰りのホームルームで担任の教師が機械的に連絡事項を話す?
「えー、みんなも知っていると思うが最近起きている連続殺人の件で、犯人が捕まるまで部活動は無しだ。すぐに家に帰るように」
「康平ー、今日久々にあそこ行かね?」
クラスメイトが一人また一人と帰って行き、人もまばらになった教室でノブが声をかけてきた。特にこれと言った用事も無かったので康平はノブと『あそこ』に行くことにした。
「やっぱいい眺めだよな」
少し痛んだ木の柵に手をかけながらノブは町を見下ろす、ここは二人が初めて遊んだ場所の丘の上にある公園で、たどり着くには草に覆われた道を通るため中々に立地は悪い。
だが気分転換や時間を潰すときなどによく使っており、管理をしているおじさんが一人いるだけで人もあまりおらずとても落ち着く場所だ。
「こんなとこに来てていいのかよ? まっすぐ帰れって言われたろ?」
「いいの、いいのたまにゃあ来ないとここも寂しがるってもんさ、おじさんにも挨拶しようと思ったんだけどなあ……今日はいねぇみたいだな」
ノブのわけの分からない理論はいつも康平を笑わせた、学校の話を軽くした後で唐突にノブは切り出してきた。
「お前、朝の事と昔の事が気になってんのか?」
図星だった、ノブはこういう時にやたらと鋭いのだ。しかもまっすぐにこちらを見てくるから康平は隠し事ができない。
「まあ……な、どうしても色々考えるんだ、もう十年も前の事なのに」
「そうか……悪かったな考えなしにあんなデマ言っちまって」
ノブは康平の話を聞いて唯一信じてくれた友人、いや人間である。
康平は警察といった大人たちにあの事件の事を嘘偽りなく話したのだが、それに対して大人たちは憐れみと同情が最悪の形で織り交ざった視線で答える。
だがそれは常識のある人間なら至極当然の反応だが、当時七歳だった康平には何より辛い反応だった。
「気にしないでくれよ、それよりもうノブは進路決めたのか?」
「まだに決まってんじゃん! お前は?」
「まだかなー」
「一緒じゃねえか!」
そう言ってノブは康平の肩を拳で小突く。二人はもう高校二年生、そろそろ進路を決めなければならない時期に差し掛かっていたのだ。
ノブは先よりも今を楽しむタイプだったが康平はどうしても進路……というか自らの将来について何も考えられなかった。その陰には未だにあの時一人だけ生き残ってしまった罪悪感があった。
自分のような何のとりえも無い人間がどうして生き残ってしまったのかを康平が疑問に思わない日は無い。
「お前はさ、大体なんでも卒なくこなせるんだから何にだってなれるって!」
「そんなこと無いって、俺はさダメな奴なんだよ」
人としても兄としてもと言葉が続きそうになってしまい康平は慌ててブレーキをかけた。
「いいや! お前はすげえ奴になるさ! 例えば……神とか! 言ってみ俺は神だ―って」
ノブは万人に好かれてるわけじゃない、うるさいとかうっとおしいという奴も中には勿論いる。それでもそのうるささや、うっとおしいとも取れる行動一つ一つが暗く沈んでいた康平を救っていた。
「ほれ、言ってみろって! 俺は神だー!」
町を見下ろしながらノブは大声で神だという事をアピールしている、もちろん康平を巻き込んで。
手で煽るような仕草を取りながら康平が言うのを待っているらしい。高二になってやることではないがここまで煽られてはやらないわけにはいかない。
「俺は……」
康平が叫ぼうとした時だった、ノブの奥にある雑木林の中で何かが動いているのが見えた気がする。遠目でなおかつ日も落ちてきていたのでよく見えなかったがそれは人のように見えた。
「どうしたんだよ? なんかあったか?」
「いや……あの雑木林に人? がいたような……」
「おいおい、まだ怪談話をするにゃあ季節が早いぜ?」
見間違いと言えば終わりだ、木を人かなにかと勘違いしたと言えばそれでこの話は終わりになるはずなのに康平はどうしても終わらせることが出来なかった。
「やっぱり誰かいたって、見間違いなんかじゃない」
「わーったよ、じゃあ確認すっか!」
「お、おい!」
雑木林に向かって勢いよく歩いて行くノブをもっと強く止めるべきだったと康平は後悔した。そもそも人影を見たなどと言わなければ良かったのだ、そうすれば『これ』を見ずに済んだのかもしれない。
「な……んだよこれ」
そこは端的に言って地獄だった。
地面はぶちまけられた大量の血で赤く染め上げられ周りの木の幹には肉片のようなものが飛び散り、極めつけは枝に付いている葉のほとんどが血で赤く塗りたくられ紅葉の季節に迷い込んだのではと錯覚してしまうほどだった。
そして血だまりの中には見覚えのある作業服の切れ端がある。
「これ、まさか……おじさん?」
「ああ多分な……、これが例のバラバラ殺人だ……」
「とにかく急いで警察にーー」
康平が口を押えながらそう言って、青ざめた顔でスマホをノブが取り出した時に後ろで草を踏む音が聞こえ、二人は同時に振り向いた。
「康平君? 何やってるのこんなところで」
草を踏んだのは良子だった、買い物に行く時にいつも使っているマイバックを片手に気に入っていると以前言っていた薄手のTシャツにサンダル履きと言った見慣れた服装で立っている。
いつもと変わらない服装で草が生い茂り、羽虫が飛び回る雑木林の中に立ってこちらを笑顔で見ている。
吐き気のするような笑顔だった、機械で作った無機質な笑顔を貼り付けているような良子。
いつもと変わらない笑顔のはずなのに、どうしてかひどく歪んで見えた。
「なんで良子さんがここに......?」
聞く必要は無い。だが康平の恐怖に支配され尽くした脳が絞り出した言葉はそんな無意味な言葉だけだったのだ。全身から汗が噴き出し、手足が震えだす。
『それ』を見てしまったから、いつもの良子を徹底的に壊してしまう一点の曇り。
良子は手にぶら下げていた、目が白く濁り生気を感じることなど出来ない......人間の頭を。
体の全細胞が逃げろと叫んでいる。そしてこうも叫んでいる、今目の前にいるのは絶対の『死』だと。
「走れ、康平ぇ!」
ノブの声で我に帰り、二人はほとんど同時に走り出した。雑木林を抜けるまでに木の枝などが顔や腕を傷つけるが構わず走る。雑木林を抜けた後も走り続けた、しかし半ばパニックになっていた二人は気付いていなかった。
自分達が出口ではなく、公園の奥に走り出してしまっている事に。
息が出来ない、雑木林が見えなくなるまで走り続けようやく一息つけるというのに身体が震え、胸が苦しい。二人は肩で息をしながら無言のまま立ち尽くしていた。康平の視界は歪んでいる、訳が分からないのだ。
あのアパートに住み始めてから幾度となく、良子と顔を合わせ言葉を交わした。それなのに全く分からなかった、あんな怪物だったなど。
「なぁノブ......嘘だよな? 良子さんが化け物なんてさぁ!? 俺あの人にすげえお世話になってさ! 俺......俺は......」
康平はノブの肩を掴み激しく揺さぶる。どうにか否定して欲しかった、違うと一言だけでいい違うと言って欲しい。だがノブはあくまで冷静に残酷とも言える言葉を投げかける。
「嘘なんかじゃない、現実だ……あいつは間違いなく化け物なんだ!」
「正解」
「康平! 後ろだ!
とっさにノブが康平の手を引いたおかげで康平は右手の甲を切っただけで済んだ。傷口は鋭利な刃物で切り付けられたようにすっぱりと切られ赤く若い血が溢れだしている。
「残念......外しちゃった」
木の上から良子が飛び降りてきた、それはいつもと変わらない笑顔だった。だが腕は醜く膨張し時折ビクビクと蠢き、主人の次のアクションを待つ。その体のアンバランスさは、ずっと見続けているとこちらがおかしくなってしまいそうな気持ち悪さがある。
「そんな……なんで……」
「うふふ、ばれちゃったらもうしょうがないわねぇ。私はねぇ......もうそこらの低レベルな『食材』じゃ満足できないのよ、だから悲しみと苦しみをたっぷりと蓄えた若い命を貪りたいの」
「ほんとはもうちょっとシチュエーションを考えてたんだけどねぇ……食事にはシチュエーションって大事でしょ?」
目の前でしゃべる良子は最早『人』と呼ぶのすらためらうほど康平の知っている良子とはかけ離れている。ノブはもう黙って良子の話を聞いていた。
「じゃあ最近起きてる事件も?」
「ええそうよ、小腹がすいちゃったからねぇ」
「でもそれも今日で終わり。いよいよメインと行こうかしら」
良子の顔に三日月のような割れ目が入る。二人はその表情のあまりの邪悪さにそれが『笑顔』だという事を認識するまでにずいぶん時間がかかってしまった。骨が折れるような、肉を押しのけて何かがせりあがってくるような、聞く者が鳥肌を立たさずにはいられない音を立てて良子は変形していく。
「なあ……康平……お前の知り合いってすげえ奴がいるもんだな」
ノブが必死に叩いた軽口は悲しく地面に落ちて行く、康平は体の震えが止まらない、それは十年前の悪夢を再び見ているような光景だった。
「うふふ、じゃあいただいちゃおうかしら?」
おぞましく体を作り替えた良子の姿は『あいつ』に嫌というほどよく似ている。人では無い出来損ないの化け物のくせにどこか人の面影を感じずにはいられない。
「お……前は」
康平は震えて何もできない、十年前と同じように。