65話 7月24日
呼吸有り。
心拍数、通常。
血液循環、通常。
眼球瞳孔、通常。
自力移動、不可。
自力摂食、不可。
糞、尿失禁有り。
意味のある発言、不可。
意思疎通、不可。
眼球、反応無し。
脳波検査――
聴覚、反応無し。
視覚、反応無し。
皮膚を押す、捻るの感覚、反応無し。
θ波による記憶確認、反応無し。
以上、名胡桃茉莉は遷延性意識障害の結果を報告。
「…………」
「何回やってもこれの結果しか出ないよ、茉白。この歳で植物状態なんて何も言えないわ」
「だけど違和感が――」
「脳波反応でしょ。私も引っかかってた、自発呼吸はあるのに脳波が無いのはおかしい、特に記憶に関する脳波が反応無い。遷延性意識障害でも眼球は動く」
夏休みでフランスからお父さんの家がある東京、そこから私が頼み込み夏風町まで来てくれた。そして今私の自宅で奏芽さんの検査をしてくれている。
「……二度目だわ」
「茉莉さん?」
「私、フランスでもこの脳波無し植物状態を見たことがあるの。――最後は脳死してしまったけど」
類にも見ない脳波無し植物状態。それと同時にニカエルさんも居なくなっているのは、ニカエルさんも一つこの症状に一枚噛んでいる?
「これ以上私の手ではどうすることも出来ない、お母さんは?」
「…………」
勿論、奏芽さんの母も居る。
「昨日、奏芽が動いたなんて嘘よね……?」
「お母さん、私は嘘を付きません。奏芽さんは確かに電話を掛けてきました」
「奏芽は最後になんて言ったの……?」
「電話に繋がった後は私の名前が聞こえて――そこからはスマホを落とす音しか」
私は奏芽さんから電話を貰って深夜の中を走った。そして見えたのは目を開いたまま倒れている奏芽さんの姿、体を揺すったり、スマホのライトで目を照らしたりしてみたが気絶ではなかった……。どうして商店街で倒れていたのか、色々な謎を残したまま奏芽さんは植物状態になってしまった。
「ふむ……美依様、とりあえず奏芽くんはこちらで預かる形で宜しいですか?」
「いいわ……茉白ちゃんの姉、茉莉さんが医者で様子を見るっていうなら預けるわ。……どうか宜しく」
「責任は持ちます」
両者一礼をして奏芽さんの母は部屋を出ていった。
「ある程度の機材は家にもあるし、心電図や色々利用しつつ様子を見るわ。脳波検査も定期的に」
「茉莉さん、ありがとうございます」
茉莉さんは椅子に座り足を組んでノートパソコンを立ち上げる。カルテのexeを開いて一つずつ奏芽さんの症状を打ち込む。
「茉白さ、この子好きなの?」
「えっ⁉ いえ……恩義があるだけで」
「そう? でも普通でも男の子を女の子の部屋に入れるなんて滅多じゃない? しかも奏芽くんを見つけた日もわざわざ茉白が家まで連れて行ったんでしょ。好きな子じゃなきゃ――ねぇ?」
「好きじゃありません!」
「あらあらー? ムキになるなんて。ここ数年会わなかったけど、変わった?」
「ほ、本の影響です!」
「昔から言い訳はそれよね。そこだけは変わらないんだ」
茉莉さんのこういう所が嫌い。
茉莉さんとは血の繋がった実の姉ですが、性格と顔は全くと行って良いほど違う。私が八割母に似た遺伝子だとしたら、茉莉さんは八割父に似た遺伝子と言っていい。
それから私は『茉莉さん』と呼んでいますが、茉莉さん自体格差を付けるような呼び方が嫌いで「姉さんと呼ばないで」と私を嫌っている意味ではなくこういう事で名前で呼んでいる。
「うーん、カルテ打ち終わったけども。案外似たようなデータベース出るのね。他の人のカルテなんてあんまり見ないからなー」
「私も見ていいですか?」
「どうぞ」
ノートパソコンを私の角度から見やすいように角度を変えてくれる。数十件レベルで同じような脳波なし植物状態があったよう。
「一応回復したのは一件だけ。この状態から唐突に回復したようね」
「――あの、この昏睡状態が三ヶ月以上続いて一日だけ意識が戻ってまた眠るなんて事あるのでしょうか」
「一日だけ復活なんてありえない。昨日までの奏芽くんは別の症状だと思っていいわ」
「ですよね……」
やはり考えるだけ謎が深まるだけだった。
「にしても、手術のツギハギも無いのに三ヶ月前に大怪我なんてね……」
「していたんですよ、私も見てないですけど――――」
あのショッキングな光景は忘れられない。玄関で固まった大量の血、カーペットやベッドを赤黒く染めたおびただしい血量、部屋が真っ赤に染まっているなんて普通じゃなかった。あの臭いを嗅ぐだけで、視覚として思い出すだけで気分が気持ち悪くなってくる。
「茉白、あんまり一人で抱え込むんじゃないよ。たまには茉莉さんにも話しなさいとな」
「ありがとうございます。でも今は大丈夫です」
「ほら、そうやってまた」
茉莉さんは私の両頬を掴んで引っ張る。
「い、いたいです……まつりさん……」
「いい? 茉白は私の妹であって家族なの、電話でも口頭でもいい。というか今話しなさい」
「そ、それは。まだ話すべきではないと」
「ふーん、奏芽くんの事好きとか」
「好きじゃないですって!」
「意地張って……まぁいいわ、じゃ奏芽くんと二人きりになってなさい。私は久々に夏風町を周るわ」
やっと頬を離してくれた茉莉さんは白衣を脱ぎ眼鏡を外して背筋を伸ばす。フランスからのフライト時間が長くてお疲れの筈なのに家でゆっくりすることもなく「じゃあね」と言って私の部屋を出て行った。
「……奏芽さん……」
車椅子に乗せられた奏芽さんと二人になった。意識があれば奏芽さんの方から「そういえばさ」とか言って話題を出してくれるのに今は口さえ動いてくれない。
「あの電話、あの時、何があったんですか――!」
「…………」
勿論、答えてくれる訳も無く……。
首も座っていて、何処を見ているかも分からない。まばたきもしなければ手も足もピクリともしない。
「……私達も少し、外に出ましょうか……ね? 奏芽さん」
奏芽さんを乗せた車椅子を動かし部屋の外へ、家の奥にあるエレベーターを利用して一階に降りる。
「揺れますよ、奏芽さん」
玄関の段差だけは自力でなんとかしなくてはならず、奏芽さんを落とさないように勢いを付けて一段降りる。
――良かった、何もならなかった。
そこからはまた車椅子を動かして暑い外を歩く。
「夏ですよ奏芽さん、貴方が眠ってる間には何回も雨が降って、堂ノ庭さん達が来たり、先生も様子を見に来たり、更には厩橋さんの家族方も来たり……皆心配してましたよ」
あの間、学校のイベントが沢山ありましたけど、奏芽さんが居ない櫻見女はつまらなくて楽しめませんでした。――ちっとも、全く。
「皆を巻き込む貴方が、責任知らずで意識不明になって……大馬鹿者ですよ。どうして……どうして、命知らずで……私達にも相談せず逝ってしまったんですか……なんで……ですかっ……!」
車椅子を止めて涙を拭く。
何度も感情的になってしまう、奏芽さんの事を想うだけで怒ってしまい、哀しんでしまい……
「……きっと、意識戻ってきますよね?」
また希望を持ってしまう。
この脳波なし植物状態のカルテにも一部意識が戻ったという件がある。1%でも希望を持てばいつかは叶えられる。その1%をまた数%いや数十%でも増幅出来るのであれば、私は努力したい。
「余り遠くへは行きたくありませんし……商店街まで行きましょうね」
また優しく語り掛け、私は車椅子を動かす。
何か、何か反応があればいい。利品持ち帰れれば、それが復活への兆しにもなるのだから。
アーケードまで辿り着いて、注目度が高まる。ここは奏芽さんが特に通っていた場所。私自身も奏芽さんと登校していたのだから分かる。
そして商店街に来たら行く場所は一つ。最も親しき仲であろうケーキ屋さん。幾度か、ケーキ屋さんは家までケーキを渡しに来たのだけれども、玄関までだった。だから今回は奏芽さんも連れてここへやってきた。
扉を押し開け、車椅子を傷つけないように背中から入る。
「失礼します。ケーキ屋さん?」
「あいあい、いらっしゃ――」
ケーキ屋さんが固まる。
「……そうなんだね……信じたくなかった」
「――現実逃避、してたんですね」
ケーキ屋さんは知りたくなかった。
奏芽さんがこんな姿になってるのを、知りたくなかった。
でも、いつかは向けなくてはならない。今だと私は思ってたんです。私だって最初は信じられなくて自分でも驚く程吐き気や心臓が止まりそうになったり。――慣れ無くてはならない。今の奏芽さんの存在に……
「ワタシさ、思ってたんだ。会えなくなるんじゃないかって。美依さんからも電話で聞かされて……ワタシより先にこんなんなるなんて思わなかった」
ケーキ屋さんの涙。初めて見るかもしれない。いつもからかってる姿しか見てませんでしたが、裏返しの表情を見ると私も貰い泣きしてしまいそうだ。
「……座ろうか、白いネーチャン。三者面談だ」
「はい……? はい」
面談の使い方がイマイチ違うような気がするんですが。
椅子を一つ退かして奏芽さんの足を机の下に隠すように入れる。――そしてケーキ屋さんは一つのアルバムを持ってくる。
「ほらー奏芽くん。お前の幼少期の話、白いネーチャンにしちゃうぞ。……さて、最初の写真はと」
ケーキ屋さんもケーキ屋さん並に考えたのでしょう。でも当たらずといえども遠からず、語り掛ける事は大事。
人間は睡眠状態でも、昏睡状態、更に脳死状態。あらゆる状態中でも耳だけは常に活動をしている。
聴覚の反応は無い、けども必ず耳には入っているはず。機械では拾えない微弱な脳波の可能性だってある。
「おっ、奏芽くん3歳の時の写真だな」
「まぁ、この頃はキノコみたいな頭してたんですね」
……そこに驚いたのと、奏芽さんを持ち上げている人物は恐らくケーキ屋さん。若々しく見える。
「撮影者は美依さん。ワタシのお店もまだ出来立てでね。奏芽達が四人目か五人目のお客さんだったね」
「へぇ……その頃、私も夏風町に居たんですけど外に出る機会が無かったので知らなかったです」
「白いネーチャンも居たのかぁ。来れば奏芽くんともっと早く知り合えてたかもね」
「いえ……恐らく、会ってるかと」
「何処で?」
「公園で……きっと奏芽さんだと思うんですけど覚えてないんです」
「奏芽くんはなぁ、子供の時からヤンチャだからなぁ。ちゃんと覚えてろよー奏芽」
ケーキ屋さんは奏芽さんの肩を優しく軽く叩く。
「さて……4歳の時かなぁ? 誕生日に来てくれて一緒にケーキ作ったんだよな」
パラとアルバム捲るとケーキ屋さんと奏芽さんが一緒にケーキを作る場面を撮った写真が出てくる。奏芽さんは手や顔がクリームだらけで、ケーキ屋さんも苦笑いしている場面。
「あんまし言う事聞かないでね、クリームばっかり舐めてるの。撮影した美依さんも笑ってたし、ワタシも必死に奏芽くんとケーキ作りを進行しようとしたんだけど――」
一枚捲ると、スポンジ周りにクリームが塗られてない状態のケーキがテーブルに乗って部屋の一室で誕生日会を開いている場面になった。
「これはこのケーキ屋の二階の部屋。案外広くてね、数十人なら入れる」
「いいですね。奏芽さんの意識が戻ったらそこで退院会でもしましょうよ」
「おっ、いいね……さて次」
また一枚捲る。
次は奏芽さんがケーキ屋さんに持ち上げられて嫌がっている写真。
「5歳の時だね。この時は何言ってもイヤイヤ言ってなー。手を繋いで散歩しようと思ったらバチンと手を弾かれてね。無理やり持ち上げて外行こうとしたらこのヅラを見られて――」
「撮られた訳ですね……」
イヤイヤ期が奏芽さんにもあったんですか。私が見てきた奏芽さんは何があっても嫌とは言い切れない人でしたから……想像が出来ません。
「ただ、この写真の後は可愛いよー、ほれ」
「奏芽さんの寝顔ですか」
「結局この後散歩も行けずワーワー泣き始めて、落ち着かせた後がこの写真。ワタシは写ってないけど、この時のお気に入り」
細かく見てみると、確かに涙を流した跡がある。
……見てて可愛く感じる。
「なーんかさ、変だよね。奏芽くんにとってこんな恥ずかしい話してるのに目覚めてもくれないんだからさ……生きてるのに、反応もしてくれないとさ」
「…………」
「一人でどっか行っちゃうのは駄目だよ、奏芽くん……」
皆思っていた。そう思っている。
奏芽さんが気付かない所で、皆は心配していたんです。
去年の夏休みの時も、奏芽さんが秋空市に行ってた時も……絢芽さんと別れたあの時も。
「後は自由に見ていいよ」
ケーキ屋さんからアルバムが手渡される。
途中からパラパラと捲ってみると誕生日の時の写真が多く、後から赤い髪の女の子も出てくる。
ケーキ屋さんを挟んで、奏芽さんは歯を見せて笑い、堂ノ庭さんはケーキ屋さんの裾を掴んで恥ずかしそうに俯いて写っている。
「これは堂ノ庭さんですか?」
「ドーノニワ? ――あっ、朱音ちゃんか。あの子の名字そうなんだ」
「あぁ……存じなかったんですか……」
堂ノ庭さんも常連なんですから覚えていて下さい。
「いやー、朱音ちゃん奏芽くんで通してるからついね、あの二人は小学生になってからだね。……そういや、白いネーチャン名前はなんだっけ?」
「あ⁉ えっ⁉ な、名胡桃茉白です」
「あー、茉白ちゃんかー」
なんて物覚えの悪い……ケーキに名前を書くときに電話での予約や口頭での説明に聞くと思うのですが、ちゃんと覚えて書くんでしょうか。……仕事として人の名前を覚えるのは重要な筈なのにケーキ屋さんのこの覚えの悪さは不安になります……。
「朱音ちゃんは陸上部だっけ。太るからって来なくなっちゃったねー。ちょい捲ればセーラー服の朱音ちゃんが出てくるよ」
小学生の奏芽さんを捲っていき、数枚捲ると、ケーキ屋さんに髪を掴まれて嫌そうにしている奏芽さんとピースをしてニッコリしている堂ノ庭さんの一枚が出てきました。
「これで最後ですか」
「コレ以降は奏芽くんも大人になって家に一人で居られるようになったし、朱音ちゃんも部活で忙しくなって、最後になっちゃった。中学校のルートも商店街から外れちゃったし」
「…………」
アルバムを閉じて机に置く。
奏芽さんの幼少期の話も聞けたし、私的には満足だった。
「……もう一つ」
「はい?」
「ワタシ、あんまし記憶出来ない頭してるんだけど――」
知ってます。
「バイトの子で……んー、よく奏芽くんと仲良くしてた子がいたんだけど……どうしても思い出せないんだよね」
「はぁ、奏芽さん自身はどうだったんですか」
「それがね、奏芽くんにも『ワタシのバイトの子で仲良くしてた人いるよね』って聞いた事あんだけど、覚えてないの一点張り」
「二人して曖昧とはよっぽど印象の薄い人だったのでは?」
「いやー、そんな事は無かったんだけど……なんでかなぁ」
「――そうだ、履歴書は?」
「その履歴書もね、無いんだよ」
「ない?」
「そう、無い。何度か思い出そうとして休憩室兼事務所の机の箱を探ってみたんだけど、無い」
「破棄してしまったのでは?」
「いいや、ワタシはそういう個人情報満載の物をゴミ箱なり燃やすなりして捨てないのだけは絶対しないと思う」
それだったら尚更、変な話。
私も気になり、更に追求していく。
「でしたら、写真とかは? 奏芽さんと仲良くしているのであれば何度か撮っているはず」
「それも無い。多分写真撮っているはずなんだけど――アルバムにも挟んでないし、そもそもアルバムはそれで全部。一番最初に来たバイトの子だから覚えているハズなのに、これだもん」
「履歴書も写真も無い……写真? ――あっ」
私は一つの手掛かりを言ってみる。
「撮影したのが奏芽さんの母なんですよね? でしたら、カメラフィルムを貰えばいいんじゃないんですか? 当時のがあればきっと写ってますよ」
「おー、茉白ちゃん頭が回るね。そうだね、残っていたらワタシも名前を思い出すかもしれない。今度聞いてみるよ」
役立ってよかった。
「んじゃ、お礼にケーキ持っていってよ、ついでにマカロンも」
「お気遣いなく……って、本当に大丈夫ですって」
ケーキ屋さんはせっせと箱にケーキを3つ4つ詰めている。
――そして断ったにも関わらず突き付けられ手渡される。
「お、多いです」
「茉白ちゃんのお母さんなり、ご家族で食べなさい。お金は奏芽くんが起きたら請求するから」
「え……奏芽さんに請求するんですか?」
「当たり前だよ! 皆を心配させてるのは奏芽くんなんだから」
「ふふっ、当然のようにツケですか」
「いつもそう。だから……また起き上がってな、奏芽」
頭を撫でるケーキ屋さん。
……羨ましく感じる。私は、父や母以外の大人に触れた事話した事が余り無い私は今この光景が羨ましい。
「茉白ちゃん、奏芽くん連れてまた来てね」
「はい、ありがとうございました」
結果的に奏芽さんを連れてきて良かった。
奏芽さん、貴方の影響力は計り知れないんです。これで分かりましたか? ……聞いていればいいんですけどね。いえ、きっと聞いています。そう信じたい。




