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この中に『男』が一人います!  作者: TASH/空野輝
第五章 鵯尾絢芽
73/91

61話 朱音VS絢芽。跳飛する『女』は勝負をも逸楽し、終結する。

 例の風呂敷も無事に神指さんに渡し家路を地味に急ぐ。何でか知らないけども、ここのところ嫌な視線を感じるし、ようやく俺もJKとして目覚めてきた。一人で歩くの危ない。こんな町でも交通事故やら色々起こってるのだから。


 玄関の扉を開けてまず目に見えたのは見知らぬ靴があった。

 ――見るからにして女性物。勿論、俺のお母さんの物では無い……勿論、俺の友達の物でもない。


「――――!」

「――――」


 リビングからは雑談が聴こえ、中々開けづらい空間になっている。急に入るのも申し訳無さそうだし、そっとしておこうとも思ったが、何時間もこの雑談が続いてて俺が実は帰ってるなんて状況も好きじゃない。――致し方無い、その声の向こうへと行こう……。


 ガチャ――


「ただいま」

「あーあーあーあー、私の子供が帰ってきた」

「こんにちは、奏芽ちゃん」

「あ、こんにちは……」


 俺のお母さんはこの時間からお酒を呑んでいて既に出来上がっている。

 ――にしても、誰?


「あー、今奏芽知らないって顔したー」

「そりゃ会ったことないんだから当然」

「あーそっかぁ。まだ知らないかぁ」

「暫く美依ちゃんとも会ってなかったし」


 だらだらと薄いべっこう色の飲み物を口に含んでいる。

 ――女性も酔って出来上がっていらっしゃった。


「……あ、私は搦目菜穂(からめなほ)。美依ちゃんと同じ躑躅つつじ大学の同級生ねー」

「どうも……唯川奏芽です」


 顔真っ赤な状態で自己紹介されても、それこそ事故・・紹介だと思うんだけど……あれ、人の事言えないな。暫く俺のお母さんとも会ってないと言ってるけど親しく話していて同じ大学の同級生だから息が合っているのだろう。


「ほらほら~奏芽。いつまでもガクセー服着てないでさっさと着替えてきなさい!」

「あ、うん……というかこれ以上に着替えが……」

「あーもう面倒くさいな、じゃあ座って」

「うん……」


 どっちが面倒な存在なのか分からないな。

 座り慣れたいつもの席が空いていたので底に座る。隣にはまだ知らぬ搦目さんが座っている。


「こんな可愛い娘さんがいるんだから家庭の憧れだわぁ、美依ちゃん」

「私が必死に産んだ愛娘よ! それはそれはもう」

「初めて連絡貰った時は――そうかー、美依ちゃんに子供が出来るんだーなんて嫉妬してたけど、こうして本物を見ると可愛いよ、奏芽ちゃんは」


 何度も何度も言われてるけど、俺は奏芽“ちゃん”じゃなくて奏芽“くん”なんだけど、ちゃんと俺のお母さんも話を合わせて俺は『女』の子となっている。


「……でも、雅人さんと別れたのはちょっと残念だなぁ……影の人気者だって言われててね? 奏芽ちゃん」

「あ、そうなんですか?」

「躑躅大学の事は懐かしいなぁ。雅人は確かにそんな事言われてたね」


 俺のお父さんの話になるとお母さんはやっぱり険しい表情になる。調子よく呑んでいた焼酎の水割りもお父さんの話になってからコップをぐるぐると回してその氷の様子を見るようにしかならなくなった。


「その後はどうなったんだっけ? ねぇ美依」

「この際だから話せって? 菜穂」

「んー、別に」

「ならいいっか! あんまり子供の前で話す事でも無いしね!」


 あっはははは――


 四十代ともなるとどんな事でも面白く感じてしまうようで。


「まぁ少し話すとしたら、付き合って大学卒業して直ぐに結婚指輪! それから雅人は薬品を使う会社に行って、夏風町に住んでからは暫くアパート。それで二人で出し合ってこの家よ」

「へー、わたし初めて知った」


 それだけ聞くと本当に夫婦円満な感じが出ていた。

 ――元より仲悪かったら結婚指輪もないし家も無かっただろう。


「まぁ……結婚してからも浮気はあって、子供が出来てから『ほんっとうに浮気やめよ!』って言ったんだけどね……駄目だった」

「美依ちゃん、泣かない」


 搦目さんはハンカチを取り出してお母さんに渡す。

「ありがと」と言って目を拭きまたコップを傾ける。


「あーお酒入ると泣きたくなくっても泣けてくるわ。雅人め……チクショウー!」


 ニャコがその声に反応してビクッとなり、廊下の方角へと逃げ出してしまった。かなり本気の「チクショウ」に俺もキョトンとなる。搦目さんからは手をトントンと軽く叩かれ「けっこう破天荒なの、あなたのお母さんって」と意外な面を聞いてしまった。


「でもちゃんとした子供になって嬉しいわ。お母さんは」

「まぁ」

「ありがとうね。奏芽」

「どういたしまして」

「こちらこそ」

「いえいえ」

「なにがいえいえよ、もっと讃えなさい」

「…………」


 面倒くさいな!

 ――でも今は酔ってるからそれなりな付き合いはしてあげよう。

 最近はお母さんとも面と向き合って話はしてなかったし、搦目さんというお母さんの友達も居るわけだし、長くここにいることに――。


「にしても、一時期美依ちゃんから相談受けていたけども――産まれて良かったよ。美依ちゃん」

「菜穂」

「産まれなくなっちゃうかもなんて泣きながら言ってたもんね」

「菜穂」

「雅人さんと浮気について喧嘩して雅人さんがついカッとなって――」

「菜穂! 奏芽に言ってない事言ってる事多いんだから!」


 ガシャン――!!


 机にあるものが全て揺れた。搦目さんが呑んでいた物は溢れ、おつまみとして食べていたものは少し床に落ち。揺らした張本人お母さんは立ち上がり前のめりに搦目さんを睨みつけている。


「…………ごめん、菜穂。奏芽が産まれる前の話は止めよ。奏芽も気になると思うけどお母さんにだって話したくない事はある。それは知っておいて」

「……うん、分かった」


「奏芽ちゃんもごめんねーお母さんの機嫌損ねるようなことしちゃって」

「あ、いえいえ――怒る顔滅多なんで」


 温厚なお母さんしか見てないからか最近この歳になってから怒られるような事も必要だと思ってしまった。前に深緑が遊びに来た件以来余り怒られてもいないが。――まぁ今さっきお母さんが怒ったのは搦目さんに対してだけど。


「それで、美依ちゃん。私が聞いた時産まれたのは『男』の子だって聞いたけど」

「「あっ、言ってたんだ――」」

「十六年前の電話先で、ね? 美依ちゃん」


 その後、秘密な話として俺が『男』だってバラしたのは話すまでもない――。

 なんだかんだ搦目さんは帰らず、家に泊まり俺は可愛がれ続けられた。案外、四十代に乗ったら信じられない出来事も目の前にしたら信じるようになってしまうのかもしれない。――もしや、そういう出来事にあったとかじゃないよね? お母さん、搦目さん?




 そして朝――


 起きてリビングに行くとお母さんの代わりに搦目さんがキッチンに立っていた。


「おはよう、奏芽……くん? ちゃん?」

「おはようございます。――奏芽くんで大丈夫です」

「なら奏芽くん。ご飯は食べる?」

「いただきます」


 普段、朝ごはんは食べないのだけど火を付けて何かを作ってしまっているので断れなかった。


「貴方のお母さん、酔い潰れちゃってまだ寝てるよ」

「わたしが寝た後もだいぶ呑んでましたもんね――珍しいですよ」

「そっか……仕事忙しいのかな、もう起こした方がいい?」

「いや、時間ギリギリまで寝る人なんでそのままで」

「ならいいか」


 まず手始めにと出してくれたのはコーンスープだった。

 市販されているブロック状のコーンスープを溶かし、マグカップに入れてくれた。


「――隣の部屋、倉庫なんだね」

「え? まぁ」


 隣の部屋は確かに倉庫だ。

 俺が産まれて物心が付いた頃からずっと倉庫。探ってみると俺の卒業アルバムから遊んでいた玩具までたくさん揃っている。他にはお母さんが大学時代に使っていたカメラから何に使っていたか分からない物まで置いてある。


「…………」

「……え、倉庫ですよね?」


 変な間があって家主じゃない搦目さんに聞いてしまった。


「昨日もそうだったけど、やっぱり知らないんだ」

「え?」

「もう一人いたこと――」

「もう一人いた……?」


 もう一人いた? 聞いた事がない。


「そのー……よくある居候してた人がいたとか……」

「ううん」

「まさかだと思うんですけど――」


「こら、奏芽」――聞こうと思ったタイミングにお母さんが出てきた。

「菜穂にも言ったでしょ、まだ話す時じゃないって。重っ苦しい話になるから嫌なのよ」

「あー起きちゃったかーごめんねー奏芽くん」


 そのままの調子で俺に話そうとしてたのか……。出掛かった話も途中で終わらされるとそれはそれで気になってしまう。でも話を聞こうと思ったってお母さんは頑なに話してくれないだろうし、また搦目さんに会えるとも限らない。――吐き気も及ぼす話なんだろうか。お母さん色々と隠してるのは知っているけど……お父さんの事だったりね。でもいつか知れると思って、俺は聞かない。忘れた頃にまた教えてくれるだろう。


「はい、召し上がれ。美依も食べるでしょ」

「せっかくだから頂く、料理は上手くなった? 奏芽、味は」

「美味しいと……思う」


 あんまり美味しくなかった。




          ※  ※  ※  ※




 全日程終わりし放課後――


 今日もなかなか良い天気だった。一点の曇りなき空というのはこの事なんだろうな。しかし絢芽と朱音の勝負は室外ではなく体育館という室内。お天道様もせっかくグラウンドを暖めていたのに使われずして泣いている所であろう。


 グッグと腕を伸ばしたり、ジャンプしたり朱音は準備運動を怠ることなく絢芽を待つ。舞台となる体育館は既に障害物の設置が終わっており、パルクール鬼ごっこが出来る場所となっている。

 見渡してみると平均台や跳び箱。バドミントンやバレーボールをやるためのネットを付ける鉄棒や卓球台なんかも用意されている。


「今日は見学させていただきます」

「お、名胡桃さん。珍しいね」


 体育館のステージに座っていた俺だが、ステージに登るのに必要な階段に名胡桃さんが座るので俺もその隣に座る。


「堂ノ庭さんの驚異的な運動能力には興味がありまして。後パルクールというのも興味がありますし」

「まさか名胡桃さんもパルクールするの?」

「いいえ。で、出来る訳ないじゃないですか……」


 俺だって名胡桃さんがやろうとしたら全力で止める。

 ただでさえ持病があるのに超過度な運動して心臓が止まるようなことあったら嫌だもん。最近の名胡桃さんも保健室に向かう事多くなってるのだから。


「それから、差し入れです」

「……酸素スプレー?」

「運動した後には必要かと思って」


 カンカンとスチール特有の置いた音を体育館に響かせる。


「そうそう、頭スッキリしたい時とかにも有効ですよ。吸ってみたら如何ですか?」

「そんなのにも使えるんだ。じゃあ少し――」


 スプレーのマスク部分を鼻と口を包むように被せ、プッシュしてみる。

 いつも虫スプレーとかに聞く噴出音。無味無臭だがマスク内に広がってるのが分かる……それを口と鼻交互に吸う。


「どうですか?」

「――少しスッキリしたかも。ありがとう」


 脳内の悪い部分が抜けた気がしただけだった。酸素スプレーと外の空気の違いを感じたくてマスクを外しては深呼吸してまた酸素スプレーを吸ってみる。

 …………? あんまり変わらんな。でも急激な運動をした後とかには酸素が必要になるから、その時が効果絶大なのかもしれない。


「ふぃ~準備運動終わったー。あたしにもちょうだいー」

「おう、これあげる」


 酸素スプレーを朱音に手渡してそれを吸う。

 お腹がへこむくらいに肺呼吸をして、吐く。そしてもう一回それを繰り返す。


「はぁー、うまい!」

「ビールじゃないんだから……」


 でも効果は確からしい。


「んー、本当だったらカナちゃんの息の方が回復早いんじゃない……かな?」

「強要するな! チュー顔するな!」


 幼馴染でも人前で出来ること出来ないことがあるんだからよしてくれ。人工呼吸とか心肺停止したときだけにしてほしい。


「カナちゃ~ん」

「やめろって!」


 恥ずかしいわっ! 名胡桃さんの前で!

 当の名胡桃さんは笑ってるけど。


 暫く茶番をした所で体育館の扉が開く音がする。


「おまたせしました、堂ノ庭先輩」


 今回も絢芽は準備よく、体操服姿で朱音の前に出る。


「待たせ過ぎだよあやちー、準備運動とか良いの?」

「いいえ、準備運動の必要も無いです。さっさと始めましょう」


 朱音と違って準備運動もなく、鬼ごっこのステージを見渡して足と手を揉むだけで終わる。


「中々準備が凝ってますね。どういう勝負ですか?」

「パルクールって知ってる?」

「馬鹿にしないでください」

「えー、馬鹿にしたつもりじゃないんだけど……」


 優しく指南しようと思った朱音だったが、これは本気で沈んでるな。


「そのパルクールに鬼ごっこを追加しただけ、まぁこの道具たちは使っても使わなくてもいいけど」

「中々単細胞な考え方ですね。それでどっちが鬼で逃げですか?」

「それは――始めはあやちーが鬼でいいよ。それで十分毎に鬼を切り替え! あ、ちゃんとタイマーもあるから大丈夫!」

「分かりました。じゃあ始めましょうか」


 絢芽はその場で立ち。朱音はやや遠くに立つ。タイマー自体は朱音のスマートフォンで、十分ごとに繰り返しアラートが鳴る仕様になっている。最初だけ三十秒の猶予でアラートが鳴るように設定して後は十分だ。


「お兄ちゃん」

「何、絢芽?」

「勝ってくるね!」


〔PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP……〕


 絢芽は朱音に向かって走り出す。

 卓球台と跳び箱の間を抜け、絢芽の目の前にある卓球台の上をスライディングして朱音に一直線に滑る。


「おっと! そう来たね!」


 絢芽が上を滑るのと同時に朱音は卓球台の下を潜る。朱音と絢芽の手の差は僅か一寸程度。賭けとも思えるその潜りはギリギリだった。

 絢芽は切り返し、朱音と同じく卓球台の下を潜り、朱音を追いかける。しかし朱音の走りの方が早い。朱音と絢芽の距離にずいぶんと差が出てしまっている。


「…………」

「もう疲れてるの? ――まだまだだね」


 神指さんとの戦いに見せたあの運動力とは程遠いステータスの低さ。

 朱音を追いかけては距離が長くなっている。


「よっと――遅いね、あやちー」

「…………」


 挙句の果てには朱音は跳び箱五段の上に登り、膝に手を付く絢芽の姿を見下している。

 ――なにか絢芽は考えているんじゃないのか? 余裕が無いわけじゃない。


「まだ血が……体に慣れてない……」

「んー? あやちー、気持ち悪くなっちゃった?」


 少し青ざめている絢芽を心配する朱音。陸上部としては心配せざる得ないのか、その場から顔をしかめて様子を見ている。


〔PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP……〕

「おっと、交代だね。はあっ――!」


 跳び箱から勢い良く飛び出し、鉄棒の上に足を乗せて絢芽に飛びかかる。


「ッ……! バケモノ……⁉」


 それを見て絢芽は朱音から見て右に走り出す。

 朱音は見事に着地し、隙も見せず絢芽を追いかける。


 ダンダンダンダン――!


 一足一足、床を強く踏み。走る。

 絢芽も負けじと跳び箱の上を飛び越え、吊縄を使って飛んだり――。それでも徐々に距離が縮まっていく。


「ぃ――よいしょっ!」


 さっきと同じく朱音は跳び箱の上に乗り、勢いを付けて飛ぶ。


「あやちー! 取ったああ!」

「ふぅっ――!」


 捕まえられる一瞬だったが、絢芽はしゃがみ動物のように手と足の四本で朱音が飛びかかってきた方向に逃げる。


〔PPPPPPPPPPPPPPPPPPPPP……〕


 ここで朱音の鬼が終わる。


「あちゃー、結構楽しかったよ。次はあやちーが鬼だよ」

「……三十分」

「うん? 三十分」

「後の三十分、私が鬼でいいですか?」

「おー、三十分あたしが逃げ切れれば勝ち? いいよ」


 そう絢芽が宣言し、朱音は調子が良いのかその場でジャンプをして床を強く踏み――


「えいっ、やっ、とう!」


 後ろにバク転三回。


「あたしはまだこんなに余裕なのに、あやちー余裕無いよ?」

「くっ……馬鹿にしてるの? わたしを」

「そんなことないけど……レストランでのカナちゃんのキスは許してないよ」


 そうそう見れない朱音のしかめる顔。


「カナちゃんの事は好きみたいだけど、年月が違うんだから。そんな数日間の出来事どころか入学式初日ってなだけで交わうような事してるのは許さないよ」

「……なら、やっぱり、キスはしてるんですか? もしかして――」


 絢芽は文章としても、表現としても禁止な指の動作をする。


「~~~~~~⁉⁉ し、してないよっ!」

「へー、してないんですか。こういう事。結構な年月なのに? 幼馴染なんでしょ?」

「そんなごくプライベートな事は聞かないでよ! あやちー!」

「へー……そう……さて、体が慣れた」


 絢芽は屈伸運動をして朱音に向かって行く。


「ああもう、最悪。あんなジェスチャーどこで」

「名胡桃さんまで真っ赤にしてどうするんですか!」


 俺は中学生の頃に悪ふざけであのジェスチャーをされた事があるが、大人になればなるほど恥ずかしいジェスチャーと分かる。特に本等で知っている名胡桃さんにもあのジェスチャーは効いてしまったのだろう。


 そして朱音自身も効いてしまってだか、顔を赤くして、大ぶりな動作が続いていた。


「もー、聞くんじゃなかった!」

「堂ノ庭せんぱーい、ちょっと足が遅くなりました?」


 ふぅふぅと少し息切れをして肩まで動かしている朱音に対して絢芽はまだ息切れもせず、堂々と腕を回している。だが一定の距離は縮んでおらず、近くなっては遠くなってを繰り返している。


「いやーあやちー。とんだ持久力だね。良かったら陸上部来ない? 全国行けるよ」

「誘いですか? でも残念ながらわたし、どこの部活にも入らないんで」

「はは……そっか――」


 朱音の勧誘も失敗……


「それじゃ、行きますよ!」

「よーしきた!」


 だが、絢芽と違って朱音はこのパルクール鬼ごっこを楽しんでいる。ぬかりなく跳び箱や鉄棒を使って絢芽から距離を離し、距離を縮めさせない。障害物を挟んだ読み合いも完璧で絢芽の手がいつも届かない。

 だが十五分経過した所で――


「はぁはぁはぁはぁ……ゔん……」

「ツバを飲むのも限界ですか、堂ノ庭先輩」


 俺は知っていた。朱音は短距離走の100メートルや200メートル、100メートルハードルといった400メートル以下の短距離走の競技がメインであり、マラソンや1000メートル以上のいわゆる長距離走程の体力は持ち合わせていない。だからシャトルランでも女子の平均超えるかどうかで、持久力は持ち合わせていない。――朱音は単に体力管理が下手なのだ。走れればいい、運動が出来ればいい。それだけで陸上部を続け、長距離に向けた走り込みもせず楽しんでいた。だがそれを付け込まれ――絢芽に利用されていた。

 絢芽の行動は全て計算されていたんだ、最初から。


「わたし見てたんですよ、100メートル走り込み。瞬発力、足の振りから何まで」

「はぁはぁ――頭、いいんだ」

「堂ノ庭先輩よりは、頭良いかもしれませんね」

「あたし……アホだからね……」


 朱音の汗水が止まった所で頬をパンパンと手で叩きニッと笑う。


「でも、面白いよ……パルクール鬼ごっこ!」

「よくもそんな余裕を――」


 素早く絢芽は行動して、それに継ぎ朱音は走り出す。

 朱音は体を遠慮なく使い。飛び跳ね、手を使い鉄棒を軸に90度回ったり、卓球台の上を滑ったり。


「まだ動けますか、堂ノ庭先輩」

「…………まだ動けるよ、あやちー」


 三十分逃走宣言をしてから二十分経過――

 いつもより冷静な朱音。だが汗は止まっておらず、疲れも顔に出ている。……けども、何かがおかしかった。


「本当に凄い、息の乱れもないなんて。持久力ハンパないね、あやちー」

「まぁ、それでも陸上部には入りませんけど」

「言うと思った。努力の無駄遣いだよ」

「意地っ張りじゃないんで、そんな事は思ってません」

「嘘つき」

「あなたも」


 少しの会話が終わった所でまた二人は走り出す。だけど――もう一定の距離は保てなかった。徐々に絢芽は朱音に近づき、朱音もパルクールをしなくなり普通の鬼ごっこになっている。絢芽の様子を見ては走るスピードを変えようとしているが足が上手く動かず同じ速度になっている。

 そして――五分後には、卓球台の周りをグルグルと追いつかまいとしているだけになった。


「残り五分ですよ。こんなコスい事せずに思いっきり走って良い五分にしましょうよ。堂ノ庭朱音センパイ♪」

「……………………」


 息の吐き出しもしない、汗も止まった朱音は無言で絢芽の目を見るだけだった。

 まさか――

 もしかしてだけど――

 いや、絢芽ならそんな事はしない――

 絶対にしないはずなんだ、絢芽なら――

 でも、神指さんの事があったし、また絢芽が勝負を見失ったら――


 そう俺が葛藤してるウチに朱音は歯を見せ笑い、力を振り絞り走る。

 もう絢芽が少し本気出して走ればタッチ出来るレベル。……なのだが、絢芽は走らず逆に一定の距離を保ち朱音を走らせている……。朱音自身も、それは知っているけどもいつタッチされるか分からない恐怖があり、後五分を今の体力で走りきろうとしている。止まらず歩かず、フラフラと絢芽から距離を離そうとする。


「も――」

「もう止めましょう! お二人方!」


 隣で見ていた名胡桃さんが叫ぶ。


「この勝負はもう付いています! わざとタッチしないのはスポーツマンシップとしてはどうかと思います! ルールの隙を付いた利用はやめてください! 鵯尾さん!」

「……チッ、わかりまし……たっ!」


 絢芽は朱音に簡単に追いつき、強くドンッと押す。

 押された朱音は手をつくこと無く顔面で地面を受け止める。余りにも危険すぎる体の受け止め方。


「朱音……!」


 俺は名胡桃さんが用意してくれた酸素スプレーを手に持ち朱音のもとへと急ぐ。

 その際に絢芽とすれ違い「後一勝、負けないから」と小さい声で言われる。


「朱音、大丈夫か! ――なんでこんな風になるまでやるんだよ! しっかりしろ!」


 仰向けにして、口に酸素スプレーのマスクを当て様子を見る。


「……………………」

「朱音ー! おーい! 大丈夫かー! …………」


 酸素を十分に供給させてやるが、朱音の調子が戻らない。

 息はしている、だが発汗は止まり脈は一定じゃないように感じた。


「まだ意識は戻りませんか⁉ 奏芽さん⁉」

「名胡桃さん! ど、どうすればいいの――!」

「体勢はそのままに! 私は保健室から氷水と冷却シートを持ってきます! もし心肺が止まるような事があったら…………!」

「は、早くね! “俺”一人じゃ怖いから!」


「はい!」名胡桃さんは足早に体育館を出ていった。


 ゴトン――

 朱音から何か音が鳴った。

 腕の力が無くなったらしく、手が体から落ちていた――握りこぶしだった手もゆっくりと開いている………………?


「……朱音……? おい、朱音…………?」


 様子が変……いや、異常が……異常……

 胸に耳を当てる――


「やだ、やだ、やだやだやだやだやだやだ――――」


 信じたくない、いきなり現実から逃避しようと体が逃げる。


 ――でも、やらなくちゃならない。

 助けなくちゃ、逃げるな俺――。


 恐怖で小刻みに震える手を組み、朱音の胸に当てる。


「駄目だ……朱音……ふぅ――いちっ、にっ、さん、しっ、ごっ――」


 小学校の頃、消防署の社会見学で習った心肺蘇生法の一つ心臓マッサージ。

 声を濁らせながらも数を声に上げ、幼馴染を救う為に手を痛め打つ。


「にじゅうなな、にじゅうはち、にじゅうく、さんじゅう――!」


 鼻の穴を押さえて朱音の顎を上げて思いっきり息を吸って


(いくぞ、朱音……!)


 朱音の口に俺の口を当て直で酸素を供給する。

 そしてもう一回。

 息を全て朱音の口に吐き出した所で心臓の音を確認する。


「……戻んない……戻んないよ……! ニカエル……ニカエル……!」


 どうしようもないのに、ニカエルにも救いを求めるが、人工呼吸をしたこともない者が手助けも出来る訳もなく、それを分かっているニカエルはスマホから出なかった。

 ――それでも、俺は数を数え心臓マッサージをする。


「にじゅうはち、にじゅうく、さんじゅう――! すぅー、んっ」


 心臓マッサージ、人工呼吸。

 心臓マッサージ、人工呼吸。


 繰り返す度に朱音の体操服に涙を溢し。

 人工呼吸をする度に、朱音の顔にも涙を付ける。

 腕が痛い、手も痛い、息を吐きすぎてボーっとする。

 でも諦めず、絶対救うと一生の覚悟で心肺蘇生。


「はっ、はっ、はっ、はっ――さんじゅう! すぅー、んっ」


 ドク……ドク……


「朱音……! 朱音……!!」


 弱いけど、確かな鼓動を感じた。

 でもまだだ。これで息を吹き返したと安心して止めると死ぬと消防職員の人も言っていた。――動き始めてから呼吸をするまでが心肺蘇生だ……!

 一定の動きばかりで震えている手をもう一度胸に当てて、胸骨を圧迫する。


「息をしろ……! 今日も一緒に帰ろうぜ……! 朱音……!」


 三十回圧迫して、人工呼吸――


「すぅー、ふっ――すぅー、ふっ――」

「…………ケホッ、はっー……」


 息が口に吹き返される。

 朱音は何度か咽ながら、次第に呼吸を始める。


「…………! 戻っ……た……」

「………………何回……ちゅー……した…………?」


 呼吸して――

 目を開いて――

 冗談を言う――


「アホ……数えてねぇわ……」

「ごめんね…………無理しちゃって……」

「本当に……“俺”を一人にすんな……」


 ボタボタボタボタ――

 朱音の服に涙を溢しまくる。


「体……熱いなぁ……」

「今、名胡桃さんが氷水持ってきてるから……」

「負けちゃったなぁ…………」

「しょうがないさ……」

「でも……楽しかった…………」

「馬鹿いうな……心配したぞ……」


 他愛もないはずなのに朱音の一言一言が嬉しくて、つい泣いてしまう。


「今日は…………帰れる……?」

「今日は“俺”の家に泊まれ……絶対だ、怖いから」

「…………分かった……ほら、泣かないで……カナちゃん」


『男』でも……身近な人がいなくなりそうになったら、泣くさ――。




          ※  ※  ※  ※




 ――その後、朱音は筋肉痛だけを訴え。他の後遺症は一切残らないと保険室の先生は伝えた。よくやったと保健室の先生から言われたらしいけど、俺は涙流しまくってて聞こえなかった。処置を終えてからは先生の車で家まで送られ、朱音も手を借りつつ何事もなかったかのようにベッドに座っている。


「…………」

「あっはははは――いい加減泣くのやめたら? カナちゃん」

「うるさいよぉ……アホ……」

「外でも車の中でもずっと泣いてるよ? どこからその水は湧いてくるの?」

「うううううううう……」


 そう朱音が言葉を出す度に涙してしまっている。

 悲しい訳じゃない、安堵を飛び越えた領地の涙だ。

 嬉し涙とも違う永遠すぎた涙だ。それが我慢しきれずずっと出ている。

 もはや脳汁まで出ているのかもしれない。


「ほら、じゃあ何でもいいから今日してほしいことは?」

「朱音と一緒にいる…………!」

「泣きながら言われても……プッ、ああーっはははは!」

「もうそれ以上何も言わないで……泣くから……」


 ――それでも、じっと朱音を見ていたら


「うぐっ……ぐっ……ううううう」

「結局泣いてんじゃん」

「うっさい…………」

「もー、泣かないでほら」


 いたたた、と声を漏らしながらも朱音は動き、俺の涙を拭ってくれる。


「――救ってくれてありがと。奏芽」

「あ、か、ね――ううううう……」

「あーもう泣かない。ほらほら」


 どうして朱音が泣かないのかが不思議。


「死んじゃうと思わなかったの……? 朱音……?」

「だって、カナちゃんが救ってくれると思ったから」

「…………うううううう……」

「だから泣かないってば」


 ――完全に俺の幼児退行化が進んでいた。


「一生の恩が出来ちゃったね――あたし、堂ノ庭朱音のこれからは唯川奏芽という『男』の子に救われました。わー、本当の一生の思い出が出来ちゃったよ。カナちゃん」

「俺にとっちゃ悪い思い出だよ……思い出しちゃったら…………うううううう……」


 やっぱり泣いてしまった。

 明日ぐらいにはちゃんと平然とツッコミが出来るのかも不安なレベルで精神が崩壊している。――本当に人を救ってしまっているのだから、現実と見向き出来ず今も現実逃避をしようと魂が出掛かっている。


「カナちゃんが泣き終わるまで近くにいるから、ね? ――イナクナッタラヨケイニナキソウダシ」

「わかった……ありがとう……」

「初めにカナちゃんが『泊まってくれ』って言ったのに……」


 朱音を見る度に涙が出て、一つ一つの動作の時にも一滴流す。

 夕飯の時の口に物を入れる時の動作、お風呂で頭をわしわし洗う動作、ニャコを触る動作……

 そして、寝るまで涙が止まりませんでした、俺氏――。

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