EX-8 暁の侍 後編
家に着いたものの、橙乃の目は変わらず虚ろだ。
侍とは違うが、傭兵で言うと常に戦いというのが日常であり、危険と隣り合わせじゃないと生きてる感じがしないという。だから戦いを好んで傭兵という職業に付き戦うらしい。勿論それは一部分の人が言う言葉であり別の真意もあるかもしれないが、今の橙乃はそれにピッタリと合う理由かもしれない。
「――っ⁉ 人影⁉ 奥に誰かいるぞ!」
「橙乃⁉」
ドタドタと廊下を強く踏み、奥へと向かう。
リビングへの扉を思いっきり開き、その人影を倒し木刀を抜き出す……音が聞こえた。――この時間って確かお母さんが……はっ。
「お母さん⁉」
俺もリビングへと走る。
「いったたた……四十にもなるオバさんがこんな若い子に押しつぶされるなんて、気があるのかしら?」
「なっ……刀を首元に押し付けてるのだぞ! 冗談を――」
仕事帰りで手に持っていたのだろう、押し倒れた状態でカメラで橙乃の姿を撮り収める。
「なっ⁉ がっ⁉ うわああああ、目! 閃光だと⁉」
「あ、あららら……?」
お母さんは困惑。カメラごときでこんな反応を見せるとは思ってなかったのだろう。というか戦国時代にはもう閃光やらフラッシュ的な武器はあったのだな。
「橙乃、落ち着いて。ほら、ゆっくり目を開いて――」
「う、うううう……うん? ……ん?」
ゆっくりと目を開いたものの「ハッタリか……」とまた元の調子に戻った。
「おのっれ……あたっ⁉」
「それで、いきなり私を押し倒して木刀を突きつけて、どなたですか? 奏芽の友達?」
不意のげんこつを貰って橙乃はしゃがんで頭を押さえる。
「織田軍足軽大将の首里橙乃胤治だ――あたぁ⁉」
「そんな設定は四十代の私には通用しないから、ちゃんと言いなさい」
「だから、織田軍――いったぁ……⁉」
「はぁ……何回喰らいたい?」
“暁の侍”の目にも涙。戦国時代で恐れられていた侍も年上のお母さんには敵わないようだ。
「お母さん、本当なんだって。あの巻物が人化して――」
これまでの経緯を全部話す。
「へぇ、首里橙乃胤治……それでニカエルちゃん? 逃げないで」
「ひっ……⁉」
何にせよ厳罰が下るのはニカエルだ。巻物が生活圏に入ると非常に面倒になる。食費も掛かるし、猫子と違って部屋も必要だし、一番に面倒なのがこの性格だ。この時代に慣れていないし、何にでも歯向かっていくのがこの橙乃の性格。どうしようもない。
「まぁ今日一日は泊まってもいいかもしれないけど他は知らないよ。奏芽がやってね」
「なんで俺⁉」
飛び火が散った。
「だってそうでしょ、嫁の責任は夫が取りなさいな」
「ニカエルは俺の嫁じゃねーよ! というか夫でもない!」
「奏芽パパ~」
「パパじゃない! ああもう、分かった。分かったから……風呂入る!」
この現場から逃げたかった。春でも色んな汗が出るものだしさっさと洗い流したかった。
「か~な~め~」
「一緒に入らない!」
ニカエルも相変わらずだ。急いで洗面所に入りポポンと脱ぐものを脱いで風呂場に入る。ここまでくれば一応は安全圏、流石に邪魔はしてこないだろう。
ザブっと今日も熱い風呂に入る。相変わらず一人で入り浸る時間はここだけだ。
「首里橙乃胤治――」
今日覚えた人名を口に出す。戦国時代に活躍していた足軽大将……だっけ? 田楽狭間で活躍した、と言ったけど田楽狭間って確か桶狭間の戦いとでも今では言ったか? 歴史の教科書では全く学ばなかった首里橙乃胤治という存在は果たしてあったのか、無かったのか。でも巻物に橙乃の歴史が書いてあるというのなら、史実なんだろう。――という確信も掴めなかった。でも身のこなしや言葉遣いを聞くと時代が違うとは分かるんだけど……もし巻物自体が“嘘”の塊とかでも人化出来たらそれが記憶になってしまうのでは? それが行動にもなるのでは? なんて考えてしまった。
――どちらにせよ、俺は歴史には疎いから何も言えないのだけど。
「もうちょっと……勉強しとけば良かった」
今更な後悔だった。
「――と、殿方。失礼いたす。首里橙乃胤治、お背中を流しにきました」
「えっ⁉ ちょっ⁉ 待った⁉」
戸が開いて遅かった。
――俺が危機を感じたのは、橙乃とは不埒な事が起きるのでは? と思ったのだが、バスタオル一枚を体全体に回し、しっかりと見えない形で入ってきて安心したのだ。……いやいや、そうじゃなくて。
「橙乃、どうして」
「その――にかえる殿に言われてな。洗ってこいと」
はぁ、またどうしてそんな――。
「務めを果たさないと……拙者が許せぬ」
「はいはい、どうぞ」
風呂いすに座り、ボディソープを橙乃が持ってきたミニタオルに出しそれを橙乃に預ける。次いでに背中も預けた。
「石鹸もこんな軟な物になったのだな、これで洗えるのか?」
「同じようなもんだからそのまま洗っていいよ」
恐る恐るだが、俺の背中にペッタリとタオルを押す。少し不安そうな橙乃の顔が鏡越しに見える。――その不安の顔が何なのかは分からないけど。
……じーっと見てしまった。
「橙乃、分かる」
「……何がだ?」
「俺にはよく分かるんだ」
「そ、そうか。拙者の――」
「ああ、押さえてるな?」
動きが止まった。バスタオル越しで少しわからなかったが、やっぱり橙乃は『女』の子だった。
「結構キツいだろう。そんな風にしてると。おっぱい」
「…………」
「橙乃?」
「やはり背中は血で流す方が好みか?」
「いやっ⁉ 違う! 俺が貧乳だから……あっ⁉」
後ろを振り向いた勢いでバスタオルに手が当たってバスタオルをほどいてしまった。そこに見えたのは包帯のような物で押さえた胸だった。サラシとでも言ったか? そして侍とは思えぬ綺麗なお腹が――。
「や、やぁっ⁉ 見るなぁっ⁉」
ペシンッ――!
思いっきり平手打ちをほっぺたに喰らい地面に失せる。
首がもげそうな程の手刀に近い平手打ちを――。
「す、すまぬっ! だがこれはと、ととと、殿方が悪いぞっ! 拙者は侍ぞ! その……胸は邪魔でな!」
弁解が聞こえるけど、耳鳴りが激しすぎてうまく聞き取れない。
「せ、せっかく拙者の今の気持ちを察したかと思えば、殿方はそちらばかり見て破廉恥な! もう行くっ! こ、この……下衆がっ!」
「と、橙乃~……行かないで~……起こしてくれぇ~……」
そんな思いも叶わず、戸が閉まった。
まだほっぺたから首に掛けてジンジンする。ニカエルからは一度か二度はビンタを喰らった事があるけどそれを凌駕する威力だった。当たりどころが顎辺りだからかもしれないけど、何処喰らってもビンタは痛い。
「……顔、真っ赤だったな」
橙乃の『女』の子らしい所が一瞬だけ見れた。「やぁ⁉ 見るな⁉」だって。そんな声はこの一日で一度も聞かなかった言葉だ。
……言葉、か。なにか橙乃と食い違っていたようだったけど、俺に伝えたかった言葉があったのだろうか?
そして夕飯が過ぎて、家全体が消灯した所でお父さんの部屋に入る。
その伝えたかった言葉が気になるから皆が寝た所で二人で話してみる。
「おーい、橙乃?」
寝間着で窓の方向に正座をして、じっとしていた。
「何か用か? 殿方」
「奏芽でいいよ。何か聞きなれない」
「……そうか。二度聞く、用は?」
「風呂場の事だけどさ……」
風呂場と聞いたら橙乃は立ち上がりこちらに近づいてくる。
「うわっ! な、何?」
「も、もう胸の話はよしてくれ――」
「そうじゃなくって! 俺に何か話があったんじゃないかって?」
「…………」
横に目を向いた後、また俺の顔を捉える。
「何処か、高い所はあるか?」
「んー、屋根の上?」
「そこでいい」
屋根の上に登れる場所は俺の部屋の窓から屋根に乗って、そこから一番上まで登れる。橙乃を引き連れてニカエルを起こさないように窓を開け、橙乃に手を差し伸べる。
「さ、捕まって」
「立場が違うと、少し恥ずかしいな――」
そう言いながらも俺の手を掴み、ぐいっと引っ張る、その勢いで後ろにこけない程度に。そこから屋根を伝い、一番上にまで到達する。
「……月は変わらぬな。だが、ここまで光に溢れているとは」
橙乃は屋根に立って月を眺めたと思いきや下を見て街灯や、遠くのビルの明かりを見る。
――その目は少し寂しそうだった。
立っている橙乃の傍に座り、橙乃と同じ場所を見てみる。……俺にとってはこれが普通の光景。橙乃にとっては異色な光景……か。
「橙乃、話って?」
「そうだな。……言うべきかも分からぬが、拙者はここに生きる価値があるのだろうか?」
ケーキ屋でもそれに悩んでいたな。橙乃なりに戦う意味を探していたのだろうけど、結果としては見つからなくて、風呂場で現代人の俺に答えを口出して欲しかったんだろう。――俺がその答えを塞いだ結果になっちゃったけど。
「橙乃はどうしたい?」
「分からぬ。分からぬから殿方に事を話しているでないか」
「んん……」
俺も一人で答えが出せない人だから、こう橙乃に押し掛けられても。
――悪い癖、ああ誰かに「この答えはなんだ」と言いたい。これだから人との関係は難しい。自分の事だったらスッパリ決められるんだけど。
「戦えぬ場所で拙者に生きる所は無い……やはり自害するしか」
「ま、待て待て! それは駄目だって!」
「じゃあせめて刀を振るえる場やお坊仕事でも良い! そんな古今変わらぬ場は無いのか!」
「そんな場所……あ」
あったわ、この夏風町に一つ。
しかも同級生がやってる場所。
「古今変わらなかったら、“戦う場”として考える?」
「そうだ、鹿島新当流が振るえる場所であれば全て“戦う場”だ!」
「そっか……アテがあるから明日ね」
「本当か⁉ 拙者如きの頼み、申し訳ない!」
土下座して頼みこむ程、戦いが好きなのだな。こういう事になると血が騒ぐのかもしれない。それとも――切りたくて仕方がない? それだったらちょっとマズイかも。
※ ※ ※ ※
朝になって橙乃を探していると、庭で鞘から刀を抜き素振りをしていた。
スンッ――スンッ――
「なかなかいい音が鳴るな。初めて聞く」
「朝からご苦労、奏芽殿」
少し顔色が良い方向に変わっていた。
「そっちこそ、ニカエル起こしたら行こうか」
「うむっ」
笑った顔に少しドキッとした。冷やしたとかそういう方向ではなく、笑った顔は初めて見たからだ。やっぱりどんな『女』の子でも目を瞑ってニッコリと笑うと可愛い。でも“暁の侍”にそんな事を言ったらその刀でバッサリと斬られそうだから止めておこ……本当に怖い部分もあるし。
「おっはよう!」
「ご苦労、にかえる殿……姫は?」
「姫はこれっ」
「……ん?」
ニカエル、猫の姿のニャコを指差しても橙乃は分かってないと思うぞ。それに橙乃も猫子も俺は本当に門外不出にするつもりだからバラすなよ~……。
三人揃った所で、向かった場所は神指さんの所だ。
「神社……か。ううむ、まさか通りになるとは」
「どうしたの?」
「いや、三郎と寺社とは苛烈な……いや、断りは入れぬ。すまない、忘れてくれ」
「それだったらいいんだけど」
歴史上で織田信長と神社とは何かあったんだろうな。あまり触れないでおこう。
石段を上がって早速神指さんを見つける。
「あ、奏芽く~ん! 来てくれましたか! お茶出しますね」
「お茶はいいや、それより今日は話があって来たんだけど……」
「はい!」と目を輝かしているけど、その目の輝きは多分橙乃に対してじゃない。俺に対しての輝きだろう。でも今回は橙乃にその目の輝きを見せて欲しい。
「こっちにいる子。雇ってくれない?」
「はい? ――えーっと、それは良いんですけど。奏芽くんの友達?」
「首里橙乃胤治と申す! 宜しく頼む!」
「――奏芽くんちょっと」
呼び出されて、橙乃から見えない場所に移る。
「腰の刀は本物? 名前はネタ?」
「神指さんもお母さんみたいな事言うなー。実はカクカクシカジカ――」
昨日、お母さんに言った内容を神指さんにも伝える。
「へぇ……本物のお侍さん」
「という事で、修行相手にもなるし、どうかしてくんない?」
「奏芽くんの為なら!」
「俺の為かよぉ……まぁいいや」
そして元の位置へ戻る。
「えーと、橙乃さん? 色々話し合った結果、どうぞお世話します」
「本当か! ――不束者だがこれから宜しく頼む!」
深々と頭を下げる。
「橙乃さん、早速ですけど。お手合わせお願い出来ますか?」
「お手合わせ?」
この神社にも道具を持ってきているのだろう。御札所から木刀が二本出てきた。
「おお、模擬にしてもこれは有り難い、木刀とはいえ合えるとは」
「良かったな、橙乃。……神指さん、宜しくね」
何とか橙乃の“戦う場”をこの現代でも見つけれて良かった。
そして今は神指さんが居ない昼間は神指お父さんと神社を守り、夜は巻物になって神社で寝泊まりをしているらしい。土日にはたまにケーキ屋に寄って買い物をしている姿を今も見る。――その調子で太らないで欲しいけど。
「橙乃、どうだ? 今は」
「刀を使う事は無くなったが、力を他の者に与える事はまた喜びだな。奏芽殿、“平成”というのもいいな」
――これは一つの物語であり、一つの出来事だ。
そう、“暁の侍”という今の生き方の。




