45話 『女』の衝撃の秘密、『男』の告白
重い日曜日の夜――
一度は持ち直したはずの楽しい日曜日がまた重くなってしまった。今日は俺を責めるかのようにイベントが積み重なっていて大変だった。特に志苔の事で。……でも、深緑に暴力を振ったり金品を強奪するような事が無かったからそれが救いかもしれない。でも、志苔の『友達という考え方』を考える度に唇を噛む事が帰り道に多かった。それだけ志苔が許せなかった。――またグッと犬歯で唇を噛み、血の味が広がる。強く噛んだ訳じゃない、もう何度も何度も噛んで傷が付いてしまっているからだ。
「クソ……」
「…………」
ピクッと深緑の体が反応してしまったのを見て、つい汚い言葉を出してしまったと気付いた。心に仕舞いきれない程に怒りの感情が漏れ出している。
「――ごめんね。……ごめんね」
それしか深緑に言えなかった。
俺は今なにをするべきなのかも分かっていないからだ。残りの四十日で何をすべきなのか。この四十日が過ぎたら俺と深緑は元の生活に戻る。そう――俺は元の生活に戻っても何とも無いのだが、深緑はまた秋空市で志苔に日々暴力や強奪を繰り返される生活に戻るという事だ。それだけはならないと思っていても、そこで『俺は何をするべき』と考えているからだ。志苔に説得が効く訳が無いし、全力で殴る蹴るの暴行をして志苔を病院送りにして体で思い知りをさせるとか非社会的行動をした所で深緑の笑顔が思い浮かばない。
じゃあどうすれば? 結果、今を見守るしかなかった。
「YK」
「…………」
「YK」
「んっ⁉」
気付いた時には既に深緑の家に着いていた。
「ごめんごめん」
「YK」
鍵穴に鍵を刺したまま深緑の動きが止まる。
家に入る前に俺に一言あるらしい。
「ごめんしか、言ってない」
「ご……んん――」
また言おうとした。帰り道に深緑に言ってるのはこの一言「ごめん」だけだった。
「大丈夫、志苔の事」
「そうは言うけど……本当にそれでいいの?」
「いい」
「…………」
深緑がそう言い切ってしまって後に続く言葉が出ない。
フッと、最初の日曜日の深緑の顔が思い浮かぶ。大粒の涙がマフラーに染み込んでいき、無表情で泣く深緑。あの姿を見るだけで心が痛む、見せちゃいけない姿。――駄目、駄目なんだ。深緑がそんな姿を見せちゃ駄目なんだ。駄目だ駄目だ。駄目――
「絶対に駄目、わたしが何とかする」
言い切ってしまった。俺は言い切った。
出来もしない約束事を言ってしまった。
「聞きたかった」
「……何とか、するから」
深緑に俺の覚悟を言葉として抜き出されてしまったようだ。今の抜け目ない深緑がちょっと憎い。
……また志苔に会った時はどうすればいいのかは追々考えるとして今は眠りに付いてしまおう。まだ時間はあるんだし、何なら三月に入ってから直接志苔を呼び出して貰って決着をつけてもいい。俺は決着を付けるまで俺の家に帰る事は無い。
※ ※ ※ ※
――少し傍にいて欲しい。
深緑にそんな風に言われてベッドの横に正座してじっと深緑に見つめられている。言葉に出す事もなく、行動に出る事もなく深緑に見つめられている。こんな状況は過ごしていて一度も無く初めてだ。いつもなら一人でベッドに入って一人で寝る事が多いのに。
「ちょっとトイレ」
「駄目、深緑が寝るまで、待って」
本当に寝るのかね……?
そんな事を思って深緑が目を閉じて寝息を立てるまでを待つ。
スッ――
深緑はマフラーに手を入れて、締め上げていたマフラーを少し緩めて寝やすい体制に入る。流石に日中はキツく締めているけど、寝る時は緩めるか。
「おやすみ」
「あ、おやすみ。深緑」
一体何をしたかったのかは、分からなかったが深緑は俺に傍にただいて欲しかっただけらしい。それか以前にお母さんとかにこういう事をしてもらったのを俺にしてほしかったのか。何せ深緑は寂しがり屋だからこれでも嬉しいのだろう。母親モドキな事はあまりしたくないけど深緑が癇癪起こすと困るし、深緑に長い時間見つめられる事も無いから逆に珍しい事を体験した。それほど、俺の深緑との信頼が増しているとの考えもある。
目を瞑って寝息を立てた所で立ち上がる。我慢しすぎて膀胱が破裂しそうだ。
「もー、ありゃしないったら」
トイレルームの中に入ってドアを閉めようとすると何か柔らかい物に弾かれドアが手の届かない方向に行く。何か引っかかったのだろうか? ドアの縁を上から下と確認する。
「は…………」
思わず息を呑んでしまった。
この時まで気づかなかった。自分のチノパンのベルトループに引っかかっていてトイレまで引きずり回していた深緑の特に重要な物。それをゆっくりと拾い上げる。
「マフラー……」
深緑の水色のマフラーが自分のベルトループに引っかかる自体なんて想定していなかった。立ち上がった時だろうか? 何の重さも感じず、深緑にもマフラーが引っかからずスルスルと抜けてここまで持ってきてしまった。
「は、早く巻かないと……!」
トイレの気なんて既に無くなってしまってさっさと深緑の所まで戻る。
――でも、遅かった。違和感を感じた深緑は起き上がっていたのだ。
「ごめん! みろっ……⁉」
直接初めて見た深緑の口周り。
以前に写真で見た通りの形をして、とても少女らしい顔立ちをしていた。
――しかし、それで息を呑んだ訳じゃない。マフラーをしていた理由が分かり深緑の家で見た物がフラッシュバックする。一度は記憶から無くなってしまった一枚の紙。美容整形外科の領収書。
深緑の顔を正面に捉えて顎の先からやや右、そこから唇に向かって刃物で切ったような線。しかも普通に指先とか包丁で誤って切ったような切り傷ではなく深く、もっと深く切られていて凹んでいる。
――赤黒い。生涯一生残るような傷が深緑の顔に付けられている。
「うっ……ぷっ……」
深緑相手に失礼だが、思わず口を手で押さえてしまって無理に押し出してくる吐き気を喉元辺りで止める。見てしまった俺はどう声を掛けていいのかも、どう行動すればいいのかも分からず視界が歪み、その場で立ちすくみそうになる。
そして来る遅い後悔。――もっと、早くマフラーの存在に気付いていれば……!
「み、た……な!」
「…………!」
――見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな見たな!
ゲシュタルト崩壊が起こる程に深緑は何度も繰り返して発言する。
今まで見ていた深緑と違って優しい声とかではなく裏返るほど口をかっ開き大きな声を出して眉間にしわを寄せ、怒りをぶつけてくる。怒りながらも大粒の涙を頬に沿わせひたすら「見たな」と発言をする。
「深緑は見られたくなかった! だからマフラーをしていたのに! どうして取ったの⁉ 深緑が寝たから⁉ 取って気付かないと思った⁉」
「…………」
とても俺の不注意で。とは言えなかった。
仮に深緑がずっと寝たままでもこの傷は見ることになる。
「深緑はYKが友達だと思ってたのに! 信じてたのに! 深緑は嫌いになった!」
「うっ……」
これまで積み上げてきたものが一気に崩れだす音が俺の脳内で響いた。
深緑も初めてこんな大きな声を出したのか、肩を上げ下げして息が上がっている。
涙は止まらず、また怒りも止まらず。眉間にしわを寄せたまま俺を睨んでいる。
「…………」
何も言い出せない。
こんな状態の深緑を前にして何も言い出せない。
でも、考えず。何も考えず感情に身を任せて言い出す。
「……辛かったよね、痛かったよね……」
「…………!」
言い出したと同時に俺も涙が出る。
「……ごめんね、マフラー気付かないで引っ張っちゃって。深緑は見せたくなかったんだよね。わたし、深緑が隠したい秘密を無理矢理引き剥がすように見ちゃって……ごめんね……」
ベッドの上で女の子座りしている深緑の傍に寄りマフラーを横に置き直ぐに抱きつく。
後頭部を撫でて体でも表現する。
「見たくて見たわけ……じゃない?」
「……わたしが気が付かなかったの……これはわたしのせい……」
ぎゅっと深緑に抱きつき、嗚咽する。
一人の深緑の友達として今出来る事を出来るだけ強く移入したい。
「――悪くない。泣かな、い、で」
いつもの深緑に戻った。
でも俺は深緑に抱きつくのを止めなかった。今離れるとまたあの深緑に戻ってしまいそうだから。深緑の肩に涙を零しても深緑は少し離れようとしてもまた体をくっつける。
「落ち、着く、まで、この、ままで、いい」
「……深緑、ありがとう」
やっぱり深緑は優しかった。
少し経って――ようやく俺も落ち着いた。
一度自前のハンカチで深緑の涙の跡を拭き、俺は袖で涙を拭く。
「っ……」
深緑の顔を見てまた軽い吐き気。
深緑の傷は直視出来ない。
「――巻き直す」
それを察してくれた深緑はマフラーを顔に巻き直してくれている。
「深緑……聞いちゃいけないと思うけど、傷の事、教えてくれる?」
「――志苔」
その一言で体の中が沸騰する。
アイツか、アイツがやったのか……! もう深緑から経緯とか工程など聞かなくていい。その一言でアイツが深緑に対して何をしでかしたのかも分かった。異常者――志苔は異常者だ。
「分かった。ありがとう深緑。……許さない」
「――助けて、"唯川奏芽"」
初めてフルネームで言ってくれた。
本当に助けを求めている。これは『男』としてやっぱり深緑を助けなければならない。
「うん、覚悟の通りで!」
「――ありがとう」
と、一段落終えた所で。
「さて、深緑の秘密を知っちゃった訳だし。深緑、わたしの秘密も知りたいでしょ」
「――無理、しないで」
建前は自慢げ、だけど内心やっべぇ。
後悔先に立たず。
「一度、スマホ返してくれる? それが無いと秘密見せられないの」
「…………」
「ううん大丈夫。直ぐ返せる」
「んっ」
相変わらずブラジャーのホック部分でスマホを上手く引っ掛けているな。また背中から取り出しているように見えた。
……一ヶ月半振りに帰ってきた俺のスマホ。流石に電源ボタンを長押ししても長期の充電無し、電池切れで起動はしなかったので一度充電ケーブルを刺して起動出来るまでを待つ。
「――何するの」
「秘密だから最後まで期待してて」
そう建前で言うけど、内心はやっぱり『やべぇ』としか思っていなかった。
でも深緑の秘密を知ってしまった限りは俺も秘密をバラさなければならない。そこの所はしっかりしないと、平等ではないからな。
ヴッ――
電源ボタンを長押しすると非常に短いバイブレーションが手に響く。
パッとメーカーと機種のロゴが出て、最後に待ち受けが点灯される。俺のスマホってこんなんだったけなぁ。もう困らない体になっているから斬新になってしまった。
電話アプリを起動しようかと思ったら先に出てきてしまった――
「ぷはぁ――! ちょっと~奏芽! 今何時よ~!」
「…………」
奇想天外な状況で深緑は目を丸くしている。
今の状況を知らないニカエルは急にスマホから出てきてしまってぎょっとする。そりゃ知らない部屋で知らない人が居て、俺達の体より小さいスマホから出てきてしまった所を目撃されてしまったからな。
「あの~あはは~……ごめんね~」
スーッとニカエルはスマホの中に戻っていってしまった。
「えっと……気になるよね?」
深緑は頷く。
「はぁ――ニカエル、出てこい」
場を確認するように、もしくはとりあえずと言った感じで顔だけ外に出す。
「う~……一ヶ月振りに出てきたかと思えば知らない場所なんて思わなかった~……」
そして諦めて出てきたニカエルはテーブルの横にあぐらをかいて座る。
天使っぽくなさ、ニカエルは変わっていなかった。
「ど、どうも~ニカエルです」
「名字」
「はい?」
「名字」
あー、俺は直ぐに分かった。
深緑はニカエルに対してイニシャル読みしたいから名字が欲しいらしい。
「私は、ニカエルだけだけど」
「N」
「は?」
「N」
キレそうになるニカエルを押さえて事情を説明する。
深緑はそんな悪い子じゃないんだ、と。
「まぁそんなに面倒な名前じゃないからニカエルでいいよ」
「――分かった」
そんなこんなで自己紹介が終わった所で本題に入る。
――と言っても既に入っているような物だが、これよりも深緑は驚くだろう。
「ハチサンイチ、ニキュニキュ――っと。じゃあ見ててね!」
「んっ」
深緑は簡単に頷く。これから何が起こるかも分かっていないのに。
自分は〈831-2929〉に電話をして待つ。本当は深緑にこの姿を見せる気も無かったのだが、深緑の秘密を知ってしまった以上バラすしかなかった。深緑は断ってくれたけどそうはいかない。『男』として廃れてしまう。――そう『男』として
「今まで、騙しててごめんな……」
「…………」
深緑は目を丸くしている。
これが唯川奏芽、本来の姿。
ニカエルも状況を理解していないので目を丸くしている。ニカエルからしたら急にバラしたような物だもんな。さて――本格的に深緑に嫌われてもしょうがないだろう。『女』風呂に入ったり深緑の服を脱がしたり、『男』として大変極まりない変態行為をしたのだから。
「もっと、好き」
「……え?」
意外な言葉だった。
深緑らしい、と言えば深緑らしいのだが、嫌われると思っていたのに逆にもっと好きになってしまったらしい。どうもこうもあっさり受け入れられては株が上がったのか下がったのかも分からない。この感覚は名胡桃さんにバラしたのと同じ感覚だった。
そして深緑から近づいてきてぎゅっと抱きつかれる。『男』の状態だと身長差があり、俺の下唇辺りに深緑の髪が触る。こんなにも深緑は小さかったんだな。
「暖かい」
「あ、あぁ――うん」
とても複雑すぎて言葉に出せない。
あれ、本当に俺は『男』としてバラしたんだよな?
その後も深緑は何の疑いもせず、ベッドに座りジロジロと『男』の俺を見る。
「まぁ――その、ニカエルの魔法っていうのかな。こいつのお陰で学校に通ってる訳」
「…………」
うんうん、と少し顔を赤くしながら頷いている。
「学校の人には……バラさないでね?」
「分かった」
これもまたあっさり。
段落付いた所でニカエルが手を上げて視線を注目させ、バッと指を刺したのは深緑のマフラーだった。そういえばニカエルは深緑の傷を確認していないから気になるのも仕方がない。
「大丈夫だ深緑。ニカエルは力になるかもしれない」
「――んっ」
見せようか見せないかと深緑は少し悩んだが、俺の言葉でシュルシュルとマフラーを取り傷を見せる。
――やっぱり直視は無理だ。深緑の目の下を見る感じで傷を視界に入れる。
「ほーん……奏芽、体貸してくれる?」
「ちょっと待て! 嫌な予感がする!」
体がゾクゾクッと悪寒が走り、身内のニカエルとはいえお願いを断る。
「これは深緑ちゃんの傷治しに大事な要なんだよ? 奏芽だけに」
「そんな事で上手く使わないでいい! ――工程を教えろ!」
ニカエルはゆっくりと教えてくれた。
――まず、ニカエルと俺は契約を結んでおり他の人に対して魔法は使えない。以前に〈天使のキス〉でその説明は受けた。絶対に他人に"直接"使用は無理だと言ってたな。
そう"直接"は無理。俺の体を経由して魔法を使う事は可能で、俺の体が必要となる。けど、俺は天界の使いでは無いので耐性がなく、魔法の負担と電撃のような強烈な痛みが体に襲い掛かってくるという。――ニカエルは小さい力の〈魔法経由〉はした事があるけど、強い力の〈魔法経由〉は試した事が無いと言っている。でもニカエルが魔法を使う時は指先がピリピリするから多分電気みたいな衝撃は来るという。ここが怖いポイント。
「でも、深緑の為なら――」
「無理しないで」
深緑は本気で心配という雰囲気を醸しだしている。
「……大丈夫」
深緑の頭を撫でる。
深緑の深い切り傷を見る度に心が痛む。
――治してあげないと。
「じゃあ奏芽。行くよ」
「う、うん」
深緑と向き合って目を合わせる。
深緑は俺の表情を見て気付いているかも知れないが、怖いものはやっぱり怖い!
「我は人物創造の天の使い。我が魔法を奏芽に対し経由させ、対象は深緑に魔法を使う」
天使らしい事を言ってニカエルは両手を俺の両肩に置く。
――来る。〈魔法経由〉とやらが。
「ぬっ⁉ ぐっ⁉ ううっ⁉」
体が燃えるように熱い! 鞭で跡が付く程の強さで大人数に叩かれているような痛み!
思わず手をグーにする。この痛みに耐えるしか無かった。
「奏芽! その手を広げて深緑ちゃんの傷に!」
「うおおおおおっ⁉ ぐううう――!」
ニカエルに言われた通りに痺れている右手を開き、そっと深緑の傷に触れる。
深緑自身は痛みなどは感じていないのか、無表情のまま。でも赤黒かった傷は徐々に肌の色に戻っていき、切られた凹みが閉じていく。そして平面化して無くなっていった。
「はいっ!」
ニカエルが俺の肩から両手を離す。
同時に開放される。
「がぁぁぁぁ――!」
そして疲労感が一気に出て、その場でへこたれる。
これは大仕事だった……。
少し休んでから、深緑の顔をしっかり捉えると。
「ふぅ……綺麗になったな」
深緑の部屋の写真で見たまんまの深緑の顔がそこにあった。
少女には似合わない傷が綺麗そっくりに無くなっていて、傷隠し用のマフラーの必要も無い顔になっていた。これでいい、俺が頑張った甲斐があった。
「――ありがとう。"唯川奏芽"」
「YKでいいよ。そっちの方が慣れてる」
「――YK」
「うん、どういたしまして」
笑ってはくれなかったけど、これが深緑のありがとうの仕方だ。
「さてと、転換して戻るかな」
「――朝まで、そのまま」
「それは深緑が恥ずかしいでしょ」
「――そのまま」
……分かった。
小さく言葉に出して、長かった"重い"日曜日が終わる。
照明を落として、深緑と俺は寝る体制に入る。
「あ。ニカエル、ここ狭いからお前はスマホの中な」
「なんか今章、私の出番少なくない? ねぇ、もう少し書いてよ」
何を言ってるんだお前は。
久々のボケとツッコミで少し俺の気持ちが和んだ。




