44話 夏風町→秋空市『女』の変化
重い日曜日、ようやく家に帰れたかと安心していたのに帰ってみれば母親からの説教があり、迎え入れられる事はなかった。今は秋空市に帰りたい気持ちである。息子……いや今は娘か、一ヶ月振りに帰ってきてこれは無いと思う。
「失敗したなぁ……」
ベッドに背中全体を付けてこの唯川家訪問を失敗と印を焼く。結局何の為の訪問なのかというと、名胡桃さん達と仲良くして深緑に友達を増やしてほしかったという事なのだけど、深緑自身が拒絶してしまったし朱音とは合わなかったし、やっぱり焼印は"失敗"だ。
「おはよう」
「おはよう深緑」
深緑が俺の部屋に入ってくる。夜は共にせず俺の部屋の反対側の部屋で過ごしてもらった。こちらの部屋は狭くて二人で寝れるような場所じゃないからな。……というのは表向きの話で、実際一人で寝る時間が欲しかった。一人になる辛さは分からないけども、一人になる大事さは必要だと思う。それが今の俺の理由だ。
「帰るか」
「んっ」
あっさりとした深緑の頷きで俺は帰り支度をする。流石に秋空市で毎回新しい服を買うのは残金的に余裕が無くなるので服をバッグに一まとめにしてこれを持ち出す。後は何も持ち出す物は無し、これだけで十分だ。……新規に買う物はなるべく少なくしなければ三月まで持たなくなるしね。
ジーッ――
チャックを締め切って持ち上げる。これぐらいだったら軽く持ち上げられるし、三月の帰りも重くはならないだろう。深緑を見て俺は頷き部屋を出る。
……昨日はお母さんとは大した話をせず、ただ無言の食卓だったというのもあってリビングの扉を開けたくない。しかし何も言わずこのまま帰るのも息子として最悪な関係で終わりそうなので、渋々扉を開ける。
「お、帰っちゃうの?」
あっけなく。
一日でポンと忘れるような人間ではないのだが、普通にタバコを咥えてニャコを膝に乗せて首だけ回してこちらを見る。自然体すぎ。
「まぁね……また来る」
ただ挨拶をしたかっただけなのでゆっくりと扉を閉めようとするとニャコが近づいてきてズボンの裾を牙で引っ張ってくる。やれやれ、まだ用があるのか。
(余が主人に用がある訳ではない。母方だ)
「…………?」
深緑には聞こえないように小声でニャコが喋る。
再び扉を大きく開けるとお母さんが立ち上がっていた。
「昨日は少しキツめに言ったけど、深緑ちゃんと過ごして学んできなさいな。唯川奏芽"くん"」
やっぱり昨日の事であった。急にあんな事を言われて困惑したけど流石に俺の落ち込みを見てキツい事を言ったと思ったのだろう。今も絶賛学び中だけど、そこまで深くは考えず行動したから学習量が少なかった。なんだかんだ言って色々教えてくれるのが俺のお母さん、唯川美依だ。
「あ、うん……なんか、少し気持ち悪い」
しかし、いつものお母さんとは違いすぎて正直な言葉を言えず頭を掻いて目線を外す。
「うーわっ、お母さんの言葉を気持ち悪いって! どう思う深緑ちゃん、酷くない?」
深緑に促すな。
「ソー、バッド」
「深緑まで……いつから仲良くなったのさ……」
嫌に共謀感があって俺が浮いている。普段なら深緑はこんな事に口を出すはずも無いのだが今回だけは手にグッドマークを作り英語を使っている。深緑の心情の変化と言えばそれで終わってしまうのだが、今を見てみると明らかな共謀感。一日で何が変わった、深緑よ。
「ははー! 私はフォトグラファーよ、誰とも仲良くなれるわ!」
はぁ……。
「よく分からん」
すっかり、自分も何が言いたかったのかも泡になってしまった。昨日の俺は何を悩んでしまったのかも泡になっている。でもお母さんが言いたかったことはシラフのはずだし……なんだったのだろうか。
「奏芽、いってらっしゃい」
「あ、あア……いっテくる……」
口の渇きもあってか、徐々に言葉に出しづらくなる。不気味なお母さんの笑顔もドアを閉めて見えなくしてとっとと深緑と共に家を出る。今は居辛い事は確か、変に深緑も明るいし……これ以上居られたら俺の知っている深緑じゃなくなる可能性もある訳だし……もしお母さんにコーラでも飲まされて関西弁深緑で言葉数が多くなって酔ったお母さんの言葉を聞くと俺は耳が痛くなる。
失敗なのか成功なのか全く分からないまま家を出て日曜日の夏風町を歩く。今日も晴れ晴れとしているけど当たる風は相変わらず寒い。
「変なお母さんだったでしょ?」
深緑は顔を横に振る。
「写真とか撮られなかった?」
また顔を横に振る。
「何か言われなかった?」
横に振る。
正しい反応であるけど、さっきの一体感を見る限りは何かをされたようではある……俺の前では行われてない何かが。しかしこの応答を見ると別に服を脱がされたとかバリバリ変な事をされた訳では無さそうだ。俺の家では何が起こるか分からないし、こうして後で聞いておかないと状況も把握できないから怖い。天使とか猫とか部外から入ってくる者は特に。不信に思う俺も申し訳ないけど。
「あれ」
深緑はまた後ろに下がり俺の後ろに隠れる。あれとは?
「……神指さん、か」
数十メートルも離れてるのに神指さんを見つけとは脅威の視力だな。絶対に2.0では無さそう、今度朱音か名胡桃さんにランドルト環の紙を持ってもらって1メートルずつ離れて貰って視力を測ってもらうか。
「あー! 奏芽くーん!」
「やっほー……」
自転車に乗ってきて巫女さん登場。
といっても赤い袴を着たいつもの服ではないけど。
「すっかりその隣にいる深緑さんも慣れちゃってますね」
「ん……まぁ、そうだね」
実はスマホを持っていて15m以上離れられないから一緒に居るとは言えない。
「そういえば、どうしてここに?」
「わたしの家で一泊したの」
「んえ⁉」
神指さんは手が滑ってチリンと鈴を鳴らす。
「私は奏芽くんの家で泊まった事ないのに! 羨ましい!」
「そんなに泊まりたかったの⁉」
「だって好きですもん!」
住宅街で大声で百合発言されても俺が一番困る!
「わーっ! 何も、何も聞こえなかったからね! わーっ!」
「わー」
何故に深緑も便乗する。
深緑の耳を塞ぎ聞こえないようにする。神指さんがこれ以上話をややこしくすると俺の生存も危うくなるので神指さんが悶ている内にとっとと離れる。もう夏風町は変人だらけだ! こんな巫女様いらないよ!
「ごめん! 本当にごめんね!」
「気にしてない」
そう深緑が言ってくれるとありがたい。
駅まで直行して電車に飛び乗る。深緑は息一つ上がっていないが、俺は冷や汗と動悸で人目も気にせずにぐったりと大股に座る。ややアヘ顔と呼ばれる物に近い顔色をしている。……ここは顔色が悪いとでも言っておこう。
「ああ……」
「大丈夫」
逆に深緑に撫でられる。
「……ど、どうだった夏風町。一日過ごしてみて」
こんな場所だけど改めて深緑に聞いてみる。
「好き」
単直に好きと言われても確かに伝わるは伝わるけど……。
「どんな所が?」
「もっと好き」
それじゃ会話にもならないし、もっとと付けられても困る。
「んん……深緑、もっと詳細に」
正面を向いていた深緑が急にこちらを振り向いてきて体がビクッと反応する。
深緑は手を出して俺の首元に回し頬を肩に付けて体全体を押し付ける……。
「YK、好き」
「……は、はは……そっか、好き……ねぇ……」
やや積極的な深緑を見て困惑する。
昨日今日に続いてドキッと肝が冷えたり熱くなったりする展開が多い。
これが深緑にとっての夏風町の好きであり詳細なのだろう。俺はそんな大したことしてないし、逆に深緑にお世話になりっぱなしな気もする。そんな俺が好きだと言われていい立場なのだろうか?
でも腕元で鳴る深緑の早い鼓動を感じ取る限り、深緑にとって俺はそんな立場なのだと思う。
「……いい一日になりそう」
そう確信した。
※ ※ ※ ※
夕方――
相変わらず、秋空市の深緑宅に帰っても買い出しとテレビ鑑賞だけで終わってしまって銭湯の準備をして歩いている所だ。大した運動量ではないのだが、汗でぺたぺた深緑。これは確かに銭湯に向かう必要はあるみたいだ。一方で自分はそこまででもない。
「銭湯って場所によって違うから楽しみがあるね」
「…………」
そもそもそれ以外の場所に深緑が向かうかどうかも分からないので、これは選択のミスをしたかもしれない。久々に会話が繋がらなくなってしまった。
「YKは」
「ん?」
「YKは、お風呂、好き?」
「…………」
開いた口が閉じない。
初めて疑問形で深緑が会話をしてきて会話が返せない。
「変な事、言った、ごめん」
「……ううん! 好き!」
大した会話じゃないのに大きな進歩過ぎて、嬉しくて顔が真っ赤になる。
まだお風呂にも入ってないのに既にホカホカ状態で銭湯に向かう事になるとは思わなかった。これは予想外だ。まさか深緑から会話の繋ぎをしてくるとは……。
「深緑も、好き」
「毎週向かうくらいだもんね。よく分かる」
深緑の雰囲気が徐々に明るくなる。
「ちょっと、歩く」
「どうしたの?」
「他の銭湯、行こ」
「……うん!」
いつもの機械的な深緑のスケジュールに合わせる事が多かったけど、こうして稀な深緑の行動に合わせるのも悪くはないと思い頷く。これも一つの友達との付き合い方だろう。
「今日はなんか変わったね」
「友達の見方、変わった、分かった」
「今までどう見てた……って言わないか。ううん、言わなくていいの。凄いね」
深緑の頭を撫でる。
「嬉しい」
「ありがとう」
変わったと言っても相変わらず深緑の表情や何やらと性格はそんなに変わらなかったけど、こうして友達の変化があると俺も嬉しくなる。特に深緑とは一ヶ月以上もこうして過ごしているのだから何か変化が無いと俺も楽しめない。
以前に言った言葉でもこれまで過ごして来たことを振り返って言葉に出してもいい。とにかく今は深緑の様子が変わる前に俺は銭湯に辿り着くまで会話を続けたかった。
「そういえば、リバーシって何で好きなの?」
「――オカンとやるの、好きだった」
「それで大会に出たんだ」
「――大会はオカンが言ったから、深緑はドキドキしてて、集中できなかった」
「でも盤面にしか目に行かないからそんなに」
「優勝、目立つ」
「あー」
確かに表彰台に立って皆に見られてしまうと考えると納得。深緑はそういう舞台とか不得意そうだもんな。いや不得意どころか嫌いだろう。リバーシをする相手を間違えたな……対戦する相手にとっても深緑にとっても。
「……マフラーは取ってくれないの?」
「――これは駄目」
やっぱりね、調子に乗って聞くことでは無かったか。本人に取って嫌な事を聞いてしまって、この場を濁してしまった。深緑にマフラーの事を話題に出すのは禁句。でもそろそろ深緑の顔をはっきりと目に捉えたいのは事実だ。
「着いた」
「あー終わっちゃったか」
深緑は顔を傾ける。
「あ、いや。こっちの話」
つい言葉に出してしまうと色々深緑が詮索をしてしまうから怖い。もうこの言葉だけでも十手先と考えているのだろう。――ああ、恐ろしい子!
※ ※ ※ ※
シャンプーを泡立てて深緑の頭にポンと乗せてわしわしと洗う。結局なになにと変わったという訳でもなく深緑の雰囲気が良くなっただけでまた元の深緑へと戻ってしまった。人には気分というのがあるから仕方ないものの、ずっと続かないのがガックリとくる。
「…………」
あまり深緑の背中というのを意識して見ないからこうしてじっくり見ると中々綺麗な背中をしている。片手で頭を洗いながらもう片手の人差し指をピンと立てて首から尾骨辺りに掛けて指一本でなぞる。
「ほー……いい肌触り」
「YK」
「はっ⁉ 何⁉」
「くすぐったい」
ゾクゾクッとしたらしく深緑の体が震えている。無意識に悪いことをしたらしい、これは申し訳ない。どうにも魅了される体をしていてつい触ってしまった。自分も『女』の姿が長すぎてつい俺は『男』だと意識が無くなってしまった。ダブルに意識がなくなってしまうのがここ『女』湯だ。……『男』に戻ったら『女』湯にスーッと入らないようにしなきゃ。逆もまた同じ。
「頭にお湯掛けるよー」
「んっ」
また丁寧にシャワーを掛けて泡を落とす。
これが終わったらさっさと肩まで湯船に入る。これが深緑流の入り方だ。
自分も失礼してその横に居座る。
「あー……今日も一日お疲れ様」
「んっ」
深緑は頷く。
いつもの銭湯とは違えど、暖かいお湯が良いのはどこも一緒だ。深緑も目を閉じて実感しているようでスッキリとした顔をしている。俺も今はそんな感じ。――風呂に入ってて不安なのは、フリーザーパックに入ったスマホなんだけど……いつしかジュッと破裂して壊れるなんて事は防水だから無いだろうけど、風呂場に持ち込む物ではないし結構目立つ。盗撮紛いの物だから置いて欲しいのもある。もしこれが外に出てきたニカエルだったらスマホも持ち込むような事も無いんだけど、深緑&スマホに閉じ込められたニカエルだから俺も不安な状況になっているのだ。
……はっ、もしスマホが壊れたらニカエルは一生閉じ込められたままなのか? この事に気付いて若干尿道が緩んだ感じがしてしまった。ヤバいヤバい、出しちゃ駄目だ。
「……そういえば、さ。夜に何かお母さんと話してた?」
俺が一人になる状況と言えば風呂ぐらいなので、その間にお母さんと深緑が何かお話があったのではないかと思って深緑に聞いてみる。
「――何も」
「そっか。でも話したくない事をわたしは無理に聞かないし、他愛もない話だろうし」
少し深緑が言葉に出す際に間があった気もするが、気楽に答えた。
「――他愛、じゃない」
「……えっ?」
そこだけ会話を切り出して話して来たのでつい聞き返してしまった。
「――何でもない」
「うん」
やっぱり話はあったみたいだ。でも俺は無理に聞き出したくない一心で何も聞かなかった。こうして平穏に終わる事が今大事なのだからこれでいい。
「ねぇ、露天風呂行ってみない?」
「行く」
スィーと深緑は移動して床まで辿り着く。相変わらずその気になったら行動だけは早いのだから……俺はその場で立ち上がって人の足を避けて床まで行って外に移動する。外は高濃度がウリらしいですよ、深緑ちゃん。
※ ※ ※ ※
暖簾をくぐって外に出る。銭湯から出た後の空気は清々しい。
深緑は中で牛乳をまだ飲んでいる。いつもストローを瓶に突っ込んでゆっくりと飲んでいるから遅い。それと湯冷めしたらしい……長く入浴することは苦手らしい。
ベンチに座って空を眺める。オリオン座と双子座が綺麗に見えるほど今日は空が澄んでいる。
「よォ……お前は深緑の隣にいたヤツだったよな?」
ギシッとベンチが軋む程に大雑把に座り話しかけてくるのは……志苔だ。ここ数週間は見なかったけど、よくここだって分かったな。
「どうも……志苔」
「志苔"さん"、だろ? 深緑はどこにいった?」
やっぱりコイツの目的は深緑だったか。
「わたしは今一人だから」
まだ深緑は中で牛乳を飲んでいる内に話を済ませて志苔を何処かにやっておきたい。
「そう……お前金持ってない? 貸して欲しいんだけど」
「…………」
いきなり隣にやってきて何を言うかと思ったら金か……生憎必要分しか財布の中に入ってないし、志苔に渡す物など無い。無言のままだ。
「まぁいいや、あたしは毎回深緑から金貰ってるし無理にお前からは借りないわ」
「なんて……いった?」
流石に無視出来ない事をコイツは言った――!
「ああ? お前から借りないって」
違う! そんな二個前の会話をふざけたように繰り返しやがって。
志苔の胸ぐらを掴んで無理に目を合わせる。その行動をしても顔色一つ変えないお前が憎い。
「てめぇ……深緑からなんで金貰ってるんだよ!」
「胸ぐら掴むんじゃないよ。それが友達だろ?」
友達……?
「それは友達じゃない! ただの金づるとして使ってるだけだ!」
深緑をそういう風に考えて友達として扱っていると知ってより胸ぐらを掴んでいる手に力が入る。コイツの話を聞いているとより憎くなって、胸がもやもやしてくる。腹が立ってくる。
「じゃあお前は友達が裏切りも絶交も無いと思ってるのか?」
「そ、それは……」
力が緩んだスキに手で払い退けられる。
再び胸ぐらを掴もうと思ったが志苔はベンチから離れて掴める範囲から離れてしまった。
「力で掴んでおかなきゃ何処かに逃げて行っちゃうだろ? あたしはそうしてるだけだけど」
笑って志苔は言う。
普通に言った。
「わ、悪そびれも無く言うお前が怖いよ"俺"は」
「ちっ……気が悪くなった。もう帰る。じゃあな、深緑の偽善お友達さんよ」
捨て台詞を言われて志苔は帰っていく。
俺は志苔に対して言い返せなかった。
友達っていうのは……友達っていうのはさ、力で掴んでおくべき存在じゃなくて……信頼するべきじゃないのか? 共に信頼して助け合いして、悩んでも苦しんでても相談出来る相手の一人なのが友達じゃないのか? 志苔が言う事は間違っている。絶対に間違っているんだ。深緑の扱いを見る限り志苔がただ税金を搾り取る殿様をやっているだけじゃないか。
「YK」
「……深緑」
タイミングよく深緑が隣に座ってきた。
「怖くない」
「うん……ありがとう」
救われた。志苔と俺の会話を聞いていた見ていたと聞くより言われるより、ただこの深緑の言葉を聞いて救われた。これが友達の支え合い助け合いだと思う。
「わたし、頑張るから」
「んっ」
そろそろ、決着を付けなければならないのかもしれない。
俺という『男』としての深緑を守るという最終目的に。




