36話 『女』は深緑を観照する その3
同日曜日――
深緑がトイレから中々出て来ず何をしているのかと思い、じっと机の横で待機していたら、いきなり下着姿の深緑を見て驚く。流石に恥ずかしくなったらしく自ら脱いでいた。でも適当に畳んで置いておくのではなくハンガーでしわを整えて壁に掛けたので、それなりにお気に入りにはなったらしい。今後に深緑のメイド服姿を見れるかというと怪しいが……定期的には見てみたい。
お昼が食べ終わり、ゆっくりと家に過ごしていたら、深緑が今日買ったお菓子がそのまま窓の下に置いてあったがようやく何処かにしまうらしく手でぶら下げる。その行き先を見ているとクローゼットを開けてその中のチェストを開ける。中は様々な種類のお菓子が乱雑に混じったチェストと化していた。そこに今日買ったお菓子の袋をひっくり返して山が出来た所を手で均して閉める。
「深緑、ちゃんとお菓子食べてるの?」
「――食べていいの」
珍しく会話が繋がるように話してきた。深緑の話し方に音程の上下が無いから感嘆を意味する「?」や「!」が無いが、恐らく「食べていいの?」とクエスチョンしているのだろう。という事は今まで我慢をしていたのだろう。昨日のゴミだしの際の袋の内容物は殆ど菓子類の袋で一杯だったし、深緑にとって一日二日食べられないのは苦痛であったろう。
俺は深緑の傍により頭を撫でながら「食べてもいいよ」と優しく言葉を漏らす。
「後悔」
「早く言わなかったから?」
深緑は頷く。やっぱり我慢していたようだ……。深緑は無類の甘いもの好きなようだし、俺も早めに気付くべきだったかもしれない。と言っても深緑の口数は少ない一方で気付く方が難しい……見分け方を恐らく知っているであろう翠ちゃんに一度聞く他無いだろう。
一度俺が「食べていいよ」と言ってから机の上には一日分とは思えない程の量のお菓子が並べられている。定番のお菓子から輸入された海外のお菓子に、ドマイナー過ぎてよく分からないお菓子まで色々。
「食べる」
深緑は一つ棒状のお菓子を差し出してくる。
「いやいいよ、全部食べちゃいなよ」
遠慮したらその差し出したお菓子を五口で食べ終わる。……食べ進めるスピードは遅いものの、この量は時間掛かるぞ、深緑。しかし深緑がそんなにお菓子類に執着を持つのは何かあるのだろうか? 別にお菓子以外にも甘い物はたくさんあるし、腕が良ければ自作も出来るのだけど深緑はお菓子を食べ進める。――暇あれば夏風町のケーキ屋さんにでも寄り、一つケーキを買ってあたえてみるか。
「深緑は甘いものが好き」
「んっ」
深緑は頷く。それは一度聞いたから理解して当然だけど……。
「じゃあ、苦手な食べ物って?」
「――酸っぱいの」
酸味があるものか……どのぐらいのレベルの酸っぱい物が苦手かは分からないけど、トマト等の自然な酸味は大丈夫なのだろう。梅やライム等の舌を刺激する食べ物はやっぱり駄目かと思われる。――しかし深緑は甘いものを摂取するな。
「深緑、そろそろ三時だし何処かに――」
「夕方、銭湯」
「銭湯? お風呂あるのに?」
「水代、ガス代、節約」
銭湯とは何年振りだろうか。一度だけお風呂の追い焚き機能のボタンの反応が悪くて暖かいお風呂に入れなかった事があって利用した事があるけど、それ以来お風呂も壊れることも無いから利用した事がない。一人暮らしともなると水代ガス代も節約の基本の一つともなるか。
しかし……一つ、一つだけ。圧倒的な壁が一つある。
やばい、『女』風呂に入らなきゃならんのか。
銭湯の『女』風呂の領域とは『男』にとっては年齢と性別によって制限された領域で、『男』は小学生までしか『女』との入浴を許可されていない。イレギュラーな所では家のお風呂くらいか……しかしそれは一対一の対談との場所としても利用されるだけであって、家のお風呂は複数人での対談や入浴の場所としては利用されない。――最も俺は三人で家のお風呂を利用したことがあるけども、それは承諾を貰った上での話。
「……あれ、口元見られたくないんだよね?」
「んっ」
「入浴中にマフラーって」
「…………」
流石に考えてなかったらしく深緑はお菓子の封を開けて硬直している。俺が『女』風呂に入らない一番の手はそのマフラーを指摘して銭湯に行かない事。その指摘で深緑はどう動くか……。
クローゼットから銭湯に行く用具を持ち出して一つ長い物を取り出す。白くて長いもの、銭湯に行くのに必ず必要なもの、ハンドタオルをマフラーの上に合わせてくるくると回す。マフラー程長くは無いものの顔を隠すのには適するようだ。マフラーの代わりにタオルを使って風呂にはいると言うのか。首に巻くから周りからみたら違和感はあるものの、これだったら顔を見られずに入浴は可能か。深緑、頭の回る子だ。
「わ、わたしのスマホは?」
「…………」
次はキッチンへと向かって取り出したのはフリーザーバッグ。これで銭湯に行く準備は整ったという訳か……こういう場面というのはリバーシに似ている気がする。常に一手一手先を読みリバーシの駒を置いていく訳なのだが、相手や自分はそれを繰り返さない為に何十手先をも考えて意味不明な一手を置いたり、逆に序盤相手が盤面上有利になっているように置き、最終的に逆転出来るように置いたり、と。
そうリバーシの事を考えていたら深緑との初会話を思い出す。
何故俺のスマホを持ち帰ろうとしていたのだろうか?
※ ※ ※ ※
夕方――
用具一式を持って深緑と共に銭湯に持ち出す。結局自分に打つ手は無し。絶対にバレない有り得ないニカエルの魔法によって『女』の子になり合法で銭湯に潜り込む。正直家から一歩も出たくない気持ちであったが、深緑が俺のスマホを持っている限り、〈契約の結界〉がある限り共に行動しなければならない。
「深緑のマフラーって誰かから貰ったの?」
「翠から」
「編んで貰ったの?」
「…………」
深緑は頷いた後、マフラーの先を取り何かの感触を手に取って表向きにして俺に見せる。そこにはアルファベットで「MIROKU」と刺しゅうが入っていた。ハンドメイドでしか出来ない代物だな。
「深緑も編み物出来るの?」
「一応」
「いいなぁ、わたしはそういうのしたこと無いから」
「…………」
自分から会話を断つような言葉を選んでしまってそこから会話が出来ない。
やっぱり深緑の取り扱い方に慣れていない。人の性格があれども会話にはボケとツッコミが必要で俺はどちらかというとツッコミの方に入るが、深緑はそのどちらにも所属しない無の類に入ってしまうからボケもツッコミもしてくれない。そこで会話を選んでなるべく続く結果を選択しなければならない。簡単なようでこれが難しい。
……しかし長く歩いているな。時計は持ってないから正確な時刻は分からないけど二十分程はゆさゆさと深緑の髪の毛が上下に揺れているのを見ている。何回か深緑にせがまれ髪の毛に触れた事があるが、この黒緑の髪の毛は触っていて心地が良い。こんな綺麗な髪色をしているのに普段からボサボサで所々髪の毛が跳ねているのが惜しい。これも一つの個性と言えば個性なのだが……もうちょっと自分の個性を整えるような事をしてほしいと思う俺である。
「ついた」
「着いちゃった、か……」
俺が想像していた煙突が付いていて昭和らしい古ぼけて、あの黄色い広告宣伝の桶がある銭湯だと思っていたのだが、現代らしい綺麗な銭湯に着いた。これだとスーパー銭湯の名が相応しいだろう。酷い話、年々とスーパーの付かない銭湯は激減しているが、一つの時代が始まれば一つの時代が終わる物だ。世代の交代というのはいつもツラい物だ。俺だって十六年生きてこの十六年で伝わって来た物が次の一年で終わる事だってある。まぁ――そこまで重い話をしても仕方ない、時代の終わりなんて"飽き"みたいな物だし、人が便利を求めるのは必然的。
販売機で五百円を投入して券を買い、腕に付けるタイプのバンド兼ロッカーの鍵を貰う。ここは百円リターン式のロッカーでは無く、既に指定されたロッカーを使うのか。俺が最初で最後に行った場所はその百円リターン式のロッカーで色々とカオスな場所で二度とは行きたくはないかな。
脱衣場に入り、ロッカーの番号を確認する。脱衣場はかなりの数のロッカーがあり、これは確かにカウンターで管理しなければならないレベルの大きさだ。ロッカーの番号表で確認してみると深緑と俺とは別の列のようで離れ離れだ。
――正直、サクシャーがロッカーナンバーで小ネタを挟もうとしていたらしいけど、番号に関する銭湯の小ネタはちょっと厳しいから入れられなかったらしい。
……なんて急にニカエルの意思が入ってきた気がするが、気にするような事ではない。普段だったら「ピローン♪」とスマホの着信音が入ってくるけど、今回は鳴らないし鳴れない。
「深緑とはロッカーのナンバー連番じゃないんだ……深緑一人で着替えてね」
「…………」
ん、んー……不満なのかもしくは……という表情が見えない。
「め、面倒……? 着替えるの」
「んっ」
「ま、マフラー取ってもいいの?」
「駄目」
「じゃあ自分で着替えないと」
「…………」
また言葉が無くなった。深緑ちゃん俺はどうすればいいんだよ!
「じゃあマフラーをタオルに代えて、そこで待機してて」
「んっ」
これだったら問題は無いのだけども、深緑も子供じゃあるまいし自分で着替えて欲しい。もしこれが『男』と『男』だったらこの着替えさせて発言は大問題だぞ。『女』の子同士だから成せる話だから良いものの……はぁ、深緑が『女』の子で良かった。
ロッカーの中に自分の服を突っ込んで鍵を閉める。とりあえず周りの胸やら尻やらを凝視するのを避けて深緑のロッカーまで近づく。そこで見たのは本当にマフラーをタオルに代えただけの深緑だ。この調子だったら全部脱いでしまえばいいのにどうしてそこだけ代えてしまったのやらか。
「はいはーい来ましたよー……上から下から?」
「んっ」
手を挙げた……という事はやっぱり上から脱ぐのが定石のようだ。
「ったく……一人で着替えられるようにならないと駄目だ、深緑」
「――ごめん」
「えっ?」
「――何でもない」
上の服を脱がせて一度深緑の顔を見るが、表情変わらず。初めて深緑が濁らせたような声を出したから少し動転してしまった。自分が強く言ってしまったのせいだろうか……色々と深緑に対しては考え方を変え、機転を利かせて対応してきたが、知らぬ間に不満を漏らしてしまう事だってある。
――嫌い。思ってもいない事も言葉に出てしまいそうな、深緑を傷つけてしまうかもしれない。そう深緑の服を脱がせながら思う。これは深緑の性格、これは深緑の個性、嫌ってはならないんだ。ちゃんと可愛い所だってある。
「…………」
「どうしたの」
流石に下着を脱がす事には手が止まる。
ヤバイ、ヤバイって。今は『女』の子いえども……友達の上着を脱がせる事も本当は駄目だけど深緑がそう言うから仕方ないものの友達の下着を脱がすというのは深緑の友達としても駄目だと思う。人間の真の領域を『男』が見てもいいのだろうか?
「深緑、下着は――」
「脱がせて」
ああ――はぁ――。
もうちょっと間を置かせて考える時間が欲しかったけど、このままでは風呂場に行くことも許されないのでブラジャーのホックを外す。自分にはブラジャーという物を付けて無いけど、結構シッカリしているのだな。これだと前で外れるタイプはどんなのだろうか?
「くっ……デカい」
「…………」
「あー、下だね……」
「…………」
ズボンを脱がすように……パンツを降ろすが、どうやって深緑の股のデンジャー部分を見ないように降ろすのか。という方法を考えている。――ふっ、こんなものはッ!
一気に降ろすだけよ!
ビッ――
「はぁぁ――ぁぁ⁉ あ、亜、阿、ア⁉」
「…………」
深緑の顔を見てみる……怒って、いるのか? いや、絶対怒ってるだろうな……。
深緑は全て脱ぎ終わり、気まずい音が鳴ったパンツをロッカーの中に投げ入れて鍵を閉めて風呂場の方へと向かっていく。自分も深緑の後ろを追ってビクビクしながら歩く。最悪だ。
風呂場に入り、深緑と共に向かったのはカラン場。カラン列で深緑が座り、俺は深緑の隣に座る。深緑と隣り合わせ……今この状況だけで気まずい。既に深緑はアカスリを使ってボディソープの泡立てに入っているけどこの平然な入りが逆に恐怖心をそそらせる。
「洗って」
「あ、はい……」
深緑にアカスリを手渡されて体を洗え、と。本当に自分でやらないんだな、どれもかも。首周りはタオルで塞がれてて洗えないものの、他の体の部位はシッカリと――。洗えないかもしれない。
「深緑、あの……その……」
「何」
「胸と……股だけは自分で……」
「洗って」
「あの……」
「洗って」
「いや……」
「洗って」
あ、がががが……。
妙な反応を見せなければいいんだけど、その大事な部分に触れてもいいのだろうか。というより、直接触れる訳では無いんだ。アカスリを通って――肌に触れるんだ。だから……手で触れる訳じゃない。アカスリを経由して深緑の胸に触るんだ。そう、直に揺れる訳じゃない。アカスリを――
「早く」
「はい」
不可抗力。
今宵のスケベはここにいます。
頭も洗い、湯船の底に足を踏ませ深緑とくつろぐ。露天風呂もあるが外はまだ冬だから深緑は寒いらしく出たくないとの事。俺は回れる所を回りたい派だからこの選択は少し残念だった。また来る機会があれば断りを入れて露天風呂に入るとしよう。
「…………」
湯船に入ってから深緑は一言も喋らない、そもそも自分から話しかけない限り深緑は答えてくれない。この静かに沈む深緑も人が出入りする湯の波でふわりと揺れる深緑は見てて面白い。どこまで深緑は無に近いのだろうか。
「…………」
「わっ……」
深緑が体ごとこっちに向いて来て目が合うので動転しそうだ。というかしちまった。
「パンツ……破った、ぽい。怒ってる?」
「怒ってない」
「……破れてた?」
「破れてる」
そんなに単直に言われると自分も気が沈む。替えはあるものの、友達のパンツを破った事に関しては紛れもない事実。でも深緑は怒ってないらしいし、気にする事はないと思うけど……ちょっとは笑ってほしいな。――いや、笑う場面でもないか。
「上がる」
「うん、上がろっか……」
日曜日で大人数なこの風呂場を後にする。
節約の為にまた来る事もあるだろう。その時は勢い良くパンツを脱がす事は止めよう。……次こそ深緑は怒ると思う。本気で殴る事はないだろうけど……怒る理由があるから深緑は怒っているという事はちゃんと理解せねばならない。というかパンツ破る事なんて普通の人だったら怒る。深緑さん案外寛大な心をお持ちのようで?
※ ※ ※ ※
スーパー銭湯、他風呂場の定番といえば、牛乳……なのだが、自分は牛乳瓶販売の隣に置いてある瓶コーラに目を惹かれてそちらを購入する。深緑は甘いいちご牛乳。自分も胸の問題で牛乳を飲むべきなのだが、やっぱりコーラの方が好きだ。コーラはCとPがイニシャルに付くコーラがあるが、個人的にはCが付くコーラの方を好んで飲む。このコーラでも例の野菜をモチーフとしたお菓子と同様の戦争が起きる。自分はそういうのに加担しない方であるが……深緑にこの話を持ち出したら喧嘩になりそうなので止めている。
「深緑もコーラ飲む?」
「…………」
珍しく顔を横に振る。別に酸っぱいものでも無いし深緑ならコーラを好んで飲むかと思ったが……いちご牛乳の方が勝ったという訳か。……だけど家にもコーラらしき飲み物は無かったし単に嫌いという事も有り得る。
一本飲み終わりケースに瓶を置く。深緑は口でマフラーを隠したままいちご牛乳の瓶を傾けて飲む、ストローが無いから時間が掛かっている。流石に食べ物なら顔を隠しながら食べれるが、液状となるとマフラーに溢れて汚れる可能性があるから遅い。……お持ち帰りようにペットボトルのコーラも買っておくか。
「深緑、そろそろ帰ろう。夕飯の仕込みあるんでしょ」
「んっ」
お帰りになります。カウンターに鍵を返してまた専用の鍵で靴箱から靴を取り出して外に出る。乾ききっていない頭が少し冷えるけど、まだまだ体はポカポカしていて冷えるのに時間が掛かりそうな程。深緑の髪は俺がしっかりとドライヤーで乾かしたのでいつもの髪型に戻っている。お湯でべったりしていた方が綺麗には見えたけど、髪を痛めさせてはいけないので自分が水気を切らせて外にださせたのだ。
ボサボサ深緑、これはこれで。
一方で深緑は暗い道を左右見渡しながら路地を共に歩いている。夜だからといって警戒心を出すほど深緑にはストーカーがいるのだろうか。まぁ『女』の子とはこういう警戒も必要なのだろうな、いつ『男』に襲われるかも分からないし、俺も例外ではない……『女』の状態では。
――よぉ、深緑
深緑の体がピクリと動く。俺が発言した訳じゃない。
その声の主の方向へと顔を向かせてみる。ストーカー……ではないな、深緑も俺の傍から離れようとも走ろうともしない。秋空市が深緑のホームグラウンドだから友達の一人や二人居ても問題はないだろう。
「こんばんは――」
「おい……」
その友達は深緑に足早に近づき深緑のマフラーごと咽喉を掴む、いや鷲掴みだ……。
「うっ……ぐっ……」
「なッ……⁉」
俺は深緑の友達の咄嗟で残酷な行動に声も体も動かない。
コイツ……この『女』、深緑になんてことしやがるんだ……!
「お前、イニシャルでアタシの事を呼ぼうとしたなァ⁉ 志苔さん、だろうが!」
「――ごめん、なさい。志苔さん……」
無表情でも深緑が苦しんでいるのが分かる。相当キツく咽喉を掴まれていて声が掠れて出ている。
「ちょっと! いくらなんでも酷すぎじゃ!」
「お前は誰だよ! 他人が口挟んでんじゃねぇ!」
「わたしは深緑の友達! 他人じゃない!」
「ほぉー深緑の友達ぃ。アタシ以外に作れたんだな、深緑!」
コイツ余計に深緑の咽喉を掴んでいる手を強く締めている。
なんだ、本当になんなんだよ。本当に友達だったらそんな事しないだろ……。
「志苔、さん。――これ」
「あぁ⁉ お、今日は物分りいいね、流石アタシの友達だな。いつもならアタシから言わなくちゃ出さねぇのにさ」
深緑は志苔とやらに何か手渡し、咽喉を掴んでいた手を離す。
「ま、日曜日ならここに来るのアタシ知ってるからな、これからもずっと宜しくな」
「…………」
「おい、何か言え!」
パァン――
次は深緑のほっぺたを強く叩く。
「深緑! 大丈夫⁉ 叩く事ないじゃない、志苔……とやら!」
「志苔"さん"、だろ。深緑の友達だったら覚えておいて。ツーセットで」
悪そびれる事……なく。
深緑に対して用が済んだのか志苔は帰っていった。散々深緑に酷い事をしただけで謝る事なく傷つけただけ傷つけて行ってしまった。深緑との関係がとても友達だけとは思えない。あの態度に行動――深緑もどうして付き合っているのかもわからない。しかし深緑は何事も無かったかのように志苔に掴まれて落とした銭湯用具一式を持ち、すくっと立ち上がる。
「深緑……?」
「大丈夫」
「大丈夫な訳ないでしょ……ほっぺた赤く残ってるよ……?」
深緑の赤く跡の付いたほっぺたを手でさする。誰から見ても痛々しく残ったその跡を。
「志苔に何を渡したの……?」
「――教えられない」
「…………」
「――ごめん」
無理に答える必要は無し、次にあったら俺も横入りして何とか志苔とやらが暴力を振る事を止めなければ……。何を考えているか分からない志苔から……。こんなぐちゃぐちゃした気持ち初めてだ。志苔の事は全く知らないとはいえ、何か脅して友達になってるのは間違いない。
歩く時間を使って深緑の様子を見てみるが、やはり感情の動き無し。あの時でも無表情だったし動じる事もなかったが……絶対に普通には思ってないはずだ。俺に是非打ち明けてほしい……でも俺は無理には答えさせない。まだ深緑とも心の打ち明けもしてないし、いきなり志苔の事を聞いても打ち明けてはくれないだろう。まだ時間を掛けなくては。
「……家着いたよ……みろく……」
「…………」
深緑の顔を見て、その深緑の初めてを見る。
やっぱり。
やっぱり深緑の心は動いていた。
隠しきれてない――。
目から頬に伝って涙が出ていた。
しかも、悲しい顔も怒る顔もしてない。
ただ無表情で涙を流している。
「な、で、て」
「うん――」
声を震わせて一つ一つ言葉を出し、撫でてとせがむ。
そんな深緑に俺は優しく……もっと優しくなりたい。
守ってあげなくては。まだ知らない事情は多いけど、守ってあげなくてはならない。
「今日、下手だけどわたしが料理作るから」
「だ、め」
「深緑はベッドでゆっくりしててよ……」
「…………」
深緑は頷く。
「わたしは深緑の事なんにも知らないけど、いつか話してね」
「…………」
何も答えなかった。
でもいつか深緑と話せる事を信じて今は深緑を撫でる。
一月の寒い冬空の下での出来事だ。




