19話 『女』の初めてを海で
「海だあああああっ!!」
「普段から身近にあるっつーのに……」
砂浜で大はしゃぎする朱音、まだ短パン履いて上はフード付きの薄着をしたままサンダルで砂に転がっている。何やってるんだ、お前は。
今日は晴天で雲一つ無い空、六月の中旬で全国的に梅雨の真っ最中とは思えなかった。夏風町は雨の日っていうのが少ないのも理由かもしれない。時刻は朝の十時だ。
「さて、わたしは朱音と一緒に来てしまったけど名胡桃さんもそろそろ来るかな――」
「奏芽さーん……」
相変わらず思った時に来るのが名胡桃さん(サマーバージョン)、麦わら帽子に涼しそうな格好をしてこちらに向かってくる。白髪のコントラストに麦わら帽子が似合っている。まさに夏が到来してきた。
「ごめんなさい、今日時間掛けてしまって」
「ううん大丈夫」
名胡桃さんに事前に頼んでおいたのは俺達の昼食だった。ここ夏風町の海では定番とも言われる『海の家』というのが無い。それもそうだ、何故なら売れないからだ。今の所は人も居ないし遊ぼうとしてるのは俺達だけ、海開きとはいえ誰も来ないのもおかしい話だが。それだけここの町は栄えていないという決定的な打点にもなる……夏風町はいつも静かだ。というか学校も小中高とあるのに女子高生や小学生の一人や二人来ててもおかしくないのだが、どうしてだかやっぱり人が居ないんだ。この海の砂浜も広いのに端から端までプライベートビーチ化してしまっていた。
「それじゃ奏芽さん。シート広げて下さい」
「はいよー、広げま~す!」
家から丸めて持ってきたビニールシートを砂浜に広げ、また家から持ってきたパラソルを刺す。家の倉庫から持ってきた少し年代物ばかりだが、お金を掛けずに設置出来るのなら構わず使う。
「あー……シロちんだー。今日は楽しもうね……」
「はい、って随分疲れてますね」
朱音はただ砂の上で悶えていただけなのにもう疲れている。これから海が始まるのにどうして余分に体力を使ったのやらか。
ビニールシートを設置し終わってそこに朱音は上着を投げ捨てる。
「堂ノ庭さんはパンツタイプのビキニなんですね。スタイルが羨ましいです」
「別にこの海まで時間掛からないからね、下はそのままで上だけ羽織って着ちゃった」
それが元々のパンツだったのか、どうも明るい色はしてるなとは思っていたが。
「シロちんはサロペット?」
「はい、私もこのまま来ました」
なんだかんだ言って着替えを要するのは俺だけだった。家では朝から倉庫の隅という隅までパラソルとビニールシートを探し出しニカエルを起こして前回に買った水着に着替える。そこから上に服を着て朱音と合流をし、商店街の途中でパン屋さんに入って朝食を買って食べて現在に至る。
ニカエルもスマホから飛び出してビニールシートに朱音と同じくキャミワンピを投げ捨てる、誰よりも簡単で楽な服装をしているニカエル、お前が一番面倒じゃなくていいな。
「奏芽も早く脱いでよ~、でないと海泳げないよ~?」
「はいはい……」
俺はシャツとジーパンを着てカモフラージュしていた。それをなるべく朱音達と格差を付けるために丁寧に脱いで畳む。普通に投げ捨てるよりこうして畳んだ方がスペースを取らないし何処か風に飛んでいく事も無いと思うんだがな。
因みに他の装備はどうしたかと言うとこちらには便利なのがある。――そう、ニカエルのストック機能だ。この機能のお陰で重たいものはスマホの中に収納が出来て、俺は最低限の物で済んでいた。海の定番の遊びアイテムもスマホの中に収納しているから後々出していく事にしよう。
「きゅうじゅうご、きゅうじゅうろく、きゅうじゅうなな――」
「そろそろだねー奏芽」
朱音の立っている位置から大股を開いて百歩進む。何をしているのかというと大体の距離を大股で開いて100mを目指そうとしている。この位置に砂山を作って旗を刺し、朱音の下に戻る。――そう、テレビとかで良くやるあれだ、第一回「ビーチフラッグ対決」朱音VS奏芽の因縁の戦いの火蓋が切って落とされる。
朱音とうつ伏せになって肘を落とす、スタートの合図を切るのは名胡桃さんだ。ニカエルや朱音だとスタートを切るのを遅くする……所謂フェイントというのをする可能性が高かったので一番に信頼における名胡桃さんにしたということだ。
「朱音、お前とは砂浜でやるのは初だけどヌルい事は無しな」
「勿論、カナちゃんも手抜かないでよ」
「お二人とも準備は良いですか?」
俺は頷く、勿論朱音も頷く。それを確認した名胡桃さんは手を叩いてスタートを切るようだ。
「それでは位置に着いて――よーい、スタート!」
手から響く破裂音。ビーチフラッグから背中を向いた状態から一気に立つ状態に持ち上げる。朱音よりはリードして良いスタートが切れた。一方で朱音は普段から歩かないような場所だからか、砂浜に足を持って行かれている――もしくはその二つの重荷で沈みやすいのか。
余裕で朱音から距離を離すが途中で俺の足が止まる。何度進もうとしても朱音の方向に押し戻される。
「んぐっ……⁉ ぐぐぐぐぐ……まさか――」
そう、さっきは気になっていなかったがここからビーチフラッグまでは100m、そう100mも離れられない存在が一人いる。〈契約の結界〉で15m以上離れられないニカエルのせいで俺の足が止まっていた。
「おーい、奏芽ぇ~頑張ってー!」
「ニカエルううう! こっちにこーい! 早くっー!」
だがニカエルはパラソルから離れようとせずニッコリと笑顔。その間に朱音は砂浜に慣れて走り出す。結果は当然、15m以上離れられない俺の負けだった。
「ここまで来て結界の事を忘れてた……」
「まぁまぁ、少し休憩取ったら私もビーチフラッグ参加するから」
第二回「ビーチフラッグ対決」が開催されることになりました。ニカエルと朱音と俺の三大対決になるとは誰が予想出来たのだろうか。軽いストレッチをして俺含め三人はうつ伏せる。もしニカエルが動く気配が無かったらフライングをしてノーコンテストにする。
「それじゃ準備は良いですかー? 位置について―よーい」
パンッ――
同じく俺が一番に出れなかった。異常な速さでニカエルが立ち上がる。その次に俺で最後が朱音だ。やっぱり重いんだろう、色んな意味で。
「ふっふーん♪ 皆遅いんだねぇ~」
「…………」
俺は後ろからニカエルを見て違和感。何かがおかしいんだ、フワフワとしている気が――フワフワ……足が地面に着いていないのだ。何故分かるか? 確かにここから見ると走っている様に見えるが、その矛盾点に気付き足を止める。
「ニカエル! ノーコンテストだ!」
「……ふぎゃっ⁉」
〈契約の結界〉15mという限界でニカエルが空中で何かにコケる。空中にコケる時点で既におかしい。
「ちゃんと地面を踏んで走れ! 全く!」
「凄い、カナちゃんよく分かったね」
「地を蹴れば後ろに砂が立つだろ。反則は絶対に許さん」
どうして天使というのはこうもズルい事を直ぐにやろうとするのやらか。しかも巧妙で何処かの未来型ロボットみたいに1ミリ浮くようなテクニックをするとは。
第三回「ビーチフラッグ対決」……何度目になるのやら、しかも同じ日。どれも天使絡みだが。
「……皆潰れてるな……」
「何確認してるの? カナちゃん」
俺は悲しみを覚えていた。この二人の顔を見合わせる度に胸が目に入ってくる。しかも砂に負けじと潰れて対向しているのだから悲しみ。ギニュッ――というよりやっぱりムニュッ――といった感じなのだな。
しかし俺。もう擬音さえない、どう伝えれば良いのか全く分からない。
「……奏芽さん? 準備は?」
「はっ⁉ うん! 準備オッケー」
すっかり勝負の事を忘れてニカエルと朱音の胸を確認して真っ白になっていた。
太陽の日差しが強く、ジリジリと汗が出て砂に吸われていく中、名胡桃さんのスタートの合図を待つ。流石の天使でも何滴も汗を掻いていた。
「位置について―よーい」
パンッ――
あの異常なニカエルの振り向きもなく、俺がトップに出た。少し前にニカエルが出た時に足を確認するが、ちゃんと砂を蹴っていた。今回は不正も無く着々とフラッグに近づく。
「やっぱりお前との対決になったか――朱音!」
「唯一のライバルだもん。……奏芽!」
俺をあだ名で呼ばないという事は朱音も本気のようだ。俺はその気持ちに答えるように更に砂を強く蹴る。
「ふえっ――ふえっ――はぁ、疲れた……!」
「ニカエルはもうよたよた気味だな。チャンス!」
ニカエルは少しずつ俺達に離れていく。
遂にフラッグに近づいて後は飛び込んで行くだけで、朱音も強く砂を蹴ってもう飛び込む寸前だ。俺も朱音に合わせてフラッグに飛び込む。
「「うおおおおおおおおおおおおお」」
二人の飛び込みはほぼ同時、手が伸びているのも同時。
「掴んだ……ッ!」
俺は一歩出なかった、というより出れなかったのだ。中指が確かにフラッグに届いて触れたはずなのにそこから後ろに引っ張られる。そう、俺はやっぱり朱音との勝負に集中していて忘れていたのだ……後ろでヘタレついたニカエルとフラッグの距離はピッタリ15mで指の中で長いと言われる中指の先だけがフラッグに付いた訳だ。それで朱音がこの「ビーチフラッグ対決」の優勝者となった。――俺はこの事に関して抗議をしようと思ったが、ニカエルも本気で走ってヘタレていたし、案外真面目だったから文句はナシだ。
「くっそ~負けたか」
「カナちゃんあともう少しだったのにね」
フラッグをヒラヒラさせて勝ち誇る朱音。俺は悔しいぜ、朱音。この〈契約の結界〉が無かったら打ちのめす事が出来たんだがな。でも契約は続いてる限りこれは打ちのめす事が出来ないからしょうがないな。――果たして俺は何の契約をしているのかは分かっていないがな。
「じゃあ、カナちゃん罰ゲームね」
「……は?」
「いいいいいいいぃっ……」
「シロちーん、そのまま真っ直ぐー」
俺が八百屋さんから貰ってきた大きいスイカ、その横に人の頭――そう俺だ。俺はニカエルの魔法によって顔から下は埋められ、その横にスイカが置かれて朱音とニカエルは楽しんでいる訳だ。俺が途中で長い木片〈ガチブレードMarkⅡ〉と名付けた木片を持ってきたのだが、それは結構危ない物で、チェーンソーで切った物なのかギザギザしている。これが頭に当たったら怪我だけじゃ済まない。まさに〈ガチブレード〉なのだ。
「もうちょっと……でしょうか……」
「後一歩前に出てー!」
名胡桃さんは布で目隠しされていてこっちの位置が分からない。プルンとしたバスト「88」がこっちに向かってくる。サロペットと言われるビキニでも形がちゃんと分かる位の大きさだ。
「ちょっと右回りー」
「はい」
「行き過ぎー少し左」
「はい」
「そーそー、そこで半歩前ー!」
朱音とニカエルの詳細な命令で俺の頭にどんどん近づいてくる。こういう時だけは意気投合しやがって、ニカエル達絶対に許さんぞ。
――遂に、俺の目の前に足、上を見ると下乳。風で白い髪がなびく。
「ここ……ですね? 間違いないですね?」
「うん、茉白ちゃん。思いっきり振りかぶって殴っちゃって」
殴っちゃってとか完全に暴行に出ようとしている。暴行教唆罪で立件出来るぞ。声は出せないようにさるぐつわをされているからどう名胡桃さんに伝えようかと考えている。
「んふっー……ンフッーー!」
鼻息で名胡桃さんの足に伝えようとしたが名胡桃さんの手は止まらなかった。というか名胡桃さんの目隠しをしてから俺を砂に埋めるとか完全に名胡桃さんが知らない状態でやっているのだから、後の名胡桃さんの後悔はデカいと思うんだけどそこらへんはちゃんとニカエル達は分かってますか?
「「「せーのっ!」」」
俺は目をつぶって覚悟をする。頭に〈ガチブレードMarkⅡ〉が刺さっても名胡桃さんならきっと救急車を呼んでくれるだろう。何かと真面目な人が一人でもいると安心できる。
――後頭部に砂が掛かる、〈ガチブレード〉が頭に刺さったのではなくその後ろの砂に刺さった。名胡桃さんの身長が高いお陰でなんとか後ろに刺さってくれたのだ。俺はさるぐつわをされながらも、ため息を付いた。――でも名胡桃さんのような弱い力でも〈ガチブレード〉は強く刺さっていたのだ、これが頭に刺さっていたとしたら――恐ろしい事だ。
「あれ……失敗しましたね……」
名胡桃さんが目隠しを取って確認をすると俺と目があった。
「んんんんー! んんー!」
「あれっ……奏芽……さん?」
名胡桃さんは青ざめていた。それはそうだ、叩こうとした相手が俺なのだからもし刺さっていたらトラウマ物になるだろう。血が〈ガチブレード〉に刺さって今日が終わりになるのだから。俺は名胡桃さんにさるぐつわを取ってもらって深く息を吸い込む。
「チッ……」
「チッ。じゃねーよ! ニカエルの馬鹿野郎ッー!」
意気消沈する俺の姿があった。
「アグッ――アグッアグッアグッウウウウ……!」
何で二度も俺は砂に埋まってるんだ! しかも違う場所だし、次はスイカから斜め前気味。今回も場所を移動させたのはニカエルだ。ようやく砂から出れたかと思ったらズドンと埋まってまたニカエルにさるぐつわをされて埋まってしまっていたのだ。次は朱音が目隠しをしてスイカを割るか俺の頭を割るかを彷徨っていた。
「堂ノ庭さーん! そっちは駄目ですからねー! 二歩前ですー!」
「朱音ちゃん! 茉白ちゃんの方が嘘だから私の事を信じてねー!」
勿論正しいのは名胡桃さんの方だが、信用しているのはニカエルの方だった。貴様らはどうしても俺の頭を割りたいようだな。――もうやめようよ、こんなこと。俺もなんとかもがいで位置を変えようとしているのだが、かなり重く固定をしているようで移動が出来ない。――朱音の胸が、朱音の胸がこっちに向かってくる……!
「もうちょっとー? ねーねーニカエルちゃんー?」
「そうそう、だいたいそこらへんにスイカあるから。電子マネー的な」
「堂ノ庭さん! そこから左に三歩動いてくださいね―! 別の赤いの出ちゃいますよー!」
変なのと比べるんじゃないよ! もう朱音は振りかぶっていてここの位置で確定したようだ。もう俺の頭に〈ガチブレード〉が刺さるのも時間の問題だ。
「そーれっ!」
「グッ……ググッ……」
目を瞑って覚悟をする。
…………。
少し様子がおかしくて目を細く開く。〈ガチブレード〉が俺の目の前で止まっていた、間一髪で朱音の手が止まっていたのだ。
「……ふぁがね……?」
「知ってるんだよ? そこにカナちゃんがいること」
名胡桃さんが言った左に三歩動いてそこで〈ガチブレード〉を振る。見事にスイカが割れて綺麗な赤色した身が見えた。……俺は助かったと同時にニカエルの番が来なくて安心した。これで恐怖の連鎖が朱音で止まる。
「朱音ちゃん惜しかったーもう少しで奏芽の頭割れたのに」
「ニカエルちゃん駄目だよーカナちゃんは大切にしないと」
「えへへ、てへぺろっ」
俺は手でバッテンを作ってニカエルに突撃した。
※ ※ ※ ※
はしゃぎすぎた。海水の掛け合いや、フリスビーで遊んだりビーチボールをバレーボールに見立てて遊んでそのボールが何処かいったり。ニカエルのアクシデントで何故か海の真ん中にデカい穴が空いて吸い込まれそうになったりとかもしたな。
「今日夕方になるまで遊びきれるとは思わなかった。楽しかった―」
「久しぶりに海で遊びましたけど、やはり近くに海があるのは魅力的ですね」
三人ビニールシートで三角座りをしながらさざなみを聞く。流石に海で遊んだ後は夏といえども徐々に体が冷えてくる。帰り支度をしようと立ち上がる。
「待ってカナちゃん。一大イベントが残ってるよ?」
「うん? もう海でする事って済んでない?」
朱音が自前のバッグから持ち出してきたのは――
「これ! 花火! まだ時期じゃないけど無理して入荷して貰ったんだ!」
「六月なのによく買えましたね。海の最後に花火なんてロマンチックですね」
きっと朱音は何処かのドラマで見て真似をしたくなって買ったのだろう。冷えるので引き留めようとしたがもう袋を破ってロウソクを立てている。……ま、俺もこういう終わり方は嫌いじゃないから一つ朱音から花火を貰うとするか。
「はい、これ上げる」
「ありがと、火を貰って――と」
バチバチバチバチ――
夏の風物詩だな、小さな手持ち花火でも綺麗に弾けている。どんなに歳になっても花火は美しいと感じれるんだろう。――こうして三人でやるのも何となく昔な感じもするな。
「あ、終わっちゃった……二人はまだまだあるからドンドンやって、それから線香花火は最後ね」
「分かりました」
やっぱり最後は線香花火で締めるとか何処かで影響を受けたようだ。
こうして花火を消化していくと物寂しさも感じてくる、消費する道具の宿命とは消えてなくなるものだ。激しく散った後にはカスが残る。そのカスは砂に落ちてサラサラと風に流されていき最終的にはバラバラになって無くなる儚さ。人間の一生もこんな感じなのだと――
「カナちゃんもう花火終わってるよ」
「あ、あら。気付かなかった」
既に黒く灰になっていた。別に哲学に目覚めた訳ではないが偶には頭が良い事アピールでもしたかった、とでも言い訳、屁理屈でも言っておこう。
「はい、最後に線香花火の玉が落ちた人が一つ何でも言う事を聞くでいい?」
「あーあ、そんな"何でも"なんて言葉は普通に使わない方がいいぞ」
「本当に何でもいいんですね?」
――って、君たちはどうして俺の事を見てるのやらか? もしかして俺が最初に落ちるとでも思っているのか。
「それじゃいくよ? いっせーのっせ」
三人で同時に線香花火に火を点けて「何でも命令ゲーム」が始まった。
……だが地味だった。チリチリという音だけが聞こえ息も止めて座って、ただ花火の行方を見る。途中で扇状に弾けたりして玉が大きくなって徐々に玉が苦しそうに震える。
「…………」
その様子を見ても一切動じない、これまた円を囲んで皆の線香花火の玉の行方を見ていると言うんだから遠くで見たらシュールだ。
「あ、マズイ――」
ジュッ――
最初に落ちたのは俺だった。これで朱音と名胡桃さんに対して何でも命令を一つ出せなくなってしまった。……と言っても別に俺の願望は何をする訳でもなくただ「また海に行こうね」と次の約束を命令として出したかっただけだ。これで朱音と名胡桃さんの二人の対決となった。
「堂ノ庭さんは――何を命令するんですか?」
「教えない――シロちんは」
「私も教えません」
これが女のプライドと言った物なのだろうか、引けを取らない名勝負へとなっていった。そして遂に名胡桃さんの線香花火の玉が大きくなり弾けなくなった。それに引き換え朱音の線香花火は余裕そうだった。
「落ち――ましたね、私の負けです」
少し名胡桃さんの線香花火も粘ったが、惜しくも玉が落ちてしまった。その二秒か三秒後に朱音の玉が落ちて最終的に朱音の勝利。今回は朱音が活躍することが多かった。
「じゃあ一つ命令……だね。あのさ――カナちゃん、後で防波堤来て」
「そんなんで良いのか?」
「うん――それからシロちんは自宅へお帰り下さい。もう寒くなるんで」
「分かりました」
名胡桃さんは最低限の荷物を片付け、一礼をして帰っていった。俺も持つべき物は既に纏めていたので後でとは言わずに朱音の後ろを着いていく。
「それで、防波堤で飛び降りろとかじゃないよな?」
「――一旦、『男』の子に戻ってもらえる?」
「あ? ああ、別にいいけど」
朱音に言われてスマホで〈ヤサニク〉に発信をして『男』の姿に戻る。上には既にシャツを来ていたので朱音からはビキニが見えないようになっている。
「はいよ、この位だったらお安い御用さ」
「う、うん――じゃぁほんだぃぃくけど……」
「え?」
嫌に朱音が小声になっていく。こんな小縮まった朱音は初めて見る。いつも大胆に行動するはずなのにこの時だけは変わっていた。
「…………して」
「おいおい、ハッキリ言ってくれよ。朱音の命令だったら今は何でも聞くんだからさ」
「……ス……して」
「はぁ――あのさ」
朱音は深呼吸して――
「あたしと、キスして」
俺にとって衝撃の言葉だった。幼馴染として見ていた俺としては中々の衝撃の言葉。命令『何でも』とは言え範囲外の物が来ると俺もキョドってしまう。
「これは――命令だから。ちゃんとやらないと帰らせない……よ?」
「……本気か」
朱音は頷く。
……決意の目をしている。
「朱音、おでこ……だよな?」
「そんなこと――ないじゃん――ココ」
指差したのは唇。やっぱりキスと言ったら唇を交わすのがキスというのだろう。何ていうか、俺は今までキスなんてしたことが無いから変にドキドキしてしまう。そして朱音は完全に目を瞑ってキスを待っている状態。それで邪魔はしないと言わんばかりにニカエルも出てこない。ニカエルもなんだかんだでこの場を楽しんでいるのだろうか。
キスの体制に入っている朱音に対して俺はどうキスをすれば良いのかが分からなくなっている。両肩を両手で掴んでそのままダイレクトに行くのか、顎を掴んで少し上げてそのまま行くのか。という俺の中でキスという方法はどうすればいいのかと交差している。
「カナちゃん――好きな感じでいいよ」
「…………」
自分の行動がイヤになる前に――
そして悔いが無いように朱音の肩を掴みゆっくり朱音と唇を交わす。
時間が止まった様に感じる。防波堤に打ち付けられた波の音も聞こえず、視界に入っている朱音もそのまま動きが止まっている。西に降りていく太陽も俺達を照らすかどうかの光のまま下がらない。既に何秒経っているのかも分からなくなってくる。――朱音もまた、顔を赤くしたまま止まっている。一生味わう事が無いだろうキスをじっくりと味わう。
そして完全に辺りが暗くなった時に俺は唇を朱音から離す。
「……こ、これで良かったのか?」
「…………うん、ありがと……」
朱音は涙腺崩壊寸前だった。俺はそんな朱音を放っておけず、ギュッと抱きしめ、頭を優しくポンポンと叩いてあげる。
「大丈夫。大丈夫だから」
「うえええぇぇ――」
俺のファーストキス、朱音のファーストキス。それぞれ変な気持ちが混じっていたのだろう。こうして今年の色んな初めてが終わった。これからの朱音と俺がどうなるのかは、また俺の気持ち次第になるのだろう。多分、多分だが朱音は他の人に奪い取られたくなかったのだろう、唯一の初めてを俺に捧げたと解釈する、これ以上俺は理由を聞けなかった。
「もう、あたしは……寂しかったんだから……」
「悪かった、悪かったって。これからもずっと一緒」
「それも命令! ずっと一緒……!」
「……分かった」
一つだけのはずだった命令がまた一つ増えた。俺はそれに黙って従うだけだった。夏風町というのは、色んな感情が詰まった町なのだなとこれまた今日実感した。




