第七話 誤算
『モースの紐』
この紐を蝶々結びにすると、紐の所有者、及び所有者が許可した人間しか解くことが出来なくなる。『マハーカーラの白袋』とセットで使われることが多い。
紐の所有権を持っていなくても、所有者から許可を与えられていれば、結び、解きは可能だが、所有者以外のプレイヤーが自分のインベントリに紐を入れることは出来ない。
このアイテムは所有者から離れてもその場に留まり続ける。
この紐で括った白袋であれば、中身を盗まれる危険性はない。『亜麻束』内の四人に何かをされる恐れはないだろう。
残った問題は、ミナをどう連れ戻すかだけだ。
俺は別に正義感が強いわけではない。ただ、他の四人――いや、三人か――に窮地に陥っている少女を助ける姿を見せることで、印象を良くしたいだけだ。この後の道中のために。
「ひっ」
今、俺の視界にはミナとズラトロクが映っている。俺とズラトロクは、ほぼ同時に動いたが、スタートした時点でズラトロクの方がミナに近かった。これだけでも不利だが、それに加えて最高速度に至るまでの差がある。俺たちプレイヤーが走り始めてから最高速度になる時間よりも、ズラトロクが走り始めてから最高速度になる時間の方が短い。危ない思いはしたが俺とマリーが逃げ切れたように、最高速度だけで見れば、実はズラトロクはそれほど速くない。全速力のプレイヤーよりも遅いレベルだ。
だが、ごく短い距離で競う場合、ズラトロクの方が圧倒的に優位になる。
「ひぃぃっ!」
その巨体で大小の木々の枝を薙ぎ、へし折りながら、ミナへと突き進むズラトロク。
俺には『挑発』スキルがあるが、対象までの距離があり過ぎると効果がない。ズラトロクの疾走を邪魔するアイテムもあるが、これもヤツとの距離が遠すぎる上に、使う暇がない。
ミナにはズラトロクの最初の一撃を自分でどうにかしてもらうしかない。
自分の目の前まで迫るズラトロクの姿に、ミナは慌てふためいた様子で左手から何か小さな丸い物を幾つか落とした。
「あうっ!」
突進を何とか避けようとしたのだろう、自分の白袋に躓いたミナは、そのままソレに覆い被さるようにして倒れた。
「――――あ」
駆けるズラトロクが勢いを殺さないまま、ミナに体当たりを仕掛けようとしているのが見て取れた。蹄が土を蹴る度に地震が起きているのかと思うほどの揺れが起き、それに加えて巨大なハンマーを地面に打ち付けているかのような猛烈な音が、闇夜の森に響き渡る。
ミナが杖を強く握り締めたのが分かった。
「ふ、ふぁ」
そしてズラトロクの左前足がミナの腹部に接触する瞬間、彼女は叫んだ。
「『ファルサ・スペキエース』!」
その言葉と共に、ミナの体が一瞬ブレた。輪郭はあるが、密度を薄く――まるで体全体が半透明になったかのように姿を変える。
それとほぼ同時にズラトロクの巨大な体躯がミナに接触した――が、彼女は吹き飛ばされることはなかった。
まるで何もない空間を走り抜けたようにミナの体をすり抜けたズラトロクは、その猛烈な勢いを殺しきれずに、彼女の後方にある幹が直径三メートルはありそうな大木に頭から激突した。一際大きな激突音と共に、空高くから数え切れないほどの葉が空中でゆらゆらと揺れながら地面に向かって落ちてくる。
(スキルか……?)
俺はこのゲームの全てに精通しているわけではない。元々ソロで活動することが多い所為もあり、触れない職や、それに類するモノについては、知らないことの方が多いくらいだ。
目の前でミナが使ったのは、おそらくそういったスキルだろう。だが、今はそんなことはどうでもいい。
ズラトロクから少し遅れる形で、俺はミナの元まで辿り着いた。
「大丈夫!? 立てるかい!?」
助けに来た年上の優しいお兄さんという仮面を被り、ミナに右手を差し出す。
「……あ」
今俺の存在に気が付いたという風に、ミナは顔を上げて俺を見た。とんがり帽子の下、黒の長い前髪から覗く双眸に、驚きの感情が混じっている。
(……ん?)
良く見れば、ミナの周りには複数の赤い木の実が落ちていた。直径1cmに満たないほどのソレは、ほぼ球状の形であり、表面に白い斑点のような物が細かく付着している。
「すっ、すいません。私、あの」
「今はとにかく、早く戻るんだ!」
何かを言いかけたミナを制し、彼女の右手を掴む。俺とは違い、華奢で小さな手だ。色はとても白く、肌がきめ細かい。赤ん坊のようなプニプニとした感触を僅かに残しながらも、大人の体へと変化していっている過渡期のようなその手は、俺のような人間が触れることそれ自体が世の禁忌に触れるような、畏れ多いような、そんな気分になってくる。勿論俺にその手の趣味はないが。
ミナを半ば強引に立ち上がらせ、辺りを見回す。他のモンスターの姿は見えないが、ズラトロクの方は今まさにこちらに振り返ろうとしていた。
「あ、あの、その」
視線を戻すと、ミナは若干俯きながら小声で何かを呟いていた。細かい表情までは読めないが、おそらく握られている手が気になるのだろう。
俺は振り払うような印象を避けるため、自然な――何でもないような雰囲気を出しながら手を離した。
「行こう!」
「は、はい!」
大きな返事と共に、ミナは足を踏み出そうとしたが、すぐに何かに気付いたように下に視線を落とし、地面に置いたままだった自分の白袋を左手に持ち、俺に追随するように走り出した。もう片方の手で掴んでいる杖が邪魔そうだが、それをインベントリに戻している時間はないだろう。
一気に走り抜けたいが、地面まで盛り上がった太い根がその邪魔をする。ズラトロクが引っ掛かることを期待したいが、おそらく蹴飛ばし、引き千切るようにして猛進してくるだろう。
そんなことを考えていると、地面が揺れ始めた。ズラトロクがスタートを切ったらしい。
安全地帯、退避場所にいる四人の内、三人はこちらを見ながら口々に何かを叫んでいる。残った一人の少女――ミコだけが体育座りをしたまま、何も言わずに俺とミナの方をじっと見つめている。
「はっ、はっ、はっ」
ミナが荒い息を吐き、杖と白袋を揺らしながら俺のすぐ後を着いてくる。やはり走りにくそうだ。白袋ぐらいは代わりに持ってあげても良かったかもしれないが、今はミナの白袋の口は紐で縛られていない状態だ。紐を使う前にズラトロクに襲われたのだから仕方ないのかもしれないが、この状態ではミナ以外の人間が中身を盗むことが可能になる。そんな時に「袋を持ってあげる」と言うのも怪しまれそうではあるし、もし俺が走っている間に中身をどこかに落としたり、もしくはそのように疑われても、それはそれで面倒だ。『マハーカーラの白袋』に関わるプレイヤー間のトラブルは多い。下手なことは言わない方が良い。
(クソっ、走りにくい!!)
地面の揺れが益々強くなる――というより、強過ぎる。何かがおかしい。
四人のいる『亜麻束』の場所はもうすぐ其処という時、マリーが俺たちの方に向けて指を刺しながら大声で叫んだ。
「後ろよ!!!!」
その言葉に反射的に背後を見ると、ズラトログが目と鼻の先まで迫ってきていた。
そんな馬鹿な。
以前、ズラトロクの習性を調べたプレイヤーたちがいると言ったが、実は俺もアレに参加していたことがある。一から十までの全てに参加していたわけではないが、コイツの身体能力については十分熟知しているという自信がある。この世界のことに詳しい友人にも、ズラトロクに関する事柄を色々細かく教えてもらった。だが、そのいずれの情報の中ででも、ズラトロクがここまで速く走るというデータはなかった筈だ。
「ミナちゃんっ!!」
僅かに後ろに振り返りながらの呼び掛けに、ミナはその目を俺へと向けた。その顔は今にも泣き出しそうだ。おそらく彼女も見たのだろう。そして、気付いたのだろう。
どうやっても、このペースでは四人の場所に辿り着くまでに追い付かれることに。
瞬間的に頭に三つの選択肢が浮かぶ。
(確かめるか……)
気になることがあった俺は、その内の二つ目を選ぶことにした。
「二手に別れるんだ!!」
そう叫び、俺は右へと進んだ。
「っ、は、はいっ!」
ミナが俺から離れる気配がする。おそらく反対の左方向へと進んだのだろう。
あとはズラトロクがどちらを追うかだが――――。
視線を後ろに向けると、ズラトロクが俺には目もくれず、ミナの方に鼻先を向けたのが見えた。
(またか……)
俺が『亜麻束』に入らずにいた時も、ズラトロクは俺ではなくミナを狙った。あの時は、俺よりもミナの方が近かった所為かと思ったが、今回俺とミナは、ズラトロクからほとんど同じ距離だった筈だ。それなのにズラトロクは迷う素振りを見せず、ミナの方に視線を向けた。
(偶然か……?)
多少気になるが、分析している暇はない。
俺は向きを変え、脚の側面で走る勢いを止めながら、ズラトロクに向けて挑発スキルを使った。
「『来いよ』、鹿野郎」
俺の言葉に、ズラトロクが僅かに速度を緩め、こちらを視界に入れたのが分かった。だが、
(来ないか……)
ズラトロクはすぐにミナの背中に視線を戻し、追跡を続行した、
(なら……)
俺はズラトロクの方へ駆け寄りながら素早く二度三度とスキルを使用した。そして四度目、
(やっと来やがったか)
今まさにミナの背中に襲い掛かろうとしていたズラトロクが足の向きを変え、地響きを起こしながら俺の方へと駆けて来た。
その巨体が放つプレッシャーは並ではない。肌に直接突き刺さるような感覚――敵意、正にそれを感じる。
他の誰でもない『自分』が『自分だけ』が狙われる感覚。これに慣れることが出来ないプレイヤーは多い。そして、そういう人間の多くは生産職専門になっていく。戦闘の上手いプレイヤーになるには技術だけでは足りない。この恐怖心に打ち克つことが出来るか、それも絶対に必要不可欠な要素なのだ。
俺は前傾姿勢になり、両手を浅く広げ、回避体勢をとった。こんな生物の突撃を受け切れるわけがない。盾があろうが不可能だ。
だが、ギリギリで避けようなどとは考えないほうが良い。振動で足元がふらつく中、そんなことをしようものなら高確率で体のどこかの部分に突撃を食らう。
早過ぎても駄目。遅すぎても駄目。この按配が難しい。だが――――俺なら出来る。
(何度もやった。出来る筈だ。)
夜、他に誰もいない時に公式掲示板から情報を得て、一対一でやり合ったこともある。俺になら出来る筈だ。
見るべきは体全体ではなく、その脚。
(8……7……6……)
ズラトロクの前脚が俺まであと5歩の所まで迫る。まだ早い。
(5……4……3……)
揺れが更に強くなる中、『あと2歩』、それをズラトロクが切った直後に俺は左に――
「上よ!!!!」
地面から足を離した直後、マリーの叫ぶような大声が聞こえてきた。そしてその意味を知る前に、俺の胴体に『白い糸』のようなものが大量に巻き付いた。
「っ!!??」
体に力が入らない。足を胸元まで引き上げたいのに、それが出来ない。
回避するタイミングは完璧だった。膝から上は既にズラトロクの攻撃が当たらない位置にある。
「くそっ!!」
長時間正座した後のような足を無理やり引き上げようと試みるが、やはり力を込めることができない。
(マズい!!)
そしてそんな俺の足に、ズラトロクが『口を開いて』喰らい付いた。