第二話 ゴシック・アンド・ロリータの尻拭い
『ラハブの亜麻束』
特定のエリアに群生する亜麻を採取し、乾燥させ、教会で販売されている赤色の帯で中心部分を縛り、司祭から祝福を授かることで作成する、緊急避難用アイテム。
使用方法は帯は解かずに、そのまま空中に放り投げ、所有者が『ある言葉』を発することで発動する。
発動した『ラハブの亜麻束』は、帯が自然に解け、半径5mの円を描くように『亜麻』が散らばり、一種の結界を作成する。
この中にいるプレイヤーは敵からの認識を避けることが出来るが、制限も多い。
例えば今、俺の目の前で俺を巨大なフライドチキンだと思っていそうな犬には通用しない。
「シッ!」
前屈み気味に、デグルの右胴体に左のフックをお見舞いする。その感触は水袋よりもサンドバッグ――ヘビーバッグのそれに近い。その上、表面が鱗で覆われているので、衝撃が胴体中心部分まで伝わる手ごたえがない。相変わらず何時叩いても面白くない感触を返す奴だ。
胴体への攻撃に怯む様子を見せず、俺の足元に噛み付こうとしてくるデグルをサイドステップで避ける。コイツはプレイヤーが後ろに回避すると俊敏に追撃してくるが、横への移動には弱い。多少マシという程度だが。
デグルがこちらに向き直る前に、膝を曲げて姿勢を思い切り低くし、それと同調させるように右腰を振り子のように体重移動させ、スーツの前腕部分で地面を擦りながらデグルの腹部へ右のアッパーを放つ。こちらは振り子と言うよりも、アルファベットのJの文字に近いイメージ。
現役時代にこんな形のアッパーは使ったことはない。一発で金的で失格にされるからだ。顎を狙うにしても俺の身長ではリスクが高過ぎる。だが、コイツに対しては有効だ。
鱗で覆われていない腹部に当てた拳を引かずに、寧ろ思い切り振り上げた。
肉の僅かな抵抗感の奥に、脆弱で、柔らかい内臓の感触を感じる。
ごぼっ、と嘔吐くようにして地面から一メートル半ほどの位置まで浮き上がるデグル。
追撃のチャンスだが、敢えてそれは行わず、後ろに下がる。それでは殺しきれないのは経験済みだ。
(一歩、二歩、三歩……)
心の中で数えながら後ろ向きに歩く。ついでに、手に装備した皮製のグローブの位置を調整する。グローブは指の第二間接から指先まで完全に露出したタイプのオープンフィンガーグローブだ。ただ、通常の物よりも全体的に薄く作られている。殴った時の感触が、ほぼ直に伝わってきて実に好みの特注品だ。本当は素手が良いのだが、攻撃力がガタ落ちするので同格以上のモンスターと闘う時は諦めている。
デグルは一般のプレイヤーからは中級~上級の強さに分類されるモンスターだ。スタミナはプレイヤーの方が高いが、短距離ではまず追い付かれる。出会えば殺るか殺られるか。だからこのエリアには普段から余り人が来ない。いざと言う時に自分が逃げ切れない相手よりも、逃げ切れる相手を選ぶのは当たり前のことだ。経験値やドロップアイテムが美味ければ別だが、生憎デグルだけが落とすレアアイテムは存在しない。それに加えてコイツはLvが高い。
今プレイヤーのLvは最高が35だが、デグルは40もある。どうしてこっちの最高が35なのに敵は40まであるんだと思うが、このゲームに限らず、他のゲームでもそういうことは珍しくないらしい。
当然だが、モンスターのLvが高ければ高いほどモンスターも強い。戦闘行動とは別に、モンスターもパラメーターが高くなるからだ。
Lv補正と言って、プレイヤーが自分よりもLvの高い敵を攻撃すると、ダメージが減衰されることも要因の一つ。
例えば今の俺の攻撃力を100として、先ほどのアッパーでデグルに与えたダメージを100とする。ここでもし俺がLv40になり、攻撃力100になるように調整して、同じようにデグルにアッパーを喰らわせた場合、ダメージは120~130にはなる筈だ。
つまり、Lvに差があるだけで損が生じるわけだ。それでいて固有のレアドロップもない相手と好き好んで戦うプレイヤーはそうそういない。俺は腹を殴った時の感触が好きだから時々遊んでいるが。
何時もならこのまま腹を殴り続けて遊んでもいいのだが、今はそういうわけにもいかない。先約と鬼ごっこの最中だ。
速攻で勝負を決める。
(四……五……六)
六歩目が地面に着いた所で足を止める。周囲は傾斜も障害物もほとんどなく、お誂え向きだ。
Lv4スキルの出番である。と言っても俺の場合は常に発動しているのだが。
左足を少し前に出し、腕を上げ、ファイティングポーズを取る。そして両足で軽く地面を蹴るようにして体を上下運動させる。よく漫画で見掛けるが、この軽いジャンプをしたまま殴り合うわけではない。リズムを取ることと、体の緊張をほぐすことが目的だ。後者は気分の問題なのだが。
デグルが唸りながら起き上がり、恨めしそうにこちらを睨み付け、闘牛のように右前足で地面を引っ掻く動作を行った。
ここからはタイミングが命だ。
足を止め、代わりに両膝を軽く曲げ、足の裏全体ではなく、親指の下の出っ張った骨の部分から足の指先全体に体重が乗るようにする。
空気を軽く吸って、同じように軽く吐く、その浅い呼吸を何度か繰り返す。
デグルの鼻先の筋肉が張るように動いたのが分かるのと同時に、呼吸を止める。スタミナ大幅減少、無呼吸運動の時間だ。
尻を左右に振って狙いを定めてから獲物まで疾走する猫のように、デグルが一直線に駆けて来る。鋭く尖った犬歯が丸見えだ。「昔ガキの頃、学校帰りの俺を追いかけ回した犬もあんな感じだったな」と思う。
「ふっ!」
俺は姿勢を大きく崩さないように注意しながら身体を少し左にズラし、右前腕に噛み付こうと飛び込んできたデグルの鼻先を、軽く開いた状態の右手の指先で叩くようにして回避する。そしてデグルが着地する前に、尻の部分を同じように右手で叩く。
二度叩かれたデグルがその勢いのまま着地、足で土に円を描くようにすぐさま180度方向転換し、間を置かずに今度は俺の左大腿部分に噛み付こうと襲い掛かってきた。
『ココ』だ。
一瞬で右拳を中指が突き出た形にする。俗に言う「中高一本拳」という類のものだ。グローブのせいで安定し辛いが、これから行うことに支障はない。
今度は回避行動を取ることを選ばず、デグルの左顎の一部分に狙いを定め、右のフックを放つことを選択。相打ちのような格好だが、『生憎そうはならない』。
涎塗れのデグルの犬歯より先に、俺の右拳がデグルの左顎に当たるその瞬間、狙いの中心部分が青く輝いたのが見えた。そしてそこからコンマ一秒も経たない間に、俺の右拳の突き出た中指部分による打撃が、青く輝いた場所へと到達した。
デグルの目から光が消えるのと同時に、俺の頭の中でパキンッと細い枝が折れるような音が鳴った。ここからは俺だけの時間だ。
「おらおらおらおらおぅらぁっ!!」
動きを止めたデグルの身体、その鼻から耳から胴体から、攻撃をしやすい全ての箇所に全力の両拳を振り下ろす。リングの上ならレフェリーストップが掛かる展開だが、そんな者は此処にはいない。
拳の衝撃で地面に這い蹲った形のデグルに尚も攻撃を加え続ける。
肉の感触がダイレクトに伝わってくる。サンドバッグのようだった胴体も、今では豚の角煮のような感触になっている。
自分の頬と口が笑みの形を作っているのが分かった。
これだから『クリティカル』は堪らない。
俺はそのまま、デグルの体力が無くなるまで拳を振り下ろし続けた。