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「サイズ大丈夫だった?」
ソファに座る志希の前に、輝雪は湯気の上がるコーヒーを置いた。初夏とはいえ、雨に濡れて冷えてしまっている。志希はこくんと頷いて、両手を暖めるようにカップを持った。
志希が着ているのは事務所に常備している衣装のひとつだ。五分の距離でもあの雨ではやはりずぶ濡れになってしまって、制服は乾燥機にかけていた。
輝雪は志希の向かいに座る。コーヒーを飲みながら志希を見ると、きょろきょろと辺りを見回していた。
「芸能事務所なんだ」
「芸能、事務所……」
「そ。弱小だけどね」
今日は渚も撮影だし、社長もダンスボーカルユニットのライブの打ち合わせに行っている。静かな事務所には雨音が聞こえていた。
「だから、歌……」
ぽつりと呟かれた言葉に、輝雪はあぁ、と視線を上げた。
「うんまぁ、最初はね」
志希はじっと輝雪を見つめている。輝雪はひとつ息をついた。
「シキの歌は日本を揺るがす。俺の感がそう言ってるから間違いない。一回断られちゃったけど……歌手に、なってみない?」
志希の瞳が揺れた。
「ただーいまー!」
その空気をぶち破る社長の声が事務所内に響き渡った。
「いやーまいったよ、突然の雨で。一応カサ持ってっといて良かったー!」
そして息子が女の子と一緒にいるのを見た。
「んん?」
輝雪は頭を抱えた。
「もしかして例の彼女!? うわー可愛い子だね! 初めまして、キーくんの父でTMプランの社長、高宮光輝ですー」
そう言いながら志希に名刺を渡した。輝雪はそんな父親をじろりと睨みつける。
「親父……だからシキはそんなんじゃないって……」
「シキちゃんっていうの? 名前も可愛いね。ていうかもう名前で呼び合う仲なんだー!」
志希は完全に社長のペースに押されてしまっている。黙っているのはいつも通りだが、これは何と言ったらいいか分からないときの沈黙だ。
「だから話を聞けー!!」
やっぱり輝雪の怒鳴り声が響き渡った。
*
「へー。シキちゃんはひとりっ子なのかぁ」
あれから。社長のペースに乗せられて、志希は高宮家で夕飯を食べていくことになってしまった。二階のリビングで輝雪がごはんを作るのを待っている間、社長は言葉巧みに志希と会話をしていた。
――俺だってそんな話聞いたことないのに……。
輝雪はひとりキッチンでフライパンを振っていた。
「親父、あんまシキ困らせんな」
輝雪は社長の前にエビクリームパスタを乱暴に置いた。志希にはことりと静かに置く。
社長はニヤニヤした目つきでその様子を見ている。
「キーくん余裕ないよー?」
「うっせ」
そして席に着くとパンッと手を合わせた。社長もそれにならった。
「いただきます」
「いただきまーす」
食べ始める二人を、志希はぽかんと見つめていた。
「ん? シキどうした?」
それに気付いた輝雪が声を掛けた。
「今の……」
「今の?」
「いただきますって……」
輝雪はようやく合点がいった。
「あぁ。いただきます? シキの家は言わないの?」
志希は困ったような顔をする。社長はひとり分かったような顔で、フォークを置いた。
「シキちゃんは、いつもひとりでごはんを食べてるのかな?」
志希はこくんと頷く。
「うちでのお決まりはね、食べる前には『いただきます』、食べた後には『ごちそうさま』って言うことなんだ。食べ物と作ってくれた人に感謝を込めてね」
志希は社長の顔をじっと見ていた。やがてパスタに視線を落とすと、おもむろに手を合わせた。
「いただきます」
それは小さな声だった。だが社長はニコニコと笑っている。輝雪も小さく笑った。
「はい、召し上がれ」
その言葉に軽く社長を睨みつける。
「作ったのは俺だっつーの」
「細かいことはいーのいーの。さ、早く食べないと冷めちゃうよ?」
輝雪はちょっと不満だったが、志希がおいしそうに食べているのを見たらそんな気持ちもどこかへ飛んでいってしまった。
*
街灯が照らし出す道を志希と輝雪は歩いていた。
「悪いな。親父に付きあわせちゃって」
志希は首を振った。
「誰かと夕ごはん食べたの久しぶりで、楽しかった」
輝雪は志希の言っていたことを思い出した。離婚だと言っていた。父親もやはり仕事で忙しくてあまり家にいないのだろう。
「たまに、食べに来てもいいよ?」
その言葉に志希は顔を上げた。
ひとりで食べるごはんはきっとまずい。
「ありがと」
輝雪の顔を見ずにそう呟いたが、その顔はどことなく嬉しそうだった。
「もうこの先だから大丈夫」
「そっか。じゃあまた明日な」
マンションに入っていくのを見届けて、輝雪は家路に就いた。
「ただいまー」
「はいおかえり」
リビングに上がると、社長はソファでコーヒーを飲んで寛いでいた。手には書類が握られている。その様子を見て、輝雪は少し考えてから口を開いた。
「……どう思った?」
社長は視線を上げて、そして書類をテーブルに置いた。
「シキちゃんね。ルックスも申し分ない。歌もキーくんが言うなら大丈夫なんでしょ」
輝雪はほっとした。売れ線レーダーを持つとはいえ、社長は父親だ。最終決定権は社長が持つ。
「ただ、彼女には足りないモノがある」
「足りないモノ?」
社長は優しい笑みを浮かべていた。
「愛されたいと願うこと。見られたいと思うこと」
確かにそれは輝雪も感じていたことだ。歌がうまいだけじゃこの世界は生き残れない。加えて普段から無表情の志希だ。輝雪はそこが心配だった。
「芸能界でやっていきたいと思うのなら歌に感情を込められるようにならないとダメだ。彼女の場合、環境が悪かったのかもしれないけど……」
輝雪は言葉に詰まった。今それを言っても仕方がない。
「何にせよ、あの子は感情が乏しすぎる。いつか爆発しちゃわないといいけど」
輝雪は遠くを見つめていた。