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不規則な波の音が響いていた。まだ海に入るには水が冷たそうだが、暖かな日差しは夏の訪れを告げている。
波音の合間に聞こえてくる歌声。その声の持ち主はすぐに分かった。砂浜には一人しかいない。砂浜にごろごろしている岩に腰掛けて、歌を歌っている少女がいた。
輝雪は肩で息をしながらその少女を見ていた。こちらには気付いてないようで、彼女は歌い続けている。時折波音でかき消される歌声は、まさしく天使の声だった。
その声が止む。輝雪は声をかけることもできず、ただ突っ立っていた。
「なに?」
唐突に少女が言って、振り返った。どうやら気付いてはいたようだ。
「いや……あの……」
雰囲気のある少女だった。背中まで伸びた髪はさらさらと風に揺れ、日に当たって少し茶色っぽく見えた。ぱっちりとした二重の瞳の上には、長いまつげが踊る。はっきり言って美少女なのだが、無表情さがそれを打ち消していた。
「あの……! 同じ学校だよね? その制服」
少女は輝雪と同じ中学のセーラー服姿だった。少女の目が不審げに揺れる。
「あっ俺、二年三組の高宮輝雪! 一回学校で君の歌聞いたことがあって……」
輝雪は慌てて言った。輝雪は私服だ。突然こんなことを言われても不審に思われるだけだろう。
「キセツ……?」
だが少女はそんなことには構わなかった。輝雪の名前を口の中で繰り返す。
「うん。輝く雪って書いてキセツ。……名前、聞いてもいい?」
少女はしばらく黙っていた。そうして小さく口を開く。
「二年一組……工藤……志希」
ぽつりと言われて輝雪は目をぱちくりとさせた。
「シキ……」
少女は名前を呼ばれても黙っている。
「四季に季節か。なんか似てるな、俺ら」
そう言って笑った。志希は驚いた顔をしていて。
「帰る」
それだけぽつりと言って、輝雪の脇を通り抜けていった。
輝雪はなにか気に触ることを言っただろうかと心配になったが、それよりも出会えた嬉しさの方が勝っていた。
「シキ、か」
その顔には晴れ晴れとした笑顔が浮かんでいた。
夏の始まり。全ての始まりの出会いだった。
*
「またか!!」
輝雪は二年一組の入り口で息を荒げていた。
「なんだアイツは……忍者かよ……」
あの海での出会いから数日。輝雪は志希との接触を試みていた。だがしかし、会えないのだ。
昼休みに教室を訪れた。いない。
放課後に下駄箱で待っておこうと思った。すでに帰っている。
ダッシュで昼休みに二年一組へ向かったが、そこに志希の姿はもうなかった。
「なぁ、工藤さんって学校来てるよな?」
近くにいた男性生徒に声をかける。
「工藤さん? あぁ来てるけど休み時間はいつもいないよ。どこ行ってるか知らないけど」
それを聞いて輝雪は「そっか」と呟いた。
輝雪はひとり廊下を歩いていた。
もしかしたら、志希は仲のいい子がいないのだろうか。あの後、二年一組の他の生徒も話しかけてきたが、志希について詳しく知っている者はいなかった。「ひとりでいるのが好き」とういうのが共通認識だった。
あの天使の声を知る人はいないのだろうか。
ふと輝雪は窓の外を見上げた。そしてばっとガラスにへばりつく。
向かいの校舎の屋上に立っていたのは、紛れもなく志希だった。
勢いよくドアを開ける。全力疾走したせいで息が上がっている。途中、先生に廊下は走るなと言われたが適当に返事をして走り続けた。
飛び込んできた輝雪に志希は驚いて振り返る。輝雪の荒い息だけが屋上に響く。
「や……やっと見つけた……」
なんとか息を整えて、声を絞り出す。志希は黙っていた。
「何度か教室行ったんだけどなかなか会えなくて。そういえば最初のときも屋上にいたよな」
そう言って笑いかける輝雪を、志希はじっと見ていた。
「ほんとに同じ学校だったんだ」
ぽつりと呟かれたそれは消え入りそうな声だったが、静かな屋上で輝雪の耳にしっかりと届いた。
「信じてなかったのかよ……。ま、あの状況じゃ無理だな」
そう言って輝雪は志希の元へと近づいた。志希の足元には弁当の包みが置かれている。
「いつもここで弁当食ってんの?」
志希は小さく頷いた。
「明日から俺も一緒してもいい?」
今度は返事が返ってこない。いきなりすぎただろうかと不安になって、輝雪は志希の顔を覗き込んだ。
志希は嬉しそうな、戸惑っているような表情を浮かべていて。
「うん」
さっきよりも更に小さな声で返事をした。
確かに届いたそれに、輝雪は満面の笑みを浮かべた。
*
「いい天気だなぁ」
あの日から三日。昼休みにはこうして二人で屋上で弁当を食べるようになっていた。
特に何を話すまでもない、弁当を食べて予鈴が鳴るまでのんびりする。そんな日々が続いていた。歌を聞いてみたいと思うのだが、輝雪は切り出せずにいた。
「工藤さんって自分で弁当作ってるの?」
もう一つ気になっていたことを輝雪は口にした。可愛らしい赤のチェックの小さな弁当箱に詰められた弁当は、中身も大変可愛らしくできていた。
「これは……田中さんに作ってもらってる」
ぽつりぽつりと呟くかのような喋り方にももう慣れた。
「田中さん?」
「お手伝いさん」
輝雪は玉子焼きを口にする志希を見つめた。
「えーと、工藤さんのご両親って何してる人なの……?」
「トリック・トリートっていう服作ってる」
輝雪もよく知るブランドだった。若者を中心に人気のブランドだ。
「それと、やってるのはお父さん。お母さんはいない」
その言葉に輝雪は口を噤んだ。
「……ごめん」
視線を落としてそれだけ呟いた。
「いいよ。ただのリコンだし」
何でもないかのように言って、志希は弁当を食べ続けた。輝雪は何も言うとができずに、視線を落としていた。
「シキでいいよ」
いつの間にか食べ終えて弁当箱をしまっていた志希が、唐突に口を開いた。
「え?」
「名前」
言われて五秒、考えた。意味を理解して、輝雪の口は弧を描く。
「俺もキセツでいいよ。親父とか友達はキーくんって呼ぶけど」
「キセツ……」
「うん」
「キセツ」
何度も繰り返される自分の名前に、輝雪はだんだん落ち着かなくなってくる。本名で呼ばれることは、あまりない。
「シ、シキね! よろしく!」
志希は無表情のまま頷いた。
初夏の爽やかな風が吹いていた。