一:消えゆく体温に、昂ぶる感情。
「なぁ、機嫌良くね?」
無表情な顔付きのまま無機質な液晶画面に向き合っていると背後から声を掛けられた。
声だけで誰だか判ったが、黒川は敢えてキーボードを叩く手を止めて後ろを振り返る。
急ぎの仕事でもないので小休止しても問題はなかった。
「円佳先輩」
「ほい、お前のコーヒー」
「ありがとうございます」
案の定、声を掛けて来た相手は先輩の魚住だった。
コーヒーの入った紙コップを両手に持ち、片方を黒川に渡して来る。
何時の間にか席を外していたと思ったが、一服やって来たらしい。
そういえば水分を取っていなかったと思い出し、有り難く差し出された紙コップを受け取った。
「何か良いことでもあったのか?」
「俺、機嫌良さそうですか?」
「んー、何となく?あれ、そうでもなかったか?」
「――――」
「週明けの昨日、結構ご機嫌さんな気がしたんだが」
「気の所為だったんかねー」と零す魚住に、黒川は内心笑みを洩らした。
女にしか観察眼が働かないと思ったが、如何にもこの先輩は侮れないようである。
確かに黒川の機嫌は良いだろう。
何せ五年振りに彼女を見付けたのだから――。
「なぁなぁ。今週末にさ、合コンあるんだけどお前来ない?」
「えー。面倒くさい」
「お前来ると女の子寄って来るし。フリーだろ?ちょっとは先輩の顔を立てろよ」
うっかり先日の彼女との遣り取りが脳内に流れ、表情筋が緩みそうになる。
だが、魚住の発した提案に黒川は露骨に眉を顰めた。
「フリーだけど女の子面倒くさい」
「適当に摘まみ食いだけでも良いじゃん?最近の子、そこまで固くないし」
「合コン来るような肉食系は好みじゃないし」
「くーろーかーわー……何だよ、軽蔑するような目付きしやがって」
嘘は云っていない。
大抵、合コンに来るような女は飢えたような感じでどれも同じに感じる。
今まで女に事欠くこともなかったので食傷気味と云っても良い。
そう、或ることを切っ掛けに黒川は食指が動かなくなっていた。
「先輩だけ愉しんでくれば良いじゃないですか」
「数合わせに来いっつってんだよ」
「嫌ですよ。そんなら普通に残業してます」
「前は付き合い良かった癖に何だよー……」
黒川の周りに寄って来る女はどれも有象無象の衆ばかり。
それに気付いたのもつい数年前だが、気付いた時には既に遅かった。
欲しいと思ったそれは忽然と消えていた。
手の内にあると思っていたそれは跡形もなく行方を晦ませたのである。
「若いのに枯れたのか?それともETとかになっちまったのか?」
「円佳先輩……。いちおー会社……」
「周りに人いないから良いだろ、そんくらい」
「色んな意味で俺に失礼ですって」
「お。何だ、じゃあ違うのか」
「どっちも違います。円佳先輩みたいに年中お盛んじゃないんです、俺は」
呆れたように云えば、魚住はヤレヤレといった風に肩を竦ませた。
寧ろ黒川の方が溜息を吐きたい方なのだが、そこはコーヒーを飲んでグッと我慢した。
爽やかな顔をして女を取っ替えひっかえ食い漁る男だが、それを抜けば仕事の出来る良い先輩なのだと思う。
大抵の女はこの魚住の面倒見の良さに落ちるのだろう。
チラリと横目で視線を送れば、それに気付いた魚住が首を傾げる。
「先輩は良いですよね。悩み事がなさそうで」
「お前……。俺に喧嘩売ってんのか?」
「いーえ、別に?ただ、ちょっと、そのポジティブさが羨ましいだけですよ」
少し温くなったコーヒーを啜りながら黒川は考える。
如何すればアレを再び自分の手元に置けるのか。
考えるだけで胸が躍る。
また会えるかも判らないのに不思議と高揚感があった。
「先輩」
「お。やっぱり行く気になったか?」
不意に切り出した黒川の声に、魚住は未だ諦めてなかったのか合コンのことかと訊ねて来た。
残念だがそっちの誘いは今後も断るだろう。
ずっと探していた好機をむざむざと取り逃がしてなるものか。
そう思いながら黒川は静かに首を横に振って答えた。
「――ずっと探していた所有物が見付かったんです。だから、今はそれだけに集中したい」
手放したくないと思うものは存外失くしてからその大切さに気付くものだというのを痛感した。
他の女を抱く度に覚える空虚感をきっと彼女ならば満たしてくれるだろう。
目を閉じれば蘇る。
自分と再会した時の彼女の驚愕した表情が――。
(もう二度と逃がさないよ――佐和子)
今度こそ君を永遠の鳥籠に捕えていたい。
あの時の再会が互いの運命の歯車を大きく動かす。
歯車は狂い出したのか、それとも狂ったそれが正常に正されつつあるのか、それは未だ――判らない。
妄執にも似た感情は今露出し始めたばかりだった。