最後の戦い-3-
「各員、もうすぐ正午だ! 城壁が崩れればすぐに突撃を敢行する! 準備はいいな、魔術師は出来る限り防御魔法を展開し部隊を守れ、敵の腹に食らい付くまで一人たりとも犠牲者を出すな!」
とてつもない人数の是の声が空に染みこむ。士気は帝国と比べるまでもなく高かった。
座っていた隊列が立ち上がり、盾のみを構えて走りやすいように並ぶ。
その時、風に乗って首都から鐘の音がかすかに聞こえてきた。ここでもし城壁が破壊されなければフィアが失敗したとみなし一度撤退する事に決まっている。
けれど、その場の誰もが撤退など必要ないと考えていた。フィアは必ず成功してみせる。
今か今かとその瞬間を待ちわびていた彼らの目に、一際大きな炎が映った。続いてこの距離を開けても身体を揺らすような大爆音が響く。
合図は必要なかった。いや、それこそが合図だった。
鬨の声を上げ、城壁が崩れたかすら確認せずに何もない平原をひた走る。
敵の射程距離に入っても攻撃は何一つ飛んでこなかった。
小さかった町並みが、徐々に近づくにつれ、硬く閉ざされている筈の城門が跡形もなく吹き飛ばされているのが見て取れるようになる。
やはりフィアは成功した。誰もが歓喜に奮え、一団の士気は否応なく上昇の一途を辿った。
「敵の弓矢を確認! 魔術師は全力で対処しろ!」
しかし城壁全てが吹き飛ばされたわけではなかった。詰めていた幾らかの兵士が散発的な射撃を試みるが混乱の渦中で指揮を取るものがいないのか、狙いは酷いの一言に尽きる。
意味のない攻撃を少ない魔術師が完璧に防ぎきった頃にはもう城門は目と鼻の先だった。この期に及んで城門の中から兵が飛び出してくる気配はない。
「全軍突撃! 城への道を作り出せ」
城壁の上から先ほどよりも統率の取れた矢と魔法が降り注ぐ。
セシリアが火災を起こした部分はまだ復帰できていなかったが、それ以外の部分は混乱から脱し始めたようだ。
防御魔法の隙を潜って、或いは運悪く貫かれた攻撃が真下をひた走る幾人かの兵の動きを止める。
だが全体の動きを止められるほどの密度はまだなかった。
「怯むな、中に入れば敵の攻撃は薄くなる!」
城壁は外側を攻撃できるように作られていても、内側を攻撃できるように作られていない。
敵に占拠された時に使われるのは面倒な上に、城壁を落とされる事態を想定しない為だ。
だからフィアの軍勢の大部分が城塞都市内部に流れ込んだ時、どうしていいか分からなかった。
「陛下……! 敵は城壁をさしたる被害も出さず突破した模様です!」
つい先ほどまで余裕を見せていた彼らは、一様に口を開け呆けていた。
フィアの常套手段は宵闇に紛れての攻撃だ。だから彼らは誰しもがフィアは夜に攻めてくると疑いもしなかった。
何より気球を見かけたという報告はない。ならばどうやって城門を破壊したというのか。
「あれを、あれを今すぐここにつれて来い! 城までの道を封鎖しろ、急げ!」
命令を受けた騎士は格式ばった返事をすることさえ忘れて飛ぶように部屋を後にする。
「大丈夫、我々にはまだ手が残されているではありませんか。長き時間を費やし手に入れた切札が」
鷹揚に話す貴族に、誰ともなく頷き合う。しかし、そのどれもが心から安心しているとは言いがたかった。
「しかし、切札は交渉に持ち込めなければ切れませぬ。如何致しますか」
切札とは相手に突きつけられなければ意味はない。同じ空間に同席する必要があるのだ。
「敵の兵は精々が8千。分散されれば厄介ですが潰せない数ではないでしょう。それに、旗印であるフィアさえ手に落ちれば士気は相当に落ちるはず」
問題は如何にフィアと同じ空間に同席するか。
「この街のどこかに必ずフィアがいる。まずは奴を見つけ出せ。確保には一部隊を全て当たらせても構わん。可能なら殺してもいい。ただし、もし近くにかのセシリアが居るならそちらには手を出すな」
予め控えていた騎士に命令を下すと彼もまた飛ぶように部屋を後にする。
どう転んだところで自分達が負けるはずがない。だが彼らの顔は揃って明るいとは言えなかった。
フィアの軍勢の一部が城門を抜けて市街地を一丸となってひた走る。住民はとっくに家の中に篭もり巻き添えを食わない様ただ静かにしていた。
大通りに差し掛かるたびに剣を持った兵士が切り結ぶ。
剣や斧が打ちつけられる金属音、魔法と思しき爆音、台風の様な一幕が終われば地面は大量の赤で彩られ、時には人だった物の一部が転がり、駆け抜ける兵によって踏まれ千切れていく。
城門を抜けた彼らの士気は高かったが、ここまでの全力疾走で体力が奪われないはずもない。
快進撃は城にたどり着く前に押し留められ、互いに1歩も引かない泥沼の様相を呈し始めた。
入り組んだ路地を使い細かく分かれた分隊は時折相間見える騎士と切り結び、どちらかの死骸が必ず取り残される。
幸いなのは城壁につめていた兵士がみな戦意を喪失し背後から挟まれなかった事だろう。
地獄のような光景が広がる中、フィアとセシリアは不可視の魔法を身に纏い城に向かって進んでいた。
極度の緊張状態にある兵は多少の違和感を残す2人に全くと言っていいほど気付かない。
背後から聞こえる剣戟を収める為には前へ進むしかないのだ。
やがて誰にも阻まれる事なく、セシリアとフィアは城の前へと到着する。
問題はこれから、目の前で硬く閉じられている門をどうこじ開けるかだ。
方法は初めから一つしかなかった。小規模でもいいから再び複合魔法を使い纏めて吹き飛ばす。
「やるぞ」
この時ばかりはセシリアも憎まれ口を叩かなかった。
優が不可視を、セシリアが防御魔法を、フィアが水を生み出し分解をそれぞれ実行し、最後に優が炎系魔法を打ち出す。
不可視化は当然解除されたが、これだけの事をしでかして不審に思われないはずがない。
不可視化の魔法は波紋によって魔力を検知されれば一瞬で見破られるのだ。
無残にも倒壊した扉の向こうでは幾人かの騎士が何事かとばかりに唖然としていた。
恐らく一番安全だと思われる城に詰める事で自らの安全を確保したのだろう。
セシリアもフィアも何も言わなかった。未だ粉塵が立ち上る入り口に向けて同時に駆ける。
遅れて騎士が魔法を立て続けに放った。しかし、セシリアの前に出たフィアによって全てが呆気なくも無効化される。
騎士達と2人がすれ違う刹那、セシリアの放った魔法が立っていた騎士を例外なく弾き飛ばし無力化してみせた。
これで事が終わるまでの間起きてくる事はないだろう。
「こっちだ、最上階に円卓がある」
内部構造に詳しいフィアは最短ルートと回り道を器用に選びながら遭遇する騎士の数を減らす。
魔法が効かないフィアとセシリアの組み合わせは多少の人数差を物ともしない程強力だった。
遠距離から魔法を撃ってもフィアに無効化された上でセシリアの想像による補正がかかった強力かつ変則的な攻撃が次々と兵士の意識を狩っていく。
けれど、それもやがて限界がやってきた。
「ごめん、もう走るの無理……」
大人と言って良いフィアの足並みにあわせていたセシリアの体力が尽きたのだ。
城門のあたりから走り続けたのだと考えればよくもまぁ今までもったものである。
肩で息をしながら立ち止まったセシリアを、フィアは仕方なく抱える。
しかしこの状態では魔法の無効化と攻撃が同時に行えない。フィアが無効化を使うと必然的にセシリアが範囲内となって攻撃魔法を使えなくなるからだ。
走るのと同じ速度で突き進んでいた2人の動きは確実に鈍る。その間に騎士は次から次へとわらわら湧き出してきた。
『私が敵に魔法を使われる前にどうにかするから、ただ走ってればいいわ』
走りながら魔法を使うのは体力を使うと判断したセシリアは自前の魔力を総動員して群れて襲いかかってくる騎士を片っ端からなぎ倒していく。
セシリアと優、2つ分の意識はそれぞれ担当範囲を決めることで効率的に敵を撃退して行った。
元々想像の補正がある限り、数人相手に引けを取る事はない。それが2人分ともなれば単純な力でセシリアを止めることは不可能だった。
だが当然欠点もある。
「フィア、もう魔力が残ってない」
使いすぎによる弾切れ。打ち倒した騎士の数は数え切れないが住処である城の兵はまだまだ数多いだろう。
「安心しろ、目的地はもうすぐそこだ」
最後の階段を上がった瞬間、両脇から怒涛の魔法が吹き荒れた。
壁が、床が、天井が余波を受けて砕け、穴を空け、煙が通路に充満する。
視界は利かなかったが音はしなかった。遂に仕留めたかと貴族の一人が得意顔で風の魔法を使い煙を払う。
刹那、目の前に迫っていた風の刃によって首が空を舞った。それも、その場に居た全員が誰一人の例外もなく。
「悪いが俺は気絶で済ませるほど甘くねぇんだよ」
真っ赤な悪趣味極まりない噴水を突っ切る。一部始終をやや離れた場所で見ていた兵が腰を抜かしへたり込んだ。
「さて、どうする? まだ戦うか?」
冗談じゃないとばかりに握っていた剣が放され何もいわずとも両手を挙げ降伏を宣言する。
フィアはその姿を見て満足げに笑った後、そのまま場を後にした。
やがて見えてきた大きな扉の前に立っていた2人の騎士の心臓を抉ると扉を蹴り開ける。
広間の中には幾らか人数は減っているがフィアがいつか見た光景そのままだった。
堂々と部屋に入ってきたフィア目掛けて壁にずらりと並んだ騎士が剣を、魔術師が魔法を、いつでも使えるよう身構える。
「逃げずに居残るとは中々良い度胸じゃねぇか」
フィアの言葉に返事はない。だが構うものかとばかりに部屋の中央、円卓に向けて突き進む。
「まずは要件を聞こうではないか。何が欲しい」
円卓の最奥、一際豪華な椅子に腰掛けた帝国の国王が厳かに言った。
「はっ。全てを奪うつもりはあっても何かを貰うつもりはねぇよ」
セシリアを床に降ろしてからフィアが構える。周囲に控える騎士と魔術師にも緊張が走った。
「考えても見るがいい。我々は同じ国民ではないか。争うのは理に叶わんと思わんか」
「思わんね」
フィアが挑発するかのように笑い声を上げる。王は僅かに不快感を示した後、1度手を叩く。
「そうか。中々面白いプレゼントを考えたのだがね」
そう告げるのと同じくして、背の高い王の椅子の裏側から一人の少女が引っ張り出された。
目は前を向いて笑顔を浮かべているというのにどこか虚ろで、人形のような容姿と相成ってまるで生きている気がしなかった。
だが、少女の姿を見たフィアがあからさまに動揺する。
「フィア、あれって、まさか」
血の気が多いフィアがこの部屋に入った瞬間、王を殺さなかったのは何故か。
帝国の連絡を受けた後、突如としてこの国を攻めようと言い出したのは何故か。
セシリアの中で全てが一つに繋がった気がした。
どうしてフィアが負けたのか。それはフィアにとっては何にも変えがたい大切な人を人質に取られたからだ。
『同じ血筋とは思えないわね』
髪の色はフィアと同じ黒だが、癖のあるフィアと違って真っ直ぐに背を流れている。
浮かべている笑顔は幸せそうにも見えるのに、瞳のせいでどこか空虚だ。それは多分、今なお心が壊れているから。
『手間は省けたけど、どうするつもり』
フィアは自分の行動の根源となる彼女を傷つける行動は取れない。それは制約と言ってもよかった。
王はそんなフィアを見て目論見が功を奏した事を確信し、椅子から立ち上がると少女を引き寄せる。
フィアの顔が怒りに染まったが、攻撃は出来なかった。この距離では彼女を巻き込んでしまう可能性がある。
「人が生活するにはどうしても人に頼る必要がある。助け合いだよ。大事なことだとは思わんか? この娘が見つかったのも、人の営みの結果だ」
帝国はフィアにとって切札となる家族をずっと前から探していた。
完璧に隠匿し、会いにさえ行かない事でフィアから情報が漏れることはなかった。
けれど、人は一人で生きていけない。移住先でも少ないながら人と接しなければならない機会があった。
それが連鎖に連鎖を生み、つい最近、帝国は遂にその居場所を掴んだのだ。
「妹君は中々魅力的なな性格をしているようだな」
フィアのすぐ前にあった椅子が豪快な音と共に吹き飛んだ。瞬間的に魔法を使ったのか、恐ろしいことに壁に突き刺さっている。
「何をした」
「随分愉しませて貰ったよ」
恐ろしい形相で王を睨みつけるがこの期に及んでも手は出せなかった。
王はその結果に満足したのか、今度はセシリアに視線を向ける。
「ようこそセシリア嬢。君の本意ではないかもしれぬが、今しばらくこの国に滞在してもらおう」
くつくつと王や円卓に座る貴族から笑いが漏れた。隣のフィアほどではないにしても、セシリアも不快感を露にする。
「それでは君一人でこちらに来てもらおうか。下手に動かないでくれ。この娘と君自身がどうにかなってしまうからな」
その瞬間、王は自らの勝利を確信した。
セシリアを手元に運んだ後はフィアを殺してしまえば障害はなくなる。
回り道を歩かされはしたが最後にたどり着く場所は同じだった。
「ねぇ、一つ良い話を教えてあげる」
だから、セシリアが何の感情もうかがい知れない無表情で国王を見上げても拒否する事はなかった。
「ぺらぺらと長話するほど死に易い悪役は居ない」
「フィアにとって、私は大切?」
いつの間にかセシリアはフィアの手をしっかり握って、言葉を解さずとも意思疎通が出来る様にしていた。
返答はない。セシリアが植えつけた感情も、本物の妹に対する感情も、フィアにとっては大切な物だった。
出会ったばかりの頃ならいざ知らず、こうして共闘を経た今であれば、セシリアはともかく優の事は嫌いではないと思っている。
フィアにとって今の王に攻撃することは忌避すべき事だ。隣に妹が居るから。
だが王を倒さなければ何も終わらない。フィアは殺されて、結局誰も幸せにならない。
王を倒す手段はあった。けれど、実行する術がセシリアにはなかった。もう魔力が残っていないから。
だから、優は悪意を持ってフィアに告げた。
「使ってくれないのなら、全てが終わった後に妹さんをどうにかする」
魔力が切れた以上、魔法はフィアに使ってもらわなければならない。その為には彼をその気にさせる必要があった。
多分それこそが、セシリアが居る事で変えられる運命なのだろう。
大切な人が大切な人を傷つける。
それを回避するためには大切な人を危険な目に合わせるかもしれなくとも、攻撃せねばならない。
「大丈夫。絶対に失敗しないから」
フィアの心がカチリ、と音を立てて動いた。
ぐらり、と王の身体が揺れる。隣の少女には傷一つなかった。いや、そもそも魔法が使われた形跡さえなかった。
貴族が、壁に並んでいた兵が何が起こったのか正確に把握できず、僅かな混乱をきたす。
それだけで、フィアにとっては十分すぎた。
セシリアを引っつかみ強引に抱えあげると、かつてセシリアが船の中で逃げる際に使った様な、自分に向けて強烈な突風を発生させることで机を隔てた向こう側に飛翔する。
その最中、円卓に座っていた貴族の内、半数近くの首が綺麗に吹き飛んだ。
恐怖に駆られた魔術師が敵味方も忘れて絶叫と共に魔法を放つ。しかし、フィアに届くはずもない。
爆音が不意に収まった時には、東側の壁に並んでいた兵がみな物言わぬ骸へと姿を変えていた。
「一体何を……」
セシリアがフィアに伝えた魔法はかつて船の推進機関を作る為に使った水の煮沸用の術式だ。
今回はこれを任意の空間で起こせるように加工している。
魔法はとは放つものである。
例えば人体の中に異物を生み出して絶命させる事も不可能ではない。
しかしこれを実際に行うとなると相手との距離を正確に計測する必要が出てくるのだ。
常に移動する必要のある戦いの場で、相手の居場所を正確に計測できるはずもない。
そんな事をするなら範囲の広い魔法を使って避けられないように攻撃した方がずっと有効なのだ。
ただし、特定の条件が揃えばその限りではなくなる。
想像の補正によって、居場所の計測を人より高速に行える事。
相手が計測を終えるまで微動だにしない事。
得意げに話し込む王は格好の的に変わる。
脳を直接破壊されたことによって一見何も起こらずとも致死的なダメージを受けたのだ。
「次は誰だ?」
無表情でそう告げるフィアに反抗しようという者は、この場の何処にも居なかった。
「わ、私は君につこうではないか!」
残っていた貴族の一人が慌てて立ち上がると、我も我もと同じ言葉を口にする。
「そうか、じゃあ頼みがある」
「なんなりと!」
今なら這いつくばり靴さえ舐めようという彼らに向かい、簡潔にこう告げた。
「死んでくれ」
直後、残っていた全員の首が転がったのはもはや予測できた未来だっただろう。
この瞬間、帝国はフィアの手に落ちたのだった。
「死にたくないなら働け。外で戦闘を行っている帝国軍に全面降伏を通達して来い」
残っていた騎士と魔術師は新たな王となる人間の命令を拒むような命知らずではなかった。
何よりこの場に残って巻き添えを受けたのではたまらないとばかりに一斉に駆け出す。
誰も居なくなった一室で、セシリアは満足げに、しかしどこか寂しげに、ぽつりと漏らした。
「これで、フィアに船を出してもらって皇国に戻れば何もかも解決だね」
フィアが帝国の国王となれば不可侵条約を結ぶ事も難しくないだろう。
まだ帝国の力は強大だが、皇国に攻められる戦力を蓄えるのには時間が必要になる。
その間に皇国を発展させれば帝国の脅威はそれ程大きくはならないはずだ
だが、それを聞いたフィアは意味深な笑みが浮かべて言った。
「悪いが、お前を帰すわけには行かねぇんだよ」
セシリアの膨大な知識を皇国で振るわれれば、いずれ帝国の力を上回る事くらいフィアにも分かる。
そうなれば皇国はどうするだろうか。1度は攻めてきた帝国を危険視し排除しようという機運が生まれないとも限らない。
国王となったフィアがそれを懸念するのは当然だった。
「元々は帝国に取られて知識を喋られると面倒だから国に返品したかっただけだ。今となってはその危険性もなくなった。確かに俺はお前を傷つけられないだろうよ。けどな、相応の待遇で軟禁するくらいなら出来そうだ」
傷つけられなくとも手元に縛り付けておくことは出来る。
かつてフィアが、妹をそうしたように。愛ゆえの軟禁とも言えるだろう。色々と歪んでいるが。
最後で手の平を返して見せたフィアだったが、セシリアは何故か少しも動じた様子はない。
『そういうと思ってた』
この戦いでフィアが勝った暁に自分が送り返される可能性がないに等しい事くらい、セシリアも想定済みだ。
国のトップとなった人間がみすみす危険人物を送還する理由がない。
だから彼女なりにこうなった時の保険をずっと探していた。そしてそれは、今目の前にある。
フィアの妹が切札になりえるのは何も前国王だけではないのだ。
『妹さんの壊れてしまった心を、私なら治せるわ』
追い詰める側だったはずのフィアはセシリアのたった一言によって、何処までも追い詰められる獲物へと姿を変えた。
『そうね、まずは犬の様に平伏して"わん"とでも言ってもらおうかしら』
フィアの顔が忌々しさで歪む。フィアはセシリアを傷つけられない以上、治療を強要する事ができない。
そして心の治療はフィアにとって一番欲しかった物のはずだ。
『さ、どうするの?』
「この、性悪女……」
地の底から湧き上がる怨嗟に満ちた声だった。もうフィアに浮かんでいる選択肢は1つだけだ。
『私を皇国に無事送り届ける事。皇国との不可侵条約を結ぶ事。そのどちらもを今後永久に守る事。もし破れば、あなたの大切なものは永遠に失われる』
セシリアに治療させるのは爆弾を埋め込まれるのも同じだ。
本当にただ治療だけをするかは怪しいところで、何かのトリガーを仕掛けられる可能性は十分にある。
それでも、彼は頷かずにはいられなかった。
翌日、魔力の回復を待ってからセシリアは約束どおり彼女の治療を行う。
治療と言っても、全てが丸く収まるわけではない。
無理矢理に連れ去れられる前日の記憶までを残し、その後の記憶を全て消去する。
時間をかければ今に至るまで作り上げた記憶で埋める事はできた、長期間の補正は歪みが生まれやすい。
けれど、記憶を消すという事は、本人の意識だけが未来に移動したとも言い換えられる。
身体は成長しているし、周りの人も少しだけ雰囲気を変えてしまっていた。
目を覚ました後、フィアを見て兄だと認識できたのは僥倖だろう。
かつてそうだった様に朗らかな笑顔を取り戻した姿を見てフィアは涙ぐんでいた。
透明だった瞳は、今はちゃんと景色を写している。
フィアとの契約は締結され、履行された。
同時に、もう一つの契約も履行されようとしている。
『魂の分割する方法が見つかりました』
「そっか」
2人にはもう時間が残されていない。
優の概念魔法の代償はセシリアになること。言うなれば精神の完全な融合だ。
2人が常にリンクしていたのは徐々に精神が1つに溶け合わさる過程だった。
セシリアただ一人を助けたいと願った事で自分自身が失われていく。
或いは、セシリアを助ける事で自分自身を殺していく。
完全に魂が融合してしまえば、もう分割する事は出来ない。
だからこそセシリアは事の決着を急いだのだ。場合によっては、事の途中で優を帰すことも考えて。
もしそうなれば、セシリアはこの戦いに負けることを理解しつつも。
時々、どちらがしたかわからない行動があったのはその兆しだったのだろう。
『もう進行は始まってます。本当はもっと色々話したい事がありますけど、時間、ないですね』
その先に行ったらもう戻れない地点の事をポイントオブノーリターンというらしい。それはもう目と鼻の先だった。
いつか見た心象世界の中に優とセシリアの2人が向かい合って立つ。
『しゃがんでください』
言われるがままに優がしゃがむと、セシリアと目線があう。
術式の構成中なのか、足元には複雑怪奇な陣の線がのたうっていた。
不意に、目を瞑ったセシリアが顔を寄せ、優の頬に唇を合わせる。
優は一瞬驚いたが、すぐに双眸を崩してセシリアの髪をやさしく撫でた。
けれどセシリアは不満そうな視線を向けている。それがどう見ても、子ども扱いだったからだ。
『私にはこれしか言えないですけれど』
準備が整い、陣が真白な光を空に放って世界を白へと染め上げていく。心象風景が次第に薄れやがては何もかもが白1色でで塗り潰された。
『本当に、ありがとうございました』
暗転。遠くから聞こえた声に、優は大きく頷いた。




