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果ての世界で  作者: yuki
第三部 帝国編
44/56

目的

「本当に居るとはな」

 聞こえた声は前回の兵士の物ではなかったが顔を上げる気力は残されていなかった。

「おい、生きてるか?」

 目の前で微塵も動かないセシリアを見て、誰かは驚きの中に不安を混ぜた声で尋ねる。それでもセシリアは動かなかった。

 牢獄の鍵が開く音が聞こえ、誰かが中へと入ってくる。

 その手が顔に近づいた瞬間、セシリアは拒絶を示すために噛み付こうと顎を開いた。

 だが寸でのところで手は引っ込まれ虚しく歯の噛み合わさる音が鳴る。

「あぶねぇな!」

 身体を動かしたことで手首から鈍い痛みが走り、呻き声が一つ漏れる。

「火薬の製法について話したか?」

「誰が、教えるものですか」

 壮絶な覚悟が篭った一言に相手は口笛さえ鳴らしてみせた。

「4日って聞いた時はかなり焦ったってのに。大人でも2日耐えりゃ相当なもんだ」

 目の前の誰かの物言いは随分と不思議だった。まるで話していたらまずかったとでも言いたげだ。

 どんな人物なのか気になってゆっくりと顔を上げれば、見覚えのある黒髪が見えた。

「折角逃がしてやったってのに掴まりやがって、馬鹿が」

 見覚えがあるどころではない。そこに立っていたのはフィア本人だった。

「酷い声だな。とりあえず飲めよ」

 そう言って水の入ったコップを差し出すが、セシリアは無言でそれを拒絶する。

 頭を振ると頬にコップが当って手から滑り落ち、パシャリという水音が牢獄に響く。

 睨みつけるセシリアを前に、フィアはやれやれとばかりに鍵を取り出すと手首と足についている枷を外していった。

 支えがなくなったセシリアの身体が床に崩れ落ちる。

「普通は、支えるところですよね」

「いや、だって支えたら俺を噛むだろ?」

 お望みどおり噛み付いてやろうと力を入れるが身体は芋虫よりも鈍く微かに動くだけだった。

 絶好の機会だというのに逃げられる状態ではない。

「とりあえず話を聞け。俺はお前をここから連れ出す。だからひとまず噛み付くのはナシだ」

「なんですか、それ。ストックホルム症候群なら間に合ってます。私は話したりしないですから」

「必要ねぇよ。事情は後で話すが、帝国にお前を渡すわけにはいかねぇんだ。最善はさっさとお前を殺すべきなんだろうけどな、性悪女のせいでそれも出来なくなった」

 言うが早いがフィアはセシリアを抱きかかえると牢獄から外に出る。

「フィア様、急いでください。準備は出来ています!」

 階段の上から反響した女性と思われる声が聞こえる。フィアは大声で返事を返すと階段を駆け上がった。

 牢獄の詰め所だろうか。重厚な入り口を潜り抜けた先には幾人もの兵士が床に転がっている。

 その全てが赤黒い液体をこれでもかというほど床、壁、天井にまでぶちまけて凄惨たる光景を作り出していた。

 目の前の状況がまるで信じられなくて、セシリアは短い悲鳴と共に手近に居たフィアに思わずすがりつく。

「はっ、多少は可愛い真似できんじゃねぇか」

 鼻で笑うフィアを尻目に、セシリアは目を瞑って光景を遮断した。だが生臭い鉄の匂いだけはどうしたって消すことが出来ない。

 詰め所を抜けるとフィアは何かを思いついたのか、突然廊下の途中にあった一室へ入るとセシリアをベッドの上に転がしてクローゼットを漁り始める。

 先頭を歩いていた女性が一体何事かと引き返しフィアに声をかければ、彼はクローゼットの中から大きなふかふかのガウンを幾つか取り出して女性へと放りつつ言った。

「先に言ってろ、すぐに追いつく」

 女性は指示を受けるなり大きく頷くと部屋を出て行く。

 残されたセシリアが訝しげにフィアを見ると手元に残していたガウンを片手にセシリアへ近づき魔法を放った。

 咄嗟に身体を硬直させるが、特に痛みも衝撃も襲ってこない。

 代わりに着ていたネグリジェが鋭利な刃物で断ち切られたかのようにはらりと落ちた。

「ちょ、何をっ」

 顔を赤くして逃げようとするセシリアに対し、フィアは面倒そうに押さえてから持っていたガウンを手際よく着せていく。

「一人前に照れてんじゃねぇよ。誰がお前みたいなガキ相手に盛るか。皇国と違ってこっちの夜は冷えるんだ、湿った服で外に出て風邪でも引かれて野垂たれ死なれたらいい迷惑なんだよ」

「だからって切る事はないでしょ」

「手も足も殆ど動かせない奴が脱げるってのか? 時間がねえんだ、どうせそれはもうダメなんだ、こっちの方が早ぇだろ」

 完膚なきまでの正論に返す言葉もなかったが正論と感情論は別次元だ。

 恥ずかしさと憎らしさを半分ずつ織り交ぜた涙目で睨みつけるが気にした様子はない。

「そもそもこちとら妹を着替えさせるので慣れてんだよ」

 ガウンは大人用のもので、小さなセシリアには全くサイズが合わなかったがとても暖かく、濡れていた服とは大違いだ。

 着替えさせ終わるなり、フィアは再びセシリアを抱きかかえてひた走る。

 どこへ向かっているのかは分からなかったが外に出れるならそれに越したことはないと暴れるような真似もしなかった。

「居たぞ! こっちだ!」

 前方から2人の兵士が飛び出してきてフィアを指差すなり大声を上げた。

 フィアは小さく舌打ちするが迂回するつもりはないようで真正面から突っ込む。

 兵士は魔法も使えるらしい。炎の矢が数発、フィア目掛けて打ち出されるが特に気にすることもなく走り続ける。

 それだけで数瞬後にはフィアを貫くではずであった矢は完全に消滅していた。

 目の前で起こった不可解な現象によって兵士の反応が遅れる。

 致命的な隙に対し、フィアは想像による補正を使い幾つかの短い呪文を唱えるだけで躊躇うこともなく敵を絶命させた。

 魔法によって敵を殺した時も、血飛沫を撒き散らして痙攣する敵の脇を走り抜ける時も、まるで害虫を殺すが如く特別な感情は何一つ抱いていない。

 フィアほどの実力者であれば殺さず無力化することは簡単に出来たはずだ。

「どうして」

「黙ってろ」

 殺したのか、と聞くより先に苛立たしげなフィアの言葉が遮った。

「敵は全て殺す」

 思わず背筋に寒気が走るほどの敵意と殺意だった。憎しみと表現してもいいかもしれない。

 砦から飛び出したフィアは夜の暗闇の中、裏手に止めてあった馬車に近づくと開いていたドアに飛び乗る。

 馬車の周りにも幾人かの死体が転がっていて、夥しい量の血によって地面が濡れていた。

 御者台に乗って待ち構えていた女性はフィアが乗った事を確認するなり馬車を走らせる。追っ手はいなかった。

 

 揺れる馬車の中で、フィアがコップに水を入れるとセシリアに差し出した。

 今度は受け取ろうと手を伸ばすのだが、ガウンに埋もれた腕には殆ど力が入らず裾さえ持ち上がらない。

 それを見て取ったフィアは何も言わずにコップを唇に持っていくと僅かに傾ける。

 久しぶりに飲んだ水はあまりにも濃くて数口飲んだだけでむせ返るほどだった。

「事情が知りたきゃ話すが目的地まではまだまだある。疲れてるなら一度寝てからでもいいが、どうする?」

 フィアが女性に渡した複数のガウンは横になったセシリアの下に敷かれてベッドのように扱われている。

 牢獄と比べれば天国のような環境だった。揺れる馬車とはいえ、意識していなければ一瞬で眠りに落ちてしまいそうだった。

「事情を聞きます」

 けれど、セシリアは睡魔の誘惑をどうにか振り払ってフィアの話を聞くことに決めていた。

 場合によっては馬車から飛び降りてでも逃げなければならないかもしれないと覚悟を決めて。


「帝国を滅ぼす必要が出てきた」

 酷く真面目なフィアの一言がセシリアにはさっぱり分からなかった。

 自分の国を滅ぼしたいなどと考える人間が居るのだろうか。

 疑い半分、興味半分の視線を投げかけるセシリアに向けてフィアは淡々とした様子で話し始めた。

「順を追って話す。お前は俺が奴隷制度を撤廃する為に動いていたのは知ってるだろ。俺が帝国に力を貸してるのは条件を飲む代わりに海洋国家を統合すると契約したからだ。奴隷に関する全ての事柄は俺に決定権があるし、実際今まではそうやって回してきた。だがな、奴隷を解放するってのは難しいんだよ」

 それはセシリアにも良く分かっている。

 奴隷は死を前提に飼い殺される存在だ。給料など要らず、食事も粗末で死んだら交換するだけで済む。

 格安の使い捨ての労働力があってこそ農業も工業も成り立っているといって良い。

 産業の基本は原材料だ。鉄を作るにも鉄鉱石が必要だし、石炭も居る。

 原材料の採取は単純作業でありながら需要は高く、かつ出来る限り安く手に入れたいと考えるのが人間だ。

 今の物価は奴隷によって支えられているだけで、突然使えなくなれば物価は跳ね上がり沢山の人が路頭に迷うことになる。

 今まであった制度を変えるのはどうしたって痛みが伴い、場合によってはその痛みで国が滅ぶのだ。

 

「だから俺は解放した奴隷を幾つかの地域にまとめてひとまず食料の確保をすることにした」

 きちんと給料も出すし、休憩もつける。働く時間は無理のないもので、望めば教育も受けられる。

 解放された奴隷達は半信半疑だったが他に行く当てもなく、フィアに従い生活を始めた。

「作物によって地域で育ちやすさが変わるのは知ってるだろ? だからその地域にあった作物を集中的に作らせたんだよ」

 フィアの目論みは成功して、上質な作物が大量に取れるようになった。

「今まで海洋国家はばらばらの敵国同士でろくに貿易もしてなかったからな。精密な海図を作って定期船を組んで物流網を作った。地域ごとで作った作物を周辺で融通しあえば全体的の平均は押し上げられる」

 A国には同じ面積で100しか作れない作物Aと120作れる作物Bがある。

 B国には同じ面積で120作れる作物Aと100しか作れない作物Bがある。

 どちらの作物も必要だからと両方作るより、A国は作物Bを、B国は作物Aを作って融通しあった方が全体的な量は増えるのだ。

 一つの作物の理解が深まることによって不備の際に臨機応変に対応できるし、品種改良の研究も進む。


 フィアの目論みは見事に功を奏して海洋国家の食物自給率は劇的に跳ね上がった。

 海上の物流網は食物以外にもありとあらゆる分野で驚異的な利益を生み出すことになる。

 それが奴隷解放の大きな助けとなったことは間違いない。

 その他にも港の整備、街道の整備、兵として訓練を受けさせるなど、フィアによって保護された元奴隷達の躍進は類を見ない。

 ……が、その裏、フィアによる自由貿易で他国の競争力に負け潰れてしまった商会は数多い。

 奴隷を使って作物を作らせていた貴族や、特に鉱山の管理をしていた貴族の没落も枚挙に暇がない。

 自由貿易は今までにない、法や立場に捕らわれない完全なる弱肉強食の世界だった。

 胡坐をかいていた貴族が競争に勝てるはずがないし、フィアもそれでいいと思っていた。

 あの日、まだ幼い貴族に命を狙われ、その貴族が目の前でかつて助けた元奴隷の護衛に刺し殺されるまでは。

 

「この世界全てを掌握して管理する必要がある」

 それは神になると言う戯言にも等しい妄言。だがフィアはかつての経験でこの妄言を何に換えても目指そうとするほど壊れた。

 人は手の届く範囲を知っている。本気で空に浮かぶ星を掴もうとはしないし、水面に揺れる月を取ろうとも思わない。

 セシリアだって皇国に奴隷制度がある事は知っている。それを悲しいと感じたこともある。

 でも優の世界にだって奴隷制度は存在した。今だって人身売買は残っている。

 これからこの世界は数百年の時間をかけて進歩を繰り返し奴隷制度を少しずつなくしていくのだ。

 人は急に進化できない。世界を取り巻く空気は急には変わらない。

 間違いを見つけ、正していくだけの強さが人にはあるけれど、それにはどうしても時間が必要なのだ。


 それに奴隷を突然解放する、なんて事をすれば最悪国が滅びる可能性だってある。

 海洋国家は多国間との貿易という手段が残されていた為に、どうにかダメージを吸収できたに過ぎない。

 もし皇国で同じ事をすれば解放された奴隷は町に溢れ、日々の生活の為に誰かを襲うか、同じような条件の元、過酷な労働に生きるしかない。

 死ぬと分かっている仕事をするより誰かを襲って生き延びようとする奴隷は増えるだろう。

 彼等の中にも貴族や民を恨む心はある。群れた結果、幾つもの野党集団が生まれかねないのだ。

 故に好条件下であったとしても、この事態を未然に防いで見せたフィアの功績は偉大の一言に尽きる。

 同時に、セシリアにとってフィアはどこまで行っても敵であることを再認識させられた。

 フィアは傷を伴ったとしても即効性のある革命を、セシリアは最悪の事態を防ぐためにも時間による正当な進化を、それぞれ望んでいるのだから。

 

「けど奴等はそれで満足するどころか、皇国を狙うと言い始めた。

 ぶっちゃけちまえば俺は皇国なんぞに然程興味なんかなかったんだよ。

 それより先に国内の基盤を固める方がずっと大切だ。

 ……まぁ、皇国を手中に収めて貿易経路を確保できりゃ利益は出る。

 それに奴隷制度をなくすのも俺の本望ではあるからな、止めはしなかったが関わりもしなかった。それが今までの流れだ」

 そこで一旦、フィアは区切りを入れる。コップに水を入れて一気に飲み干すとセシリアに向けて仕草だけで要るかを尋ねる。

 先ほどので十分だと首を振ると続きを語りだした。

 

「ところがこの間の大艦隊の全滅で事態が傾いた。

 負けることは考えていなかったが、もし負けたとしても3割の損失を出した時点で引き返す予定だった。

 それが蓋を開けてみりゃ全滅……4万の兵と100を超える艦隊の全滅は帝国にとっちゃ悪夢だったよ。

 流石の俺も大爆笑だ。貴族どもはどうでもいいが、あの船には俺が手塩にかけて育てた連中も乗ってやがった。

 圧勝だとどこかで決め付けちまった自分を笑うしかなかったね。

 本当は俺も乗るべきだったんだ。そうすりゃ全員でなくとも、故郷の土を踏めた奴は居ただろうさ」

 自嘲気味に笑う彼の顔には後悔が色濃く浮かんでいた。

 フィアが乗っていたら海戦でセシリアが勝てたとは限らないだろう。今更になって背筋に冷たいものが流れた。

 

「あの大艦隊には、商船を流用してるのもかなりあった」

 海戦で大型の商船を利用すること自体はよくある。あの大艦隊の一部も元は商船で、多国間の貿易に参加していた。

 それが全滅してしまったことで貿易に使う船の量が足りなくなり、商品が運べなくなってしまった。

 交換を前提で作物を作っていたのに、肝心の作物が運べないのではお手上げだ。

 築いてきた制度そのものが根底から崩壊してしまったのだ。

 

「船を作るにはどうしたって時間がかかる。貿易の復旧は少なく見積もっても2年。その間、ちっとばかし苦労するがどうにか乗り越えられる状況ではあった」

 今まで特化して育ててきた作物の情報を共有し、暫くの間は収穫量が落ちても食べていける分を調達する。

「だが阿呆どもはそのちょっとの苦労も嫌だと喚きやがる。中には奴隷制度の復活を喚きたてる奴も出てきて無視できない勢力になりやがった。本当はあの時点で奴等を皆殺しにしときゃ良かったって話だ。いつの間にか俺の思考も国の枠組みに嵌っちまってたんだな、笑えねぇ」

 それを押さえ込む為に、フィアは自分の影響力をもう一度示す必要があり、皇国に乗り込んだ。

「んで負けた。おまけに逃がしてやったお前は攫われて帝国は調子付くわ、俺は厄介者扱いに格下がりするわ散々だ。万が一にも喋る様な玉じゃねぇとは思ってたが、火薬のことを帝国に知られるのは面倒だからな、念の為に連れ出してやったんだ、感謝しやがれ」

「帝国と対立って……正気ですか」

 個人で国相手に喧嘩を売るなどまともな人間の思考じゃない。

 だがそう言われるとセシリアを連れ出した理由も納得できた。

 まじまじとフィアを見るセシリアに向けて、フィアは大胆不敵に笑う。

「俺はこの国の王になることに決めたんだよ」

 

「フィア様、お言葉ですがもう少し素直になられた方が宜しいかと。我々に珍しくも無理を言って昼夜を問わず必死に探索していたではないですか」

 そこに突然、御者台に乗る女性の声が聞こえた。

「うるせぇ黙ってろ。お前は少しくらい空気を読みやがれ。探したのは喋られたら厄介だからだ。それ以上の理由はねぇ」

 けれどその文句はどこか棘がなくて、二人の間には相応の絆があることが伺える。

「そうでしたか。てっきり私は、フィア様はそのくらいの年頃の女性が好みなのかと」

「んな訳あるかっ!」

 ガタンと音を立てて立ち上がったフィアが慌てたように否定すると、御者台からは笑い声が聞こえてきた。

 どことなく和やかな雰囲気が流れたからだろうか、セシリアが唐突に先ほどのお返しとばかりに告げる。

「そういえばさっき無理やり服を破り捨てられました。それに柔肌を這い回るおぞましい指の感覚も覚えてます」

 先ほどと同じ立ち上がる物音が、今度は御者台から聞こえる。

 小さな木の扉が音もなく開かれると蔑むような目線がフィアを貫いた。

「ちょっと待て、濡れた服を着替えさせただけで感謝こそされどそこまで言われる覚えはねぇぞ」

 弁明も虚しく馬車が静かに動きを止める。

 御者台から降りた女性は馬車の部屋内に入るなりフィアを掴むと無言の笑みで外に放り投げてしまった。

 しっかり扉を閉めてからセシリアの羽織っているガウンを少しだけはだけ、白い肌しか見えない事を確認すると腰に挿した剣の柄を握ってやはり無言で出て行く。

 くぐもった声のやりとりが暫くの間外から聞こえると女性だけが戻ってきてセシリアの隣に座った。

「何かされていませんか?」

 割と本気で心配してくる女性に、セシリアは真顔で答える。

「身体は狙われました」

「狙ったのは知識だ! さっきから勝手なことばっか言ってんじゃねぇ! お前も信じこんでんじゃねぇよ!」

 どうやらフィアは御者台に移ったらしい。開いた窓から叫ぶが無言の女性によって窓はピシャリと閉められる。

 窓の向こうからどことなく漂う哀愁が少しだけ可哀想に感じてこのくらいにしておくかと自重した。

「別に何もされていないですから」

「一応は分かっているつもりです。ですが女の私が傍に居ながら着替えを任せないなど、男としては言語道断。例え貴方に妹さんの片鱗を見たとしても。……彼はああですが、普段はここまで派手に一般兵を殺したりしません。貴女への仕打ちがよほど腹に据えかねたようですね。一体貴女は何者なんですか?」

 女性はセシリアを知らないようだった。フィアが何も話していないのだろう。

 何者かといわれると答えに窮する。自分の立場を考えれば無闇に素性は明かせない。

 幸い女性はセシリアの心中を察したのか、それ以上深く尋ねることはなく、少し寝たほうがいいと勧めるに留めた。

 眠りやすいように天井に付けられていたランプの明かりが消され暗闇が訪れると、数分もしないで安らかな寝息が聞こえ始める。

「しかし、この少女が本当にフィア様のような知識を有しているのですか?」

 寝入ったセシリアの、少し汚れてしまっている髪を撫でながら幾分トーンの落とした声で聞く。

 その表情はとても優しげだった。

「ああ。つーか俺よりよっぽどやばいね。一体前世は何者だったんだか」

 馬車を走らせながらフィアが答える。

「ではこれで状況は大きく変わると?」

「敵にとっちゃ切り札を掻っ攫われた状況だからな。交渉は進むかもしれねぇ。けどいざ戦闘になったら厳しいのは同じだ」

「この少女の知識があってもですか?」

「そいつが俺達を恨むことはあっても、協力することはねぇよ」

 女性はどういうことか尋ねたが、フィアはそれ以上答えない。

 セシリアが皇国の貴族で、あの大艦隊殲滅の首謀者だという事実は一握りの人間しか知らない。

 あの海戦で身内や友人を失った人間は数多い。だからこそフィアは何も話さないでいた。

 元を正せば諦めの悪い王国の生き残りを煽ったことから始まった戦争だ。

 責められるとすればセシリアではなく帝国なのだが人の感情というものはそれほど論理的になれない。


(あの性悪女……何が魂を弄らせてもらうだ)

 フィアは悪態をつかずにはいられなかった。

 過去の記憶を思い出させられたのは魔法の本来の目的ではない。

 記憶の中の妹とセシリアを重ね合わせるように刷り込むことが本当の目的だ。

 今のフィアにはセシリアを傷つけることはもとより、傷つけられることを看過することも出来ない。

 自分自身の一番大切な記憶、何をしても守るべき存在として認識させられているのだ。

 幾ら妹の着替えに慣れてるといえども、殆ど面識のない相手を同意もなく勝手に着替えさせるなど、普段のフィアからすれば"ありえない"。

 だがあの時は何の疑問もなく、まるでいつかの記憶の再現のようにセシリアを慣れた手つきで着替えさせてしまった。

 同時にセシリアから情報を引き出そうとしていた貴族に対し、かつて妹が壊された時に近い憎悪が全身を滾った。結果があの凄惨たる光景だ。

 砦の中で出会った兵士は抵抗する者は勿論のこと、逃げる者も立ち尽くす者も降伏する者も全て殺し尽くした。

 あの選択が正解か、と言えば否だ。そんな事はフィアにも良くわかっている。

 兵士の殆どは雇われただけで好き好んで小さな少女を拷問にかけたわけではあるまい。

 それを理解した上で自分の感情を止められなかった。今にしてもセシリアが無事だったことに安堵さえしている。

 何より兵を殺し尽くしたことを一切後悔していない。

 

 奴隷を助けたいのならばセシリアを痛めつけてでも情報を引き出すべきだ。

 だがフィアにとって奴隷を助けるという目標は妹を助けられなかった後悔から来ている。

 セシリアと妹の認識が重なりかけている今、優先度が高いのは奴隷を助けることよりセシリアを守ること。

 本来のセシリアはそれを全て計算した上でこの魔法を使っていたのだ。

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