大きな始まり
広い部屋の中で十数人の男たちが等間隔に並べられた円卓に顔を揃えていた。
その最奥、2メートルを越える背もたれと数々のレリーフを施され漆によって光沢を放つ椅子に座った壮年の男に向けて、丁度9時方向に座っている歳若い男がしきりにまくし立てる。
「皇帝陛下、あの気狂いにまた頼るおつもりですか? あやつは悪魔……必ずやこの国に破滅をもたらします」
皇国より北の彼方、海を越えた先にあるグラシエール帝国では国内の諸々の頭を集めての重大な会議が行われていた。
会議の場をセッティングしたのは他でもない。先ほどから皇帝に熱心に話しかけている男だ。
彼の名はガリオン。この帝国において異例の若さで海軍の最高司令官まで上り詰めた一目置かれる大貴族だ。
帝国の艦隊は38隻の大型ガレオン船からなる戦艦と92隻の護衛・補給・偵察を行う様々な規模のフリゲート艦からできている。
戦艦は主に魔術師部隊が多数搭乗した主に攻撃を行うための艦で装甲も頑丈に作られている。
フリゲート艦は船の種類によるが、積載量に特化したキャラック船は主に補給を、小型で高速かつ小回りの効くキャラベル船は周囲の探索や哨戒を、戦艦よりは小さい物の船としては大型のガレオン船は護衛や臨機応変に行動するための巡洋艦として行動する。
合計130隻もの艦隊を有するのは海を越えた皇国や商国などを含めても海洋国家である帝国しかいない。
帝国にしてもこれほど多くの艦隊を形成できたのは僅か2年でばらばらだった諸国が急速に一つへと統合されたからだ。
戦える船はこうして一箇所に集められ帝国は未曾有の大艦隊を作り上げることに成功した。もはや海上において彼等に並ぶものなどどこにも居ない。
「皇国の戦力は周辺国家を合わせたとしても僅かに戦艦22隻、巡洋艦級のフリゲートは36隻。海戦の錬度は我が帝国と比べて桶に入って喜んでいる赤子と同じです。艦隊を出動せしめれば必ずや制海権を握れます」
ガリオンが先刻から皇帝に説いていたのは皇国及び商国の大陸への侵攻だ。
既に周辺の国々を制圧しきってしまった彼等が狙ったのは海の向こうに広がる大陸だった。
彼はその先陣を切る名誉を皇帝から受けようと必死になっている。まだ歳若いガリオンは地位を更に固めるため、或いはその上に手を伸ばす為に躍起になっていた。
本来であれば彼ほどの人材が必死になる理由はない。まして彼は海軍の最高司令官。座して待っているだけでも命令が下るのは必然といえる。
しかし、確固たる自信と必然は今から二年ほど前に唐突に終わりを告げた。
それもこれも全てはあの気狂いのせいだと自らの唇を強くかみ締める。
そこへ突然、酷く乱暴に扉を開けた誰かがずかずかと入り込んできて皇帝のすぐ傍の机の上にどかりと腰掛けた。
余りにも傍若無人な振る舞いに反して、その場の誰もが一声すら上げていない。隣の皇帝もまたかとばかりに溜息をつくだけで彼に向かって怒ろうという気は微塵もなかった。
「おいおいなんだ? 折角こんな辛気臭ぇ場に来てやったってのに歓迎の言葉もなしかよ」
耳障りな甲高い笑い声が響いた。傍若無人なのは振る舞いだけではなく、その口調もだ。何人かがあからさまに額を怒らせるが決して言葉にはしない。
その間にも男の嘲笑は続く。彼等は一様にその言葉を耐え続けることしかできなかった。
フィア。それがこの傍若無人の気狂いの名前だ。過去の経歴に関しては一切不明。しかし自らを神の使わした天使だと嘯き皇帝へと近づいた。
勿論そんな戯言を皇帝が信じるはずもない。それならばと、彼は長きに渡り細分化されてきた周辺国家を僅か2年という短い歳月で殲滅してみせた。
滅ぼされた国の数は2桁に登る。ほぼ月に1つか、多い時は3つ以上の国をたった一人の男と貸し出した魔術師百数十名でやってのけたことがどれ程異常なことか。
神の知識がなせる業だと笑う彼を、もはや皇帝とて無視するわけにはいかなくなった。
彼の神の知識とやらはそれだけに留まらない。作物の育成方法、考えたこともなかった便利な道具を次々と発案し国は大きく発展した。
天使と名乗る気狂いは言う。すべきことはこの世界そのものの統一だと。俺さえいればこんな世界を統一することなど容易い事だと。
その甘言によって帝国が定めた次のターゲットが皇国、商国を初めとする複数の国家が身を寄せる南大陸だった。
ガリオンはこの気狂いが気に入らなかった。兼ねてより若き天才ともてはやされた彼より更に若い筈なのに、神より与えられた知識とやらでとてつもない功績を次々と打ち立てられる。
まるでせせら笑うかのように離れていく距離が、彼にはどうしても許せなかった。
「次の皇国の侵攻、ガリオン"君"がやりたいんだっけなぁ」
フィアの目線がガリオンへと向けられた。その瞳に宿っているのは明らかな侮蔑と嘲笑だ。けれど彼はぐっと堪える。少なくとも立場上、フィアとガリオンは同等ではない。公の場で彼に激昂すれば恥をかくのはガリオンだった。
フィアもそれを分かっていながらぷるぷると耐え忍んでいる彼の姿を笑う。
「まぁいいんじゃないか? 俺は俺でやることもある。それに長い航海なんざごめんだね。しっかりやってくれよ、ガリオン"君"」
あひゃひゃひゃと、気違いじみた笑い声が室内に木霊する。
皇帝はその声を聞いてからようやくガリオンに命令を下した。
「セシリア・ノーティスのこの度の功績を称え、以後の辺境伯としての任を正式に任命する」
疎らながらも彼女に対して暖かな拍手が贈られた。
それはフィーリルに常駐していた先遣隊だったり、彼女の活躍を知った貴族だったりと様々だ。
ただそれでも半数に近い貴族は苦虫を噛み潰したような表情で王の言葉を聴いていた。
今回行われたのはセシリアに対しての正式な辺境伯への着任式だ。30の兵力で2000もの敵軍を撃退した事のある領主などこの国を探しても見つからないだろう。
例えそれが偶然にしろ奇跡にしろ残した功績が霞むことはない。
ましてや、その方法が誰も考えなかった武器の強化による単体火力の向上の賜物となれば反対できるものは誰一人としていなかった。
もしセシリアが辺境伯にふさわしくないと言えば発言者の功績が問われることになるからだ。
そういう君は彼女より功績を残しているのかと聞かれれば肩を震わせて俯くしかない。
寧ろ未曾有の功績に対して与えられた爵位が辺境伯という事のほうが驚きだろう。彼女の功績からしてみれば、首都を含む最重要区画の防衛を一任されたとしても誰も反論できない。
今まで任されていた貴族は晴れてお払い箱となるだろう。
しかしセシリアにとって守りたい場所は時間がゆっくりと流れているフィーリルだけだ。
ただ、セシリアには一つ懸念が生まれている。
覚悟していたとはいえ、火薬や大砲といった存在が王を含め周囲の貴族にも知れ渡ったことは大きい。
地雷の存在に関しては全てを隠し通したがいつ漏れたとしてもおかしくはない。
いかにしてフィーリルを守ったかについてしつこく聞かれることは当初から想定していた。
口で説明したところで信じるはずがないのも分かりきっている。結局実物を持って見せるのが手っ取り早い。
王宮の中庭にある芝生の綺麗な一面に小型の爆弾を仕掛けてから導火線に火をつけて退避する。
数十秒後、綺麗な芝生が生えそろっていた地面は無残にも掘り返され、周辺に土が飛び散っていた。
然程大きなものを持ってきたわけではなかったが柔らかい地面という条件もあって思ったよりも大きな凹みが出来上がっている。
その威力を前に、どれ程のものかと経過を観察していた貴族の誰もが目を疑っていた。
貴族がこぞって製法を知りたがったのは言うまでもない。
彼等の中にはお互いを殺したいほど恨んでいる輩もいるだろう。相手よりなんとしても先に手に入れなければという思惑が丸見えだった。
そんな貴族に持たせて反乱でも起こされればその被害がどれ程の規模になるか分かったものではない。
ひとまず製法については国預かりという結論に落ち着いたのは不幸中の幸いと言ってもいいだろう。
セシリアが作成している火薬についてもこれ以上の生産についてはストップがかかった。
王国の難を逃れたとしてもまだフィーリルは不安定の土地だ。防衛力として止める訳には行かなかったが国の意向も強い。
結局国軍を停止期間中借り入れることを条件にどうにか話が纏まった。
ここまでが表上の謁見だった。
裏側の謁見が行われたのは広い執務室だった。
上質な革張りのソファーへ向かい合うようにセシリアと王が腰を下ろし、セシリアの隣にはシスティアが、ソファーの後ろではロウェルが立って待機している。
王の執務室という割には殺風景といえる部屋だった。白く塗られた壁面には絵の一つもかけられてはおらず、真紅の絨毯には刺繍一つつけられてはいない。
机には乱雑と書類が積み重ねられ、そこかしこにある本棚にはみっちりと紙束が詰まっていた。
「は、い?」
セシリアが敬語さえも忘れて聞き返したが、王はそんな事に少しも気にかけていない。
内密に話があると言われて何事だろうかと頭を悩ませていたセシリアだったが、王から告げられた言葉はそんな悩みを軽々しく吹き飛ばすくらいの衝撃を持っていた。
―国が滅びるかもしれない―
王ともあろう者がそんな弱音を漏らしたのだ。思わず我を忘れてしまったのも無理はない。
詳しく話すといって彼は机の上から幾つかの書類を手に取ると大理石で作られたテーブルの上に広げて見せた。
「王国を裏から扇動していたのはグラシエール帝国だった。皇国と商国を疲弊させることができればこの大陸を占領した暁に自治を任せても構わないと煽ったようだな」
セシリアもグラシエール帝国という名前は聞いた事がある。
広げられた地図のうち、南に大きく広がっている大陸が皇国や商国、それ以外にも幾つかの国が軒を連ねる南方大陸と呼ばれる地域だ。
その北方に位置する無数の島で形成された海洋国家と呼ばれる地域の中に釣鐘を逆さにしたような、一際大きい島が存在している。これがグラシエール帝国だ。
島の大きさは皇国と比べると1/5もなく、どう贔屓目に見ても海を越えて攻め入れるほどの戦力があるとセシリアには思えなかった。
「その国はつい最近、全地域内の統一が終わったらしい」
王の言葉に再び驚く。この地域に国が幾つあるのかは詳しく分かっていない。それを取りまとめようとする人すらいないし、海を隔てるというだけで情報量はぐっと少なくなるからだ。
だが有名な国は幾つかある。それらが手を取り合ったということなのだろうか?
「話によるとたった一人のフィアという男によって幾つもの国が滅ぼされ帝国の管理下に置かれたと聞く。予め戦争を仕掛けることを予告し、実際にその日に攻撃を行い、攻撃を受けた都市は一日も持たず壊滅したと聞く。中には予告が来た時点で降伏を宣言した国もあるそうだ」
とても信じられるような内容ではなかった。この世界で都市さえ攻撃できる大規模な魔法といえば複合魔法しか知らない。
彼もまた複合魔法の使い手か、或いは魔法の新しい利用方法に気付いたのかもしれない。
「帝国が侵略行為を活発化させていたことは忍ばせていた諜報員から前もって聞いていたが……まさか海を渡ったこの大陸にまで手を伸ばすとは思ってもいなかった」
それはそうだろうとセシリアも思う。この時代において海を渡るという行為は危険を伴うのだ。
この時代の船の動力は帆だ。帆船はどうしたって嵐に弱く、天候によって速度も左右される。
下手に無風地帯に突っ込んでしまうとその場から動けなくなり食料が底を尽きる事だって考えられる。
軍艦で魔術師が多数搭乗していれば水の魔法や風の魔法によって帆船を動かすこともできるが、それだって魔力の消費が荒い。
海を渡って敵を攻めるというのは待ち構えていれば良い大陸側のほうが圧倒的に有利だ。
「だが奴等も馬鹿ではない。この国の貿易が主に川や海を使っていることは知っているな?」
船の方が陸路より圧倒的に運搬が早くコストもかからない。商国最大の拠点が港になっているのはその為だ。
「海上封鎖を行われた場合、大陸全土に混乱が起こるだろう。なにより帝国に勝る艦隊を我々は持っていないのだ」
帝国は元から大陸に手を出すつもりなどなかった。
船で輸送できる人員には当然限りがある。大陸全土を相手にして勝てるとは帝国だって思っていない。
だからこその海上封鎖だ。こちらの内陸には深い渓谷や森があり、街道だって完全に整備されているとはいえない。
船を使わなければ商国は商売が立ち行かなくなるし、商国から食糧を買っている周辺諸国は再び飢餓に怯える生活に逆戻りだ。
皇国だけは海上封鎖が行われても内陸に流れる川を使って物流を補うことはできるが、そんな周辺諸国に帝国が皇国を滅ぼしたら手を結ぼう等という甘言を囁いた場合、どう転ぶかは火を見るより明らか。
大陸全土を敵に回して防衛できるほどの力が皇国にあるわけではない。
元々海洋国家として海を舞台に発達していった帝国の海軍と、陸を舞台に発達していった皇国の海軍では船自体の作りも海戦の錬度も著しく劣る。
手作業で帆の展開や収納、場合によっては修理をひっきりなしにこなすためには相当の訓練が必要なのだ。
しかし皇国の主力部隊は陸軍。海軍は時々出現する規模の小さな海賊相手に圧倒的な戦力でもって磨り潰すだけで実戦経験も乏しい。
まして、戦える船の数ですら負けている皇国に海戦での勝ち目などあろう筈もなかった。
「これが陸であればどうとでもなるのだが……」
情報では130にも及ぶ大艦隊だ。乗員数は4万を越えるだろう。それだけの戦力と拮抗できる部隊を全ての港に配置するなど現実的ではない。
弱い港をこぞって襲えば物資の補給もされてしまう。封鎖が長期になるのは簡単に予想できる。
かといって全ての港の機能を閉鎖すれば物資が滞り大陸全土に混乱が生じる。陸路でこれまで通りの物流を確保するのはどう計算しても不可能だった。
「参考で構わん。どうにかこの状況を打開できないものか、知恵を借りたいのだ。好きに言ってくれ」
深々と頭を下げる王にセシリアは言葉を失っていた。
つまるところ、戦争はまだ終わっていないどころか、今度の相手は滅びた国の残党などではなく、それこそ一大陸に匹敵する大帝国ということになる。
振り返ればロウェルもシスティアもまた身を硬直させていた。
セシリアにとって既に戦争は終わったはずのものだった。苦労して新兵器を作り上げ、どうにかすれすれの所を潜り抜けた筈なのだから。
「もし私が何も案がないと言えば、王はどうするのですか?」
恐る恐るといった様子でセシリアが尋ねる。
「この大陸の全軍と全艦隊を持って迎撃に出る。だが、まず勝ち目はないだろう」
船はどうしたって急造できない。戦艦となれば1艦作るだけでも年単位の時間をかけて行われるのだ。
とはいえ帝国もすぐに皇国に向けて出撃はできないだろうし、たどり着くまでの航行時間を考えればまだ時間はある。
しかしこの脅威はいつか必ず皇国を襲う。悠長に構えていられる暇はない。
「この話は、もう他の人たちにも伝わっているのですか?」
「一部の貴族には伝えている」
戦力外通告された貴族には話はいっていないということだろう。戦場で無能な働き者ほど邪魔なものはないということか。
自分たちの利益のためという戦争に勝つためとは真逆のベクトルに関してだけ積極的に働くのだからそれ以上か。
「今の我々は藁にさえもすがりたい気分なのだ。だが今日、君は私たちにある種の可能性を見せてくれた。君の言う魔法具化した複合魔法をどうにか利用して海戦において有利に戦えないものだろうか」
戦争はまだ終わっていない。それどころか更なる規模でこちらに向かっている。
その事実にセシリアは愕然として、どこか現実味のない浮遊感を味わっていた。
ぼうっとして頭が働かない。あれほど頑張った防衛はなんだったのかという気さえしてくる。
セシリアが自分の命さえ賭けたのだって、ここを凌げばもう戦争は終わるだろうと思っていたからだ。
ロウェルやシスティアに釘を刺された時だって、自分が幼い内にもう二度とこんな事態が起こることはないだろうと見越して答えたのだ。
あらゆる前提が全て崩れ去るような絶望をなんと表現すればいいのか。
それでもセシリアは考える限りの可能性を組み立てる。
可能性の一つが大砲の量産だが現状では不可能だ。
もし全ての艦隊に方舷5門ずつでも装備できればそれだけで十分な戦力になる。
しかし皇国にも商国にもイシュタールほどの設備、言うなれば砲門の整備に必要な水車動力の大型掘削機を持った工房は殆ど存在しないという。
元々がこんな大口径の穴を青銅に開ける事自体が想定外なのだ。あっても人力による小さなもので使い物にならない。
その設備から作っていたのではとてもじゃないが間に合わないだろう。
それに火薬の量産ができない。
硫黄と木炭の量産は可能でも硝酸カリウムの製造にはどうしたって時間がかかる。頼んでいる村々から今ある限りの生成を頼んだところでどれ程の量になるか……。
少なくとも艦隊に大砲を配備したところで撃てる回数はごく限られるはずだ。
揺れる船上において大砲を命中させることは難しい。ましてや訓練を行う為に火薬を使ったのでは本末転倒だ。
かといって一部の戦艦に集中させても敵のほうが圧倒的に数が多い。それに使えるのは爆発する榴弾ではなく、運動エネルギー弾だ。
大砲に火薬を詰める知識はない。発射の衝撃で爆発したらそれこそ船に穴が開きかけない。
機雷と言う手も考えたが海上では散布する場所を渓谷のように集中できないしアンカーで固定することも難しい。
波にさらわれては元も子もないし敵がふとした拍子にコースを変えた時点で苦労は水の泡、最悪こちらの行動を制限しかねない。
セシリアはこの国の海戦の概要を知らなかったが、その上で考えても既存の兵器を利用するのは難しかった。
期待の視線を投げかける王には少し時間をくださいと答えることしかできない。
その夜、セシリアは賓客にあてがわれる部屋の中でも特に華美な城の一室で窓からぼんやりと月を見上げていた。
賽は投げられた。或いは、運命の歯車は既に回ってしまった。
世界に存在しなかった筈の、あるいはもっと先に作られたであろう兵器を作り出した結果がこれか、と一人自嘲する。
あれから首都を歩く話をなかった事にしてまで考えたのに、浮かんだ案は一つもなかった。
時間も材料も何もかもが足りない。この世には運命というものがあって、あらゆる物事は全て決まっている。
運命に抗おうとしても許されず、一時的に運命を改変しても元に戻ろうとする力によって改変は捻じ曲げられ、結局元に戻る。
実はフィーリルは滅びる運命にあって、それを偶然得た前世の知識によって回避したことから歪みが生まれ、今はその歪みが直ろうとする最中なのか。
人に運命は謀れない。投げた賽の目も今はまだ見ることができない。回った歯車の行く先がどこにあるか知る術はない。
全てが分かるのはこの国が滅んだ後とでも言うのだろうか。
フィーリルのために領主として力を使わなかったことを後悔したことがセシリアにはあった。
でもそれと同じくらい、知識を再現してしまうことが怖くもあった。
この世界にはありえない何かを作ってしまうことは許されるのだろうか。
昔見た漫画の話が頭の中に再生された。
あるところに何事にも無気力な男がいた。
やること全てを失敗し絶望した彼はある日、崖から身を投げる。
すると男はずっと昔の時代にタイムスリップしてしまい、なんだかんだと言いながらその時代にはまだ生まれていない技術を使ってたくさんの人を助けるのだ。
彼には未来の知識があった。やがてくる戦でこの国が滅びてしまうことを知っていた。
だから彼は敵の戦術や配置を事細かに教え、完全に裏の裏を付いて戦争に挑んだ。
彼の読みは大成功。戦争にも見事に勝利してしまった。
けれど、翌年に戦争に勝った国は彼の知らない火事と疫病と飢饉によって無残にも、完全に滅び去った。戦争で負けた国の嫡子が実は密かに生きていて、倒したはずの敵軍の長の名前を語り国を平定し、結局歴史は変わらない。
それに抵抗するように彼は幾つもの運命の歯車を回し続けた。でも変えることはできない。歯車は同じ道にしか進まない。
やがて彼は再び絶望し、崖から身を投げる。すると今度は元の時代に戻ってしまった。
彼は考える。過去を変えることができないのであれば、未来を変える為にがんばろうと。
しかしそんな彼の前に、突然幼馴染の女性が現れてこう言うのだ。
"私は未来から来たの。貴方が自殺するのを止めたくて"
幼心には何を言いたいのかさっぱり分からない内容だった。
連載が打ち切られた物だったようなので取ってつけた理由だったのかもしれない。今にして思えば酷いブラックユーモアだ。
未来が確定した時点で、もう男は救われない。
前世の知識がなかったらどうなっていたかと、セシリアは自分に問いかける。
考えるまでもなかった。バレル・ノーティスの死によってフィーリルの地に滞在はしても、辺境伯を名乗ることはなかっただろう。
そうなれば当然、あの2000の軍に立ち向かうこともなかった。
王都で他人に守られながら何も考えず怯えていただけかもしれない。そうしてフィーリルは蹂躙されていた。
溜息が彼女の小さな口から漏れた。いつしか部屋の片隅で膝を抱えて丸くなっている。凜とした瞳も今は曇って力なく伏せられていた。
無理もない。セシリアによって何らかの成功率の高い作戦が提唱されない限り、商船まで使って急造の艦隊を作り帝国と戦うだろう。
勝ち目のない戦いほどむなしいものはない。けれどそれを止めるすべだってありはしない。
何万人もの血が流れて制海権は敵の手に落ち、皇国は緩やかな滅びを迎える。
フィーリルを背負うだけで手一杯だったはずの荷物がふとすれば国どころか大陸一つにまで重さを増している。
王がセシリアに期待していたのは十分すぎるほど伝わっていた。
裏を返せば全くの素人で、しかも子どもであるセシリアに期待を寄せなければならないほど戦況が悪い戦いのだろう。
(そもそも、私は新しい物を作れたわけじゃない)
窓の外からは陽気な声が風に乗って聞こえてくる。夜になっても人々の興奮は冷めず、出店には一層人が入り奏でられる音楽も大きさを増す。
一日の疲れを冷たいお酒と熱々の料理でもって忘れるのだ。
こんな平和の裏側に刻々と帝国の手が伸びているなんて一体誰が思うだろうか。いっそ悪い夢なら覚めてしまえとばかりに、部屋の片隅で寝息を立て始めた。




