生きる価値と生きる意味。
週末になったら、遊びに行こう?と、彼女は言った。
いいよ、どこに行こうか。と、僕は問いかけた。
じゃあ、久しぶりに海に行こうよ!
私と一緒に泳ごうよ。きっと楽しいだろうな。と、彼女はすぐに決めた。
別に文句はなかった。彼女といられるだけで幸せだった。
でも、僕は分かってなかった。それがどんなに傲慢であったかを。
どんなに大切で、最高の幸せであるのかを。
それを僕は、身をもって知ることになった。
約束の一日前。土曜日の、十一時五十八分。
大地が揺れ、地割れを起こし始めた。
世界でも類を見ない、人類史上最悪の地震だった。
私が住んでいる地域は、ほぼ壊滅した。
震源から約百キロ。普通ならそこまでの被害はないはずだった。
しかし、それでもマグニチュードは「測定不能」。
震度にいたっては「∞」とエラーを起こして観測できなかった。
いかに耐震工事が進んだ建物といっても、所詮は自然の前では無力だと、
そう暗示されるのごとくすべてが崩れた。
すべての人間が無力となった。
後に大天災と呼ばれるこの地震によって、人間がたくさん死んだ。
震源地から七十キロの範囲はもう海となっているらしい。
人間の栄光の一部はもう海の藻屑となっているだろう。
そして、僕の大切な恋人も死んでしまった。津波の犠牲となった。
人生とは、なんと非情な物なのだろうか。
何も今でなくてよかったではないか。
あと一日、あと一日待っていてくれたら、僕は彼女と一緒に死ねたのに。
そうでなくとも、彼女の笑顔をもう一回見られたのに。
彼女が死んだ。その事実は僕には重すぎた。
彼女のためにも生きていくことも考えた。
こんなこと、彼女が望んでいないことも分かっている。
でも、無理。彼女なき世にこれ以上何も望まない。
背後では波がうねり狂っていた。この前沈んだ人間の町の上で。
もう、会いに行くよ。
だからさ…また笑顔を見せてね。
そう思い、重心を後ろに傾けたときだった。
「おや、あなたも自殺者ですか?」
渋く、深く、しかし落ち着いた声が僕の耳に届いた。
見ると、初老程度の老人が立っていた。
僕は重心を傾けたまま話しかける。
「…あなたは、いえ。あなたもですか?」
その老人はどこか吹っ切れた、すがすがしい面持ち。
自殺願望者を目の前にしてもまったく動じない様子から判断して、
おそらく彼も、僕と同類なのだろう。
「ええ、娘家族を亡くしました。妻にも先立たれていたのでもう一人です。
あなたは誰を失いましたか?」
「僕は彼女を失いました。今から会いに行くところです」
天国が存在するのかは分からない。
魂なんてものもあるかは分からない。
でも。あると信じている。再び会えると信じている。
別に、いいではないか。少しくらい夢を見ていても。
「そうですか。こんなじじいと一緒なんて嫌でしょう。
でも、いかがですか?冥界の道すがら、色々な話をしてあげられますよ。
退屈をなくして差し上げましょう」
そういって、満面の笑みで私の横に来る。
ああ、何故、何故こういった人ばかり犠牲になるのだろうか。
僕たちには何の罪もなかったと言うのに…
「ありがとうございます。では、参りましょうか」
そういった後、僕たちは海へと身を投げた。
一瞬の浮遊感のあと、すさまじい勢いが私の意識を襲った。
ああ、もう会いにいけるよ。
情けない僕だったけど、天国でも、たとえ地獄だったとしても。
これからも、よろしく…
そこまで考えたところで、僕の意識は泡となって消えた。
奇遇にも、彼女の家が在ったほうへと流されながら。
***
「う、あ…?」
激しく頭が痛い。体も鉄の棒で思い切り殴られたような鈍い痛みを感じている。
重いまぶたを開くと、真っ白な天井にある蛍光灯の光が視界に飛び込んできた。
「ああ、起きられましたか」
首を無理矢理曲げて声のした方向を見ると、中年位のやつれた男性がいた。
体も細く、折れてしまいそうな彼は僕の声を聞いて深い安堵のため息を漏らした。
誰だ。何故だ。何故僕は生きている。海に飛び込んだはずだ。何故病院にいる。
吐き気や頭痛と戦いながら必死で考える。しかし、看護婦の声がそれを遮った。
「石野さん。その方は溺れているあなたを救ってくれた命の恩人ですよ」
はい、とりあえず精密検査を行うので検査室に行きますね~。
小柄で華奢な看護婦の間延びした優しい声が、僕の耳の遥か遠くで響いた。
冗談じゃない。冗談じゃない…!
怒りで頭がいっぱいになった僕は、我を忘れて無理に体を起こすと
あろうことか感謝するべき相手を睨み付けてその怒りの矛先を向けた。
「何故…!何故僕を助けたんですか!」
急に憎悪を向けられたその男性は驚き、そして状況を理解し。
申し訳なさそうに視線を落とすとうなだれるように頭をたれた。
細かい事情までは分からずとも僕が誰かを失ったことを感じ取ったのだろう。
そんな脆く崩れてしまいそうな彼の姿に胸が締め付けられる。
ああ、僕は何をやっているんだろうか。
それでも僕は止まらなかった。心と体が別々になっていた。
心こそ申し訳なさで占められていたが、体を占領するのは怒りのみだった。
「あなたさえいなければ、僕は彼女に会えたのに!僕は、僕は…!」
あまりの怒りに体が震え、飛び起きそうになった。その時だった。
決して大きくない病室に乾いた破裂音が響いた。
音源は、すでに赤くなった僕の頬。鳴らしたのは、その小柄な看護婦。
「ふざけないでください!」
彼女の小さな唇から大きな叱咤の声がほとばしった。
あまりの出来事に、ぶたれた僕とうなだれていた男性は目を見張る。
僕らは彼女の涙目から怒りと嫌悪、そして悲しみを感じ取った。
「石野さん。あなたは死ぬほどの価値もない人間です。
何故だか分かりますか!?分かりませんよね!?」
あまりの驚きのせいで僕は一言も喋る事ができなかった。
彼女の怒りに困惑し、ただただ圧倒された。
「あなたのせいで、あなたのせいで!このお爺ちゃんは死んだんですよ!
それなのに、この期に及んで“何故助けた”ですって?
病人だからって、調子に乗るのも大概にしてください!」
彼女の言葉にはっと気づいた僕は、彼女の指差す方向に視線をずらす。
そこにはあの時の老人が幸せな表情で横たわっていた。
その姿を見た瞬間、今度こそ何も考えられなくなった。
在るのは傷つき疲れ果て、自暴自棄になった心のみ。
心の篭らない、声ともいえぬ音が僕の口から漏れ出した。
「あ、あああ…」
「命を何だと思ってるんですか!自ら捨てるなんて馬鹿なことしないでください!
生きたくても生きられない人がどれだけいると思っているんですか!」
再び彼女の声が僕の耳から遠のいていった。でも今度は怒りの矛先が違った。
今度は自分に対して照準が合わさった。彼女も守れない、情けない自分に。
「うるさいっ!!」
必死に捲くし立てていた看護婦は驚いたように肩を震わせ、押し黙った。
男性は先ほどから苦しげな顔つきをしているが、会話に入ってこようとはしなかった。
歯止め役がいない為、僕と看護婦は止まらなかった。
「彼女が死んだ僕の気持ちも分からないくせに!
いったい何のために、どうして彼女がいない世界を生きなければならないんだ!
もう何をすればいいのかわか―――」
僕はそこで言葉を区切った。いや、区切らされた。
再び乾いた音、それも先ほどよりも大きな破裂音が高らかに響いた。
「ばかぁぁぁぁぁあああああ!」
今看護婦の唇から放たれた言葉は絶叫だった。
涙でぼろぼろになりながらもキッとこちらを見据え、語りだした。
「あなたは何。そんなしょうもない人間なの?
彼女がなくなった悲しさぐらい、私にも…。彼氏が行方不明の私にも分かる!
でも、絶対に死のうなんて思わない!何でだか、あなたに分かる?
彼氏がそんなことを望んでないなんて、そんなことは言わない。
でもね、私やあなたは恋人だけに育てられたわけじゃないの。
両親、学校の先生、友達、近所の方。色々な場所で助けてもらった知らない人。
それこそ、この国に住むみなさんが育ててくれたの。分かるでしょう。
だから私たちは恩返ししなければいけないの。
老人を支え、同僚を励まし、子供たちを助けてあげないといけないの!
それがすべて終わったのなら死ぬなり何なり勝手にしなさい。
あなたはその半分も終わってないのよ。
そんなに死にたいのなら、被災者のために働いて働いて働いて働いて働いて、
死ぬほど働いてちゃんと恩を返してから死になさい!」
彼女はその白く柔らかそうな手をベッドのふちに向けて振り下ろし、彼女の言葉を
締めくくる大きな音が聞こえた。
「…看護婦さん」
「永井です。…すみませんでした。出すぎたまねをしてしまいました」
彼女は名前を告げると大きな深呼吸をして落ち着きを取り戻した。
ふいに肩に暖かな手が掛かった。その無骨な手は先ほどの男性だった。
「石野さん。頑張って生きてください。お願いですから、生きてください。
生きていたら悪いこともあります。それが人生です。でもよく考えてください。
あなたがいなくなったら誰が彼女さんのお墓の世話をするんですか?」
最初の時に見せてくれた暖かい笑顔と共にやさしく語りかけてくれた。
その内容は、僕が考えていなかった痛い所だった。
「それは…」
「彼女さんを守れるのはやはりあなたしかいないんですよ?
ちゃんとお見舞いを欠かさないように気をつけてくださいね」
そう僕に告げると男性は立ち上がって病室を後にしようとした。
放心状態となっていた僕は思わず彼を引きとめた。
「あ、あの、すいませんでした…」
「いいですよ。あなたが元気になってくれたのなら」
その朗らかな笑顔をもう一度見せると、今度こそ彼は出て行った。
彼が出て行った扉をボーっと見つめていると声をかけられた。
「石野さん。検査は5時間後に後回しにしておきます。
少し、命について、生きることについて考えてみてください。
私に相談したい時は遠慮なく言ってくださいね。私も頑張りますから」
先ほどの男性とは違った、元気の出るような笑顔を残して永井さんは出て行った。
一人残された僕はしばらく動きを止めて考えた。
そして横にあった杖を使って立ち上がり、老人の横に立った。
そして、自分なりの考えをその老人に告げた。
「お爺さん。僕、もう少しだけ生きてみます。
あなたと、あなたの家族のお墓もちゃんとお見舞いに行きます。
だから安心して家族のみんなと楽しく過ごしてください。
本当にすみませんでした…」
涙を老人にこぼさないように気をつけつつもしっかりと礼をした。
そして永井さんにも胸を張って伝えられるように、再び考えに耽った。
窓の外で雲の隙間から差す光に満ち溢れる様子を目に焼き付けながら。