八話
朝、エルがギルドの扉を押し開けた瞬間、空気がいつもと違うと分かった。
普段なら軽口や笑い声が飛び交っているのに、今日はそれがない。代わりに、深刻そうな囁きがひそひそと渦を巻いていた。
「……なにかあったのか?」
エルが周囲を見回した、そのとき。
同年代くらいの少年が、小走りで駆け寄ってくる。
「君、無事だったんだね。よかった」
「え……?」
「俺はレック。ここの冒険者。よろしく」
差し出された手を、おずおずと握り返す。
固い。剣を振っている人間の手だ、とすぐに分かった。
「それで……なにがあったんですか?」
レックは一拍おいて、声を落とす。
「……アイリーンさんが、昨日の夜から連絡取れないらしい」
「それって……」
「ああ。失踪事件と関係あるかもしれない」
そう言って、レックはカウンターへ視線を走らせた。
エルもつられてそちらを見る。
受付にいるのは、アイリーンではなかった。
年配の職員が眉間に皺を寄せたまま、次々に質問を受けている。
「……本当に、いないんだ」
レックが言いづらそうに頭をかいた。
「夜番が見送ったのが最後だって。家にも帰ってない。今朝からギルド長が騎士団に連絡して……」
エルはアイリーンと特別親しかったわけではない。
それでも、昨日までそこにいた人が突然いなくなるのは、ぞっとするほど現実味があった。
「君、可愛いからさ」
レックは言った直後、しまったという顔をした。
この空気の中で口が滑ったのだろう。
「……ごめん。いや、その、言いたいのは——」
言い訳を探してもたつくレックを見て、エルは変に怒れなかった。
軽口のひとつでもなければ、この場の息が詰まってしまいそうだったからだ。
「……私は大丈夫。でも、アイリーンさんは心配だね」
「だよな……」
レックは肩を落とし、それからふっと顔を上げる。
「だからこそ、気をつけた方がいい。ギルドの方も、いろいろ調べてる」
レックが掲示板を指さした。
そこには、目立つ字でこう書かれている。
《情報求む:情報提供、あるいは保護ができた者には報奨を出す》
エルはその文字を見つめたまま、小さく息を吐いた。
※※※
アイリーンが目を覚ますと、見知らぬベッドの上にいた。
(……ここは、どこ)
喉が渇いている。舌が張り付くようだった。
上体を起こすだけで、頭の奥がずきりと痛む。
昨夜、ギルドを出た。いつもどおり鍵を閉め、帰り道を歩いて……。
そこで記憶が途切れている。
(……違う。襲われた)
顔を隠した男が四人。背後から漂った甘い匂い。息を吸った瞬間、視界が滲んで……。
アイリーンはゆっくりと呼吸を整え、周囲を見回した。
部屋は簡素だった。窓はなく、薄い寝台と小さな台がひとつ。壁は白く、音が吸い込まれるように静かだ。
(どれくらい、意識を失っていたんだろう)
足を床につける。冷たい。
ふらつきを堪え、部屋の扉に手を伸ばした。
……鍵が、かかっている。
(でも、これくらいなら)
アイリーンは短く詠唱し、鍵へ魔力を集めた。
次の瞬間、金属が弾けるような乾いた爆ぜ音がして、錠前が砕け散る。
それでも、廊下の向こうは静まり返ったままだった。
(……人の気配が、ない?)
きい、と扉が開く。
隙間から身体を滑り込ませると、薄暗い廊下が延びていた。灯りは遠く、空気は湿っている。
息を殺し、足音を消して進む。
廊下は想像以上に長かった。曲がり角をいくつか越え、ようやく奥に大きな扉が見えた。
近づくと、中から声が漏れてくる。男の声が二つ。
アイリーンは咄嗟に立ち止まり、耳を澄ませた。
「それで、いつもどおり届いているんだね?」
「三人。年齢は十六前後が一、二十前後が二です」
「君はいつもいい仕事をするねぇ。リハリザード卿」
(リハリザード卿……子爵家の?)
その名には覚えがあった。
失踪事件に、貴族が関わっているのだろうか。
少しでも情報を得ようと、アイリーンは扉にそっと近づき、耳を寄せる。
そのときだった。
「——おっと。かわいい客が来ているようだね」
笑う気配がした。
次の瞬間、重い扉が内側からゆっくりと開いていく。
アイリーンは息を呑み、反射的に後ずさった。
見つかったことが怖いのではない。
扉の隙間から現れた“それ”が、最初、人の形に見えたからだ。
そして、一拍遅れて——人ではないと理解した。
男は、魔族だった。
骸骨の仮面。眼窩の奥で赤い光が揺れている。
頭から角。腕には、背丈ほどもある太い杖。
(……王都に、魔族が? そんな……)
言葉が声にならない。足が動かない。
逃げなければと脳が叫ぶのに、身体が言うことを聞かなかった。
魔族が、ゆっくりとこちらへ手を伸ばす。
衝撃が胸を貫いたのは、その瞬間だった。
(伝えないと……王都まで、入り込んでる。騎士団に——)
視界が白く霞む。音が遠ざかる。
床が迫ってくる感覚だけが、妙にゆっくりだった。
アイリーンの意識は、闇に沈んだ。
※※※
エルたち一行は、掲示板の前に立っていた。
なぜだか、レックも当然の顔で隣にいる。
「それで、ノエル殿。本日もゴブリン討伐へ向かいますか?」
ハインバルが、いつもどおり淡々と確認する。
「うーん。アイリーンさんの件、僕たちにできることはあるかな」
「聞き込み、でしょうか……」
アリサが掲示板の紙を目で追いながら答えた。
「ゴブリン討伐も大事だけど、できることはやっておきたい。後で後悔したくないからね」
エルが言うと、アリサは一瞬だけ目を細めて、それから小さく頷く。
「……承知しました。ノエル様がそう仰るなら」
その隙を待っていたみたいに、レックがぐいっと会話に割り込んできた。
「そういうことなら、俺も一緒に行くよ。……ノエルさんたちのことも心配だし」
「えっと……まあ、いいけど。勝手に突っ走らないでね」
「任せて!」
レックは胸を叩いた。やけに元気だ。
その元気が、今のギルドの空気にそぐわないからこそ、逆にありがたい気もした。
ハインバルが一歩前に出て、落ち着いた声で釘を刺す。
「ついて来るなら、約束が必要です。危険を感じたら即座に引く。私の指示に従う」
「わ、分かった。ちゃんと従う」
レックは、ハインバルの迫力に押されるように頷いた。
アリサはまだ疑わしげにレックを見ている。
「アイリーンさん家は雑貨屋あたりだよ。あの辺り、俺の縄張りみたいなもんだ」
「じゃあ、雑貨屋からギルドまでの道を辿って聞き込みしよう」
エルは言い終えると、掲示板から目を離す。
少し不安を覚えながらも、ギルドを後にした。




