六話
ドウリー・アルテリアは、今日も不機嫌だった。
先ほど、第二王子バルビーノ・アルテリアと廊下で鉢合わせしたせいだ。
バルビーノは側室の子。ドウリーの母は正妃である以上、本来なら相手のほうが肩身の狭い立場――のはずだった。
「ちょっと剣の腕が立つからって……調子に乗りやがって」
舌打ちが自然に漏れる。
そもそも王家の人間に必要なのは、剣の力などではない。必要なのは支配力だ。——人を、場をを支配する力。
それが分かっていない。
……あるいは、分かったうえで剣の力を誇示しているのか。
(目障りだ)
苛立ちの矛先を探して、ドウリーは思い出したように口を開いた。
「そういえば、エルのやつはどうした? あいつはどうしている?」
傍らに控える執事が、即座に答える。
「エル殿下は、聖礼の儀の最中にお倒れになったとのことです。現在も意識不明のまま療養中と……」
「ふん。毒でも盛られたか?」
王宮内で暗殺など珍しくもない。
敵対派閥に手を伸ばしたことがあるのは、ドウリー自身も同じだ。
もっとも、エルはどこの派閥にも属していない。味方も少ない。
多くの王子にとって眼中にない存在だろう。せいぜい暇つぶしに憂さ晴らしの相手にされる程度の――取るに足らない王子。
だからこそ、妙に引っかかる。
「……念のため調べさせろ。なにかわかるかもしれん」
「はっ」
執事が頭を下げるのを、ドウリーはちらりと見ただけで興味を失った。
考えねばならないことは他にいくらでもある。
――たとえばどのタイミングで他の王子たちを蹴落とすか、などだ。
※※※
大慌てでメイドが駆け込んでくる。
一瞬、さっきまで吸っていた葉を隠そうかと思ったが、面倒になってやめた。どうせ匂いでばれる。
「エレナ様……大変です。エル殿下が意識不明の重体との知らせが!」
「……そう」
なんとか返事する。
メイドは部屋にこもる匂いに気づき、眉をひそめた。窓へ歩み寄ると、がらりと開けて換気を始める。
外の空気が流れ込んでも、エレナの顔は動かなかった。
ただ、指先だけが、吸いかけの葉を探すように宙をさまよう。
「それで……エル殿下というのは、……誰?」
その問いに、メイドは愕然と目を見開いた。
そして、悲しそうに視線を落としてから、言葉を選ぶように告げる。
「エル殿下は、エレナ様のご子息でございます」
「ああ……そうだった」
息子が意識不明。
本来なら悲しむべきことなのだろう。きっと、そうなのだ。
だが、エレナはとうの昔に悲しみの場所を見失っていた。
心が散り散りになってしまっている。拾い集めようとしても、指の間からこぼれていく。
胸の奥で、かすかにさざ波が立った気がした。
けれど異国の葉を深く吸い込めば、心地よい痺れが広がり、波はすぐに凪いでしまう――そのはずだった。
メイドがつかつかと近づき、その葉をエレナの手から取り上げた。
「忘れてはいけません。エレナ様は、エル殿下のたった一人の母親なのですから」
このメイドは、いつもエレナに厳しい。
「わたし、あなたのことが嫌いだわ」
エレナはメイドを馬鹿にするように笑いながら言った。
こんな母親は、誰もいらないだろう。自分でも、そう思う。
※※※
宰相クリストンは、禿頭を押さえて深く溜息をついた。
こうして詰め寄られるのは、一体何度目だろう。
「エル殿下が意識不明というのは嘘だろう? なぜ、聖剣を抜いたことを隠している」
軍務卿サリザードが、顎鬚をさすりながら問い詰める。老齢に差しかかっても体格は衰えず、強面の迫力はむしろ増している。
「エル殿下は立場が弱いのです」
クリストンは淡々と返した。
「発表のタイミングを誤れば、王宮内が荒れます。いま内輪揉めを起こす余裕はありません」
「今は内部で争っている場合ではなかろう。立場のことなら我々が守ればよい」
サリザードは低く言い切る。
「我は権力争いなど興味はない。今必要なのは、魔王を打つ力だ」
「その力こそが問題なのですよ」
「どういうことだ」
「聖剣を抜けたことは確かです。ですが、殿下に今のところ特別な力は見られません」
クリストンは言葉を選びながら続ける。
「現状では、騎士団長はおろか、そこらの兵士ひとり倒すのも難しいでしょう。にもかかわらず“英雄”として表に出せば、狙われます」
「なにも、今日明日で強くなるとは思っておらん」
サリザードが鼻を鳴らす。
「素質があるなら、戦っているうちに育つ。戦場はいつだって人手不足だ」
「強くなる前に失えば、元も子もありません」
クリストンは語気を強めた。
「敵は魔族だけではないのです。……それに、他にも問題がある」
その問題を、クリストンは飲み込んだ。
前代未聞すぎて、どう扱うべきか、彼自身まだ掴みかねている。
「問題?」
「今はまだ、お話しできません」
クリストンは視線を逸らさず、言い切る。
「いずれ協力を求めることになるでしょう。どうか、信じていただきたい。すべては――エル殿下のためです」
サリザードは強面をさらに凶悪に歪め、低く唸った。
「……ちっ。いつまでも隠し通せるものではないぞ。すでに嗅ぎ回っている者もいる。人の口には戸は立てられまい」
そして、言葉を落とすように続ける。
「戦場では今も人が死んでいっている。……我々は“英雄”を必要としているのだ」
「わかっています。ですが、殿下はまだ十五歳。慎重に事を運ばねばなりません」
沈黙が落ちた。
睨み合いののち、サリザードは舌打ちをひとつ残して踵を返す。
扉が閉まった瞬間、クリストンは自分の禿頭をぺしりと叩き、もう一度、大きな溜息をついた。
※※※
王都へ戻ってから、エルは何度も手を洗った。
爪の間をこするたび、黒い血の感触がよみがえる気がした。
「ノエル様、もう取れてますって。指、赤くなってますよ」
アリサが呆れたように言いながら、タオルを差し出す。
その声がいつもどおりなのが、救いだった。
「……取れてるのは分かってる。分かってるんだけどさ」
エルはタオルを受け取り、指先を拭いた。
白い布に染みがないのを見て、少しだけ息が抜ける。
「初めて、でしたものね」
「うん。……思ったより、気持ち悪かった」
言葉にした瞬間、喉の奥がきゅっと縮む。
吐き気、と言ってしまえば負けみたいで、エルはそこで飲み込んだ。
アリサは一歩近づいて、エルの手を取る。
指先を確かめるみたいに、軽く握った。
「偉かったです。逃げなかったし、最後まで投げ出さなかった」
「……偉いって、子ども扱いするなよ」
「ノエル様は私にとって、主人であり、妹なのですよ」
「せめて弟にしてくれ」
アリサはくすりと笑った。
その笑い方が、戦いの匂いを少しだけ薄めてくれる。
宿の部屋に戻ると、エルは椅子に沈み込んだ。
足が鉛みたいに重い。身体の疲れというより、心のほうが先に擦り切れている。
聖剣は、壁に立てかけてある。
昼間は頼りなく感じたくせに、今は目に入るだけで落ち着かない。あれが“選んだ”と言われても、実感がない。
「ノエル様、食べてください。今日はこれだけ」
アリサがトレイを置く。
温かいスープと、柔らかいパン。塩気が控えめで、胃に優しそうだった。
エルはパンをちぎって口に運ぶ。
噛むたびに、身体の内側に“生きてる”感覚が戻ってくる。味がする、温かい。そういう当たり前が、今日はやけに貴重だった。
「ねえ、アリサ」
「はい」
「……僕さ。今日、助けられてばっかりだった」
「助けるのが私たちの仕事です」
「……助けられてばかりじゃ、だめだろ」
アリサは一瞬だけ目を伏せ、それからいつもの調子で言った。
「大丈夫ですよ。ノエル様が頑張り屋なのは、私が知っていますから」
エルはスープを飲むふりをして視線を逸らした。
顔が熱いのは湯気のせい、ということにしておく。
「……次は、ちゃんと役に立つ。ゴブリンくらい、もっと楽に倒せるようになる」
「はい。なります」
アリサは、疑わない声で返した。
エルはスープ皿を置き、立ち上がって聖剣へ近づく。
柄に指を触れた瞬間、ほんのわずか――体温が移っただけかと思う程度に、剣が温かくなった気がした。
「……今、なにか」
「ん?」
「いや、気のせいか」
アリサは首をかしげたが、深追いはしなかった。
代わりに、エルの背中へ毛布をふわりとかける。
「今日はもう、剣のことは考えないでください。ノエル様、目が死んでます」
「ひどい」
毛布の重みが、妙に安心する。
女の子の身体になってから、こういう包まれる感覚に弱くなった気がして、エルは内心でむっとした。
「……ねえ。僕、変わったよね。いろいろ」
「変わりました」
アリサは即答して、それから少しだけ柔らかく言い直す。
「でも、ノエル様の困った顔は変わりません。前から、かわいいです」
「っ……!」
エルは咳払いで誤魔化した。
こうやって、アリサはいつもエルを元気づけてくれる。
(……守るって誓ったのに、今日も守られてるな)
悔しい。
でも、今は――この悔しさを、明日へ持っていけばいい。




