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落ちこぼれ王子、聖剣を抜いたら女の子になった  作者: 白保仁
一章

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五話

 王都バルテーンの南――街道を外れた先には、山の影が長く伸びていた。

 公爵領へ続く山並みの麓は深い森林地帯になっており、魔物が出る。

 だからこそ、討伐依頼が絶えない。


 エルたち一行は、その森の中を進んでいた。

 湿った土の匂い。葉擦れの音。遠くで鳥が鳴く。


「この付近にゴブリンが出没するんだね」


 エルを挟むように、前をハインバルが歩き、後ろをアリサがついてくる。

 ハインバルが自信をもって歩いていくが、エルはキョロキョロと不安そうに歩いていく。


「ゴブリンって、どのくらい強いの?……ハインツ」


「騎士団員なら、遅れを取る者はいないでしょう」


 兜の奥の声は淡々としている。


「十体に囲まれようと、問題ありませんよ」


「私も学生時代は、ばんばんやっつけてましたよ」


「アリサって、意外に武闘派なんだね……」


「優秀でなければ、エル様のお付きにはなれませんから」


 初めてのゴブリン討伐で緊張していたが、話を聞く限り、そこまで厄介な相手でも――


 そのとき、先頭を行くハインバルの足がぴたりと止まった。


「ノエル殿。剣を」


 促されるまま、エルは聖剣の柄に手をかける。

 抜き慣れない剣は思ったより重い。女の子の身体になったせいか、腕の支えが頼りなく、重心もどこか定まらない。足元がわずかに泳ぐ。


 その瞬間――木陰から、棍棒を握ったゴブリンが二匹、跳び出してきた。


 エルと変わらないほどの背丈。

 獣みたいな速さで距離を詰めてくる。


「一匹は私が――」ハインバルが前へ出る。

「もう一匹を、ノエル殿がやってみましょう。アリサ殿はフォローを」


 言うが早いか、ハインバルの剣閃が走った。

 片方のゴブリンは悲鳴を上げる間もなく倒れ、地面に転がる。


 残った一匹が、その隙間を縫ってエルへ突っ込んでくる。


「っ――!」


 近い。怖い。

 エルは反射的に聖剣を引き抜き、がむしゃらに振りかぶった。


 ゴブリンがニヤリと口角を歪める。――怯えが、読まれた。

 棍棒が横薙ぎに振り抜かれ――


 鈍い衝撃が、聖剣の腹から腕へ突き刺さった。


「うっ……!」


 聖剣は折れない。欠けもしない。

 だが耐えきれたのは剣であって、エルではなかった。軽くなった身体があっさりと弾かれ、背中から地面へ叩きつけられる。息が潰れる。


 見下ろすゴブリンの目が、愉快そうに細まった。


 棍棒が、今度は頭めがけて振り上げられる。

 ――やられる。


「アイスランス」


 アリサの声が、澄んだ音色で森の空気を震わせた。


 次の瞬間、透明な氷の槍がいくつも生まれ、ゴブリンの身体を貫く。

 小鬼は棍棒を振り下ろすこともできず、崩れ落ちた。


「……ノエル様! 大丈夫ですか?」


 駆け寄ってくるアリサの顔が近い。

 その必死さに、胸の奥がきゅっと縮む。


 エルは茫然としていた。

 アリサの助けがなければ、本当に死んでいた。その事実がじわじわと冷えて、指先まで重くする。


 ついさっきまで「ゴブリンくらい」とどこかで高をくくっていた。

 だが今の自分には、そのゴブリン一匹すら満足に倒せないのだ。


「……大丈夫だよ、アリサ」


 冗談めかして、笑おうとして――うまくいかない。声が乾く。


「どうやら、聖剣のおかげで超能力に目覚める、なんて都合のいいことはなさそうだ」


「そう簡単にはいかない、ということでしょう」


 ハインバルはいつもと変わらぬ声で言った。慰めのつもりなのだろう。

 けれどエルの胸に広がったのは、安堵ではなく焦燥だった。


 ――本当に、自分は聖剣に選ばれたのか?


 選ばれたという実感など、どこにもない。


「……そうだね。ハインツ。せめて、ゴブリンくらいは倒せるようにならないと」


 自分に言い聞かせるように告げ、エルは立ち上がった。

 背中の泥を払う手が、少しだけ震えているのをごまかしながら。


 三人は隊列を組みなおし、薄暗い森の奥へと進んでいった。


※※※


 それからもゴブリンとは何度か遭遇した。

 なんとか斬り結ぶが弾かれる。しかし、最後の一撃は、結局ハインバルかアリサが持っていく。


 エルは仕留め切れない自分を、何度も噛みしめた。


「ノエル様……大丈夫ですか? そろそろ引き上げてもいいのでは」


「ノエル殿、あまり無理をしても、よい結果は出ませんよ」


「大丈夫だよ」


 口ではそう言ったが、エルはぐったりしていた。

 体力的には二人ほど動いていない。それでも命のやり取りに慣れていない心が、想像以上に削れている。


 そのとき、木の陰からまた一匹のゴブリンが姿を現した。


 エルは思わず一歩前に出て、聖剣の柄を握る。


「……ギリギリまで、僕にやらせて」


「承知しました。危なくなったら、すぐ援護します」


 聖剣の扱いには、少しずつ慣れてきた。細身で、片手でも振れる。

 ただ片手では衝撃が受けきれない。

 しかし、ゴブリンの攻撃を避けてカウンターを入れるなんて高度なことは、今のエルにはできない。

エルは両手で柄をしっかり握り、足を開いて体重を乗せる。


 リーチはこちらが長い。

 時間をかければ、少しずつ有利に運べるはずだ。


 ゴブリンが甲高い声を上げ、棍棒を振りかぶる。

 エルはその一撃を剣の腹で受け止めた。腕が痺れ、歯が鳴りそうになる。


 距離を取る。深追いしない。

 間合いの外から浅い斬撃を積み重ねる。焦らない。


 息は荒く、心臓が胸の内側から破れそうに脈打つ。

 それでも、ゴブリンの動きが鈍っていくのが見えた。切り傷が増え、力が落ちている。


「……えいっ!」


 ついに、棍棒が地面へ落ちた。


 好機。

 エルは一歩踏み込み、胸元へ――心臓めがけて剣を突き立てる。


 ぐに、と嫌な手応え。

 温かいものが刃の周りににじみ、相手から命の気配がするすると抜け落ちていく。


 期待していた達成感は、ほとんどなかった。

 代わりに胸の奥をざわつかせたのは、得体の知れない気持ち悪さだった。


「やりましたね、ノエル様!」


「……あっ、うん」


 アリサの笑顔に押されて、エルはなんとか頷いた。


 足もとには、さっきまで棍棒を振り回していたゴブリンの死体。

 聖剣の刃についた黒い血が、じわりと滴り落ちる。


「ノエル殿。今日はここまでといたしましょう」


「そうだね……そうしよう」


 エルは、自分の手が震えていることに気づいた。

 柄が汗でじっとりしている。


「戦いのあとに気分が悪くなるのは、普通のことですよ。初めてなら、なおさらです」


 アリサがそっと聖剣を受け取り、布で血を拭う。

 その横顔がいつもどおりなのが、かえって心強い。


「……ありがとう」


 うまく笑えた自信はなかった。

 それでもアリサは「はい」とだけ答えて微笑んだ。


 森の奥で鳥が鳴いている。

 さっきまで命のやり取りをしていた場所とは思えない。


(僕は――本当に、聖剣に選ばれた人間なのか?)


 答えは出ない。

 けれど、歩みを止める理由にもならない。


 エルはふらつきそうになる足に力を込め、二人のあとを追った。

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