五話
王都バルテーンの南――街道を外れた先には、山の影が長く伸びていた。
公爵領へ続く山並みの麓は深い森林地帯になっており、魔物が出る。
だからこそ、討伐依頼が絶えない。
エルたち一行は、その森の中を進んでいた。
湿った土の匂い。葉擦れの音。遠くで鳥が鳴く。
「この付近にゴブリンが出没するんだね」
エルを挟むように、前をハインバルが歩き、後ろをアリサがついてくる。
ハインバルが自信をもって歩いていくが、エルはキョロキョロと不安そうに歩いていく。
「ゴブリンって、どのくらい強いの?……ハインツ」
「騎士団員なら、遅れを取る者はいないでしょう」
兜の奥の声は淡々としている。
「十体に囲まれようと、問題ありませんよ」
「私も学生時代は、ばんばんやっつけてましたよ」
「アリサって、意外に武闘派なんだね……」
「優秀でなければ、エル様のお付きにはなれませんから」
初めてのゴブリン討伐で緊張していたが、話を聞く限り、そこまで厄介な相手でも――
そのとき、先頭を行くハインバルの足がぴたりと止まった。
「ノエル殿。剣を」
促されるまま、エルは聖剣の柄に手をかける。
抜き慣れない剣は思ったより重い。女の子の身体になったせいか、腕の支えが頼りなく、重心もどこか定まらない。足元がわずかに泳ぐ。
その瞬間――木陰から、棍棒を握ったゴブリンが二匹、跳び出してきた。
エルと変わらないほどの背丈。
獣みたいな速さで距離を詰めてくる。
「一匹は私が――」ハインバルが前へ出る。
「もう一匹を、ノエル殿がやってみましょう。アリサ殿はフォローを」
言うが早いか、ハインバルの剣閃が走った。
片方のゴブリンは悲鳴を上げる間もなく倒れ、地面に転がる。
残った一匹が、その隙間を縫ってエルへ突っ込んでくる。
「っ――!」
近い。怖い。
エルは反射的に聖剣を引き抜き、がむしゃらに振りかぶった。
ゴブリンがニヤリと口角を歪める。――怯えが、読まれた。
棍棒が横薙ぎに振り抜かれ――
鈍い衝撃が、聖剣の腹から腕へ突き刺さった。
「うっ……!」
聖剣は折れない。欠けもしない。
だが耐えきれたのは剣であって、エルではなかった。軽くなった身体があっさりと弾かれ、背中から地面へ叩きつけられる。息が潰れる。
見下ろすゴブリンの目が、愉快そうに細まった。
棍棒が、今度は頭めがけて振り上げられる。
――やられる。
「アイスランス」
アリサの声が、澄んだ音色で森の空気を震わせた。
次の瞬間、透明な氷の槍がいくつも生まれ、ゴブリンの身体を貫く。
小鬼は棍棒を振り下ろすこともできず、崩れ落ちた。
「……ノエル様! 大丈夫ですか?」
駆け寄ってくるアリサの顔が近い。
その必死さに、胸の奥がきゅっと縮む。
エルは茫然としていた。
アリサの助けがなければ、本当に死んでいた。その事実がじわじわと冷えて、指先まで重くする。
ついさっきまで「ゴブリンくらい」とどこかで高をくくっていた。
だが今の自分には、そのゴブリン一匹すら満足に倒せないのだ。
「……大丈夫だよ、アリサ」
冗談めかして、笑おうとして――うまくいかない。声が乾く。
「どうやら、聖剣のおかげで超能力に目覚める、なんて都合のいいことはなさそうだ」
「そう簡単にはいかない、ということでしょう」
ハインバルはいつもと変わらぬ声で言った。慰めのつもりなのだろう。
けれどエルの胸に広がったのは、安堵ではなく焦燥だった。
――本当に、自分は聖剣に選ばれたのか?
選ばれたという実感など、どこにもない。
「……そうだね。ハインツ。せめて、ゴブリンくらいは倒せるようにならないと」
自分に言い聞かせるように告げ、エルは立ち上がった。
背中の泥を払う手が、少しだけ震えているのをごまかしながら。
三人は隊列を組みなおし、薄暗い森の奥へと進んでいった。
※※※
それからもゴブリンとは何度か遭遇した。
なんとか斬り結ぶが弾かれる。しかし、最後の一撃は、結局ハインバルかアリサが持っていく。
エルは仕留め切れない自分を、何度も噛みしめた。
「ノエル様……大丈夫ですか? そろそろ引き上げてもいいのでは」
「ノエル殿、あまり無理をしても、よい結果は出ませんよ」
「大丈夫だよ」
口ではそう言ったが、エルはぐったりしていた。
体力的には二人ほど動いていない。それでも命のやり取りに慣れていない心が、想像以上に削れている。
そのとき、木の陰からまた一匹のゴブリンが姿を現した。
エルは思わず一歩前に出て、聖剣の柄を握る。
「……ギリギリまで、僕にやらせて」
「承知しました。危なくなったら、すぐ援護します」
聖剣の扱いには、少しずつ慣れてきた。細身で、片手でも振れる。
ただ片手では衝撃が受けきれない。
しかし、ゴブリンの攻撃を避けてカウンターを入れるなんて高度なことは、今のエルにはできない。
エルは両手で柄をしっかり握り、足を開いて体重を乗せる。
リーチはこちらが長い。
時間をかければ、少しずつ有利に運べるはずだ。
ゴブリンが甲高い声を上げ、棍棒を振りかぶる。
エルはその一撃を剣の腹で受け止めた。腕が痺れ、歯が鳴りそうになる。
距離を取る。深追いしない。
間合いの外から浅い斬撃を積み重ねる。焦らない。
息は荒く、心臓が胸の内側から破れそうに脈打つ。
それでも、ゴブリンの動きが鈍っていくのが見えた。切り傷が増え、力が落ちている。
「……えいっ!」
ついに、棍棒が地面へ落ちた。
好機。
エルは一歩踏み込み、胸元へ――心臓めがけて剣を突き立てる。
ぐに、と嫌な手応え。
温かいものが刃の周りににじみ、相手から命の気配がするすると抜け落ちていく。
期待していた達成感は、ほとんどなかった。
代わりに胸の奥をざわつかせたのは、得体の知れない気持ち悪さだった。
「やりましたね、ノエル様!」
「……あっ、うん」
アリサの笑顔に押されて、エルはなんとか頷いた。
足もとには、さっきまで棍棒を振り回していたゴブリンの死体。
聖剣の刃についた黒い血が、じわりと滴り落ちる。
「ノエル殿。今日はここまでといたしましょう」
「そうだね……そうしよう」
エルは、自分の手が震えていることに気づいた。
柄が汗でじっとりしている。
「戦いのあとに気分が悪くなるのは、普通のことですよ。初めてなら、なおさらです」
アリサがそっと聖剣を受け取り、布で血を拭う。
その横顔がいつもどおりなのが、かえって心強い。
「……ありがとう」
うまく笑えた自信はなかった。
それでもアリサは「はい」とだけ答えて微笑んだ。
森の奥で鳥が鳴いている。
さっきまで命のやり取りをしていた場所とは思えない。
(僕は――本当に、聖剣に選ばれた人間なのか?)
答えは出ない。
けれど、歩みを止める理由にもならない。
エルはふらつきそうになる足に力を込め、二人のあとを追った。




