三話
エルは自室に戻ると、ようやく大きく息をついた。
控室では飲み込むしかなかった空気が、ここでは少しだけ吐きだせる。
聖剣は、エルが持ち帰ることになった。
どこに置くか迷った末、とりあえず寝台の脇――視界の端に立てかけておく。できれば触りたくない。
アリサが、エルのお気に入りの紅茶を淹れてくれる。
湯気と香りが、ささくれた心を少しだけ丸くした。
「ん……アリサの淹れてくれる紅茶が一番おいしい」
自分でも少し高くなった声に違和感を覚えつつ、エルはひとときの幸せを噛みしめた。
「笑っていると、本当にただの女の子ですね」
「……ただのって言うなよ」
アリサはくすりと笑い、姿見をエルの前に引き寄せる。
鏡の中には、見知らぬ女の子がいた。
――いや、目元と輪郭に、確かにエルの面影はあった。そこが余計に落ち着かない。
礼服の上からでも分かる、胸の丸み。
腹から腰にかけての、男の頃にはなかった柔らかな線。短くまとめていた銀髪も、いつの間にか肩の近くまで伸びている。
「……勝手に、全部変わってる」
「女の子の服を用意しなくてはいけませんね」
「動きやすいので頼むよ」
苦笑いで返すと、アリサがわざとらしく胸を張る。
「エル様、お休みになる前に、あれをしなくてはいけませんね?」
「あれ?」
「お風呂ですよ、お風呂」
「……今日はもういいかな」
「そんな汚い真似、エル様が許してもアリサが許しません」
「……」
「大丈夫です! アリサが一緒に入ってあげます!」
「いや、それはまずいんじゃ……」
「女の子同士ならオッケーです」
「いや、僕、男だけど……」
「……オッケーです。議論は終わり」
有無を言わせない笑顔。
エルは敗北を悟り、紅茶を一口で飲み干した。
※※※
王族であるエルは、浴室を貸し切りで使える。
けれど浴室の扉の前で、エルは固まっていた。
「ねえ、やっぱりやめないか……」
「いえいえ、お美しいですよ、エル様」
「会話になってない……」
気づけば二人とも、もう脱ぎ終えている。
エルはどこに視線をやればいいのか分からず、ひたすら遠くの壁を見つめた。耳の先が熱い。
身体が女性になったとはいえ、心は男だ。
年の近い親しい女性の肌を目に入れるのは、落ち着かない――。
そんな気持ちも知らずに、アリサはエルの手を引いて浴場へ向かった。
白い石でできた浴室は、簡素ながら清潔だった。
壁の蛇口から湯気の立つ温水が流れ、木桶にはすでに湯が張られている。
「まずは、髪を洗いましょうね」
どこか楽しそうに言って、アリサはエルの背後に回った。
髪をすくい上げる指先が、思っていたよりずっと優しい。
ここまで準備されてしまっては、逃げ出すのも気が引ける。
何より、このままベッドに倒れ込んだら――本気でアリサに泣かれそうだ。
「……もう好きにして」
「はい。好きにします」
即答がひどい。
「……長くなりましたね」
「勝手に伸びたんだよ……」
くすり、と笑い声が頭のすぐ上から降ってきた。
温かい湯。指先の感触。ほのかに香る石鹸。
何度か瞬いているうちに、エルの肩から余計な力が抜けていく。胸の奥に絡みついていた不安も、少しずつほどけていった。
「大丈夫ですよ……」
「うん」
「エル様がどんな姿になっても。今後どうなろうとも――アリサだけは、エル様の味方です」
「……頼もしいよ」
聖剣。魔族との戦争。他の王子たちがどう出てくるかも分からない。
ハインバルとクリストンはとりあえず味方に見えたが、本心は読めない。
解決しなければならない問題は山ほどある。
その中で、心から信頼できるアリサの存在は、実際とても頼もしかった。
「だから、女の子としての先輩として、アリサがエル様に色々教えてあげます」
「それは……ちょっと待って」
身体を洗い終えると、二人は湯船につかった。
水面がふわりと揺れ、体の重さのかかり方が男の頃と違うことに気づく。――その違いが、妙に恥ずかしい。
(……うわ、なにこれ)
顔が熱くなる。けれど湯の温かさがじわじわとそれを溶かしていく。
(アリサがそばにいてくれるなら、まだどうにかやっていけるかもしれない)
湯気の向こうで、アリサが鼻歌まじりに髪をまとめている。
その姿を見ながら、エルは静かに決めた。――アリサのことだけは守る。絶対に。




