幕間①
アリサがエル・アルテリアに出会ったのは、十六歳のときだった。
バルテーン魔法学院を首席で卒業したその足で、王宮に召し抱えられる。
形式上は侍女。――けれど実際は、王族の身辺警護も兼ねる魔術の使い手だった。
初めて配属先の名を聞いたとき、アリサは胸の奥で、ほんの少しだけ肩を落とした。
第十二王子。末席。母は元メイド。非嫡出。
王宮でその肩書きが意味するのは、守られる優先順位が低いということだ。
そして当時のアリサは、同年代で自分に並ぶ者はいない――そう信じていた。
(エル殿下か……外れ、ね)
そう思っていた。――会うまでは。
エルは、そのとき十歳だった。
控えの間に通されたアリサは、扉の向こうから聞こえた小さな足音を、今でも覚えている。
戸が開き、冬の朝の薄い光が差し込んだ。
銀髪がさらりと揺れて、アリサは息を止めた。
冗談ではなく、天使が舞い降りたのだと思った。
絹みたいに滑る銀の髪。少女と見間違うほど整った顔立ち。まつげが長くて、目がやたら綺麗で――そして、あまりにも細かった。
部屋は豪奢なのに、そこに立つ本人は、儚い人形のようだった。
アリサが礼を取る前に、エルのほうが先に頭を下げた。
「……来てくれて、ありがとう。えっと、アリサ、だよね?」
声も高く、思わず女の子ではないかと疑ったほどだ。
けれど挨拶の仕草だけは妙に気品があって、王族然としている。
「はい。アリサでございます。以後、お側に仕えるよう仰せつかりました」
きっちり言ったつもりだったのに、エルは困ったように笑った。
「そんなに固くしなくていいよ……これから一緒にいるんだから」
その言い方がひどく自然で、アリサは胸の奥が少しだけむず痒くなった。
エルは王族とは思えないほど温和で、誰にでも優しかった。
出生を馬鹿にする者はいる。けれど妙に味方が多いのも事実だった。
下働きの女官や若い騎士が、陰で「殿下は優しい」と囁く。
優しさは王宮では武器にならない。むしろ脆さになる。
それでも、遠巻きに見守る人間がいる。――味方になれないまま、見守るしかない人間が。
ある日のことだった。
午前の用務を終え、エルの部屋へ戻ろうとしていた。
「おい。……そこの新顔」
甘ったるい声が背後から落ちた。
第四王子、ドウリー・アルテリア。
アリサが振り返り、膝を折りかけた瞬間、靴音が近づき、わざとらしく目の前で止まる。
「顔を上げろ。……ああ、エルのところのやつだな」
視線が値踏みするように頬から喉元へ滑った。
取り巻きの一人が、わざとらしくアリサの足元へ盃を落とす。
陶器が割れ、赤い葡萄酒が絨毯に滲んだ。
「おや? 汚れたなあ」
ドウリーの声が、子どもみたいに楽しげだった。
「お前が拭け。這いつくばって。舌でもいいぞ」
胸の奥が、きし、と鳴った。
挑発に乗ってはいけない。この男は“遊んでいる”だけだ。
何事もなかったように掃除して去ればいい――そう思った、そのとき。
「……ドウリー兄様」
廊下の奥から、少し高い声がした。
振り向いたドウリーが口元を歪める。
「おやおや。どうした……。迷子か?」
エルが立っていた。
細い肩。礼服の襟が少し浮いて、首元の白い鎖骨が覗いている。
エルは一歩、こちらへ踏み出した。
割れた盃にも、絨毯の染みにも、目を逸らさない。
「ドウリー兄様、僕のために葡萄酒をありがとうございます」
ドウリーが眉を上げる。
「ほう?」
「はい。どうやら僕への贈り物を零してしまったご様子。なら、僕が責任をもって掃除しておきます。
どうせ僕はまだ飲めませんし、お代わりもいりませんよ」
言葉は丁寧で、笑顔までつけている。
でも、袖の奥で拳を握りしめているのがわかった。指先がわずかに白い。
ドウリーは笑った。
「そうか。じゃあ、お前が拭け。……命令だ」
空気がひやりと凍る。
周囲の者たちが獲物を見つけた目をする。
アリサは反射で口を開きかけた。
やめてください、と。だが、エルの方が早かった。
「わかりました」
そう言って、膝を折った。
その動きが、あまりにも慣れているように見えて、アリサの胸が痛んだ。
指先が、赤い染みへ伸びる。
「……エル様!」
声が漏れた。
エルはほんの一瞬だけアリサを見上げて、困ったように笑った。
大丈夫、と口が言っている。
ドウリーは、その笑顔が気に入らなかったのだろう。
靴の先で、エルの手元を軽く蹴った。
「もっと丁寧にやれよ。……王族らしくな」
エルの指がびくりと跳ねる。
けれど声は上げない。痛いはずなのに、何も言わない。
ドウリーは満足したように肩をすくめ、取り巻きを引き連れて去っていった。
去り際に、耳障りなほど楽しげに言い残す。
「次は、もっと面白いことをしような……」
廊下に残ったのは、赤い染みと、濡れた袖口と、アリサの息だけだった。
エルはゆっくり立ち上がる。
膝の埃を払う仕草が、やけに丁寧だ。
「……ごめん。アリサ、困らせた」
困らせた?
困っているのは、エルのほうだ。
「エル様、痛く――」
「平気。……僕、こういうの、慣れてるから」
その一言で、アリサの胸の奥が熱くなって、言葉が出なくなった。
エルは視線を逸らしたまま、ぽつりと続ける。
「アリサが……僕のせいで、こんなことに巻き込まれてほしくない」
「エル様のせいではありません」
声が少し強くなった。
エルが目を丸くする。その顔はやっぱり子どもで――不本意に、可愛いと思ってしまう。
「……でも、僕がいるから、こうなる」
小さく吐息。
その背中が、いつもより少し丸かった。
アリサは一歩近づき、きっぱり言った。
「エル様。次からは、エル様だけが犠牲になるのは禁止です」
「え」
「私に守らせてください。……エル様が悲しい顔をすると、アリサも悲しいんです」
エルはしばらく黙って、そして困ったように笑った。
「……お姉さんみたいだね、アリサ」
胸の奥が少しだけ軽くなる。
アリサは胸を張った。
「そうですよ。侍女兼お姉さんのアリサです」
言い切った瞬間、エルが小さく笑った。
その笑いが、アリサの世界を少しだけ明るくした。
※※※
エルが魔族を聖剣で斬った、その瞬間だった。
白い光が、世界を塗りつぶした。
目を閉じても、まぶたの裏が灼ける。音が遠のき、代わりに――悲鳴だけが残った。
魔族の、獣のような、喉を裂くような叫び声。
(……なに、これ)
息を吸うのが怖い。
光の中で、自分の輪郭すら曖昧になる。
どれほどの時間が過ぎたのか。
やがて白が薄れていき、視界が戻る。
そこに残っていたのは――倒れ伏したエルと、灰だった。
ついさっきまでそこにいたはずのものが、形も匂いも消えている。
風に舞う細かな灰だけが、焚き火の火の粉みたいに静かに散っていく。
アリサが作り出した氷の壁も、いつの間にか消えていた。
周囲を見回す。
魔族の気配がない。さっきまであれほど重かった空気が、嘘みたいに軽い。
「……これが、聖剣の力……」
言葉が、喉から落ちた。
戦場の形を、一人で塗り替えられる力。戦争の趨勢すら、たった一振りで――。
(……じゃあ、どうして今まで)
考えが走り出しそうになる。
けれどエルの姿が目に入った瞬間、全部が止まった。
アリサは駆け寄り、膝をついて肩に手を添える。
「ノエル様……!」
返事はない。呼吸はある。脈も――ある。
けれど意識は深い底に沈んだまま、浮かんでこない。
聖剣の柄を握る小さな手が、まだ微かに震えていた。
※※※
野戦病院で、エルが眠り込んで三日が過ぎた。
病室の中は消毒薬と血の匂いが混ざっている。
昼なのに薄暗い。人のうめき声と衛生兵の怒鳴り声が、遠くで途切れず続いていた。
アリサは水を絞った布で、エルの額と首筋を拭く。
包帯をほどき、巻き直す。
指先に慣れがついているのが、自分でも嫌だった。
エルが女性の身体になってから、裸を見ることは何度かあった。
けれど眠っている姿は、本当に綺麗な人形かのようだった。
(三日。……三日も)
昨日までエルは熱にうなされて、眉間に皺を寄せていた。
ようやく、熱が下がって一安心したが、未だに目が覚めぬことに不安を覚える。
(あれほどの力……代償があるのかもしれない)
ベッドの脇に置かれた聖剣を、恨めしい気持ちで見た。
剣は何事もなかったみたいに黙っている。冷たく、重く、ただそこにある。
アリサは、エルに英雄になってほしいわけじゃなかった。
王宮で軽んじられていることに腹は立つ。歯ぎしりするほど悔しい。
けれど、アリサが見たかったのは――エルがふっと笑う顔だった。
気取らない声で「おはよう」と言って、少し高い声で照れて、困ったように笑う、その顔。
聖剣に選ばれてからのエルは、どこか追い詰められているように見えた。
力に追い立てられているみたいに。
最初は誇らしかった。
でも今は――選ばれなかったほうが、幸せだったのかもしれないとさえ思う。
そのとき、エルが苦しげに顔を歪めた。
喉が小さく鳴る。痛みに耐えるように。
アリサは、いつも通りの声を作って言う。
「大丈夫です。アリサが傍にいます。……いますから」
返事はない。
それでも、こわばっていた眉間が、ほんの少しだけほどけた気がした。
アリサは祈るように、エルの頬に触れる。
英雄なんかならなくていい。
ただ、目を開けて――笑ってくれればいいのだ




