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落ちこぼれ王子、聖剣を抜いたら女の子になった  作者: 白保仁
一章

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21/22

幕間①

 アリサがエル・アルテリアに出会ったのは、十六歳のときだった。


 バルテーン魔法学院を首席で卒業したその足で、王宮に召し抱えられる。

 形式上は侍女。――けれど実際は、王族の身辺警護も兼ねる魔術の使い手だった。


 初めて配属先の名を聞いたとき、アリサは胸の奥で、ほんの少しだけ肩を落とした。

 第十二王子。末席。母は元メイド。非嫡出。


 王宮でその肩書きが意味するのは、守られる優先順位が低いということだ。

 そして当時のアリサは、同年代で自分に並ぶ者はいない――そう信じていた。


(エル殿下か……外れ、ね)


 そう思っていた。――会うまでは。


 エルは、そのとき十歳だった。


 控えの間に通されたアリサは、扉の向こうから聞こえた小さな足音を、今でも覚えている。

 戸が開き、冬の朝の薄い光が差し込んだ。


 銀髪がさらりと揺れて、アリサは息を止めた。


 冗談ではなく、天使が舞い降りたのだと思った。

 絹みたいに滑る銀の髪。少女と見間違うほど整った顔立ち。まつげが長くて、目がやたら綺麗で――そして、あまりにも細かった。


 部屋は豪奢なのに、そこに立つ本人は、儚い人形のようだった。


 アリサが礼を取る前に、エルのほうが先に頭を下げた。


「……来てくれて、ありがとう。えっと、アリサ、だよね?」


 声も高く、思わず女の子ではないかと疑ったほどだ。

 けれど挨拶の仕草だけは妙に気品があって、王族然としている。


「はい。アリサでございます。以後、お側に仕えるよう仰せつかりました」


 きっちり言ったつもりだったのに、エルは困ったように笑った。


「そんなに固くしなくていいよ……これから一緒にいるんだから」


 その言い方がひどく自然で、アリサは胸の奥が少しだけむず痒くなった。


 エルは王族とは思えないほど温和で、誰にでも優しかった。

 出生を馬鹿にする者はいる。けれど妙に味方が多いのも事実だった。


 下働きの女官や若い騎士が、陰で「殿下は優しい」と囁く。

 優しさは王宮では武器にならない。むしろ脆さになる。

 それでも、遠巻きに見守る人間がいる。――味方になれないまま、見守るしかない人間が。


 ある日のことだった。

 午前の用務を終え、エルの部屋へ戻ろうとしていた。


「おい。……そこの新顔」


 甘ったるい声が背後から落ちた。


 第四王子、ドウリー・アルテリア。


 アリサが振り返り、膝を折りかけた瞬間、靴音が近づき、わざとらしく目の前で止まる。


「顔を上げろ。……ああ、エルのところのやつだな」


 視線が値踏みするように頬から喉元へ滑った。

 取り巻きの一人が、わざとらしくアリサの足元へ盃を落とす。


 陶器が割れ、赤い葡萄酒が絨毯に滲んだ。


「おや? 汚れたなあ」


 ドウリーの声が、子どもみたいに楽しげだった。


「お前が拭け。這いつくばって。舌でもいいぞ」


 胸の奥が、きし、と鳴った。

 挑発に乗ってはいけない。この男は“遊んでいる”だけだ。

 何事もなかったように掃除して去ればいい――そう思った、そのとき。


「……ドウリー兄様」


 廊下の奥から、少し高い声がした。


 振り向いたドウリーが口元を歪める。


「おやおや。どうした……。迷子か?」


 エルが立っていた。

 細い肩。礼服の襟が少し浮いて、首元の白い鎖骨が覗いている。


 エルは一歩、こちらへ踏み出した。

 割れた盃にも、絨毯の染みにも、目を逸らさない。


「ドウリー兄様、僕のために葡萄酒をありがとうございます」


 ドウリーが眉を上げる。


「ほう?」


「はい。どうやら僕への贈り物を零してしまったご様子。なら、僕が責任をもって掃除しておきます。

 どうせ僕はまだ飲めませんし、お代わりもいりませんよ」


 言葉は丁寧で、笑顔までつけている。

 でも、袖の奥で拳を握りしめているのがわかった。指先がわずかに白い。


 ドウリーは笑った。


「そうか。じゃあ、お前が拭け。……命令だ」


 空気がひやりと凍る。

 周囲の者たちが獲物を見つけた目をする。


 アリサは反射で口を開きかけた。

 やめてください、と。だが、エルの方が早かった。


「わかりました」


 そう言って、膝を折った。


 その動きが、あまりにも慣れているように見えて、アリサの胸が痛んだ。

 指先が、赤い染みへ伸びる。


「……エル様!」


 声が漏れた。

 エルはほんの一瞬だけアリサを見上げて、困ったように笑った。

 大丈夫、と口が言っている。


 ドウリーは、その笑顔が気に入らなかったのだろう。

 靴の先で、エルの手元を軽く蹴った。


「もっと丁寧にやれよ。……王族らしくな」


 エルの指がびくりと跳ねる。

 けれど声は上げない。痛いはずなのに、何も言わない。


 ドウリーは満足したように肩をすくめ、取り巻きを引き連れて去っていった。

 去り際に、耳障りなほど楽しげに言い残す。


「次は、もっと面白いことをしような……」


 廊下に残ったのは、赤い染みと、濡れた袖口と、アリサの息だけだった。


 エルはゆっくり立ち上がる。

 膝の埃を払う仕草が、やけに丁寧だ。


「……ごめん。アリサ、困らせた」


 困らせた?

 困っているのは、エルのほうだ。


「エル様、痛く――」


「平気。……僕、こういうの、慣れてるから」


 その一言で、アリサの胸の奥が熱くなって、言葉が出なくなった。

 エルは視線を逸らしたまま、ぽつりと続ける。


「アリサが……僕のせいで、こんなことに巻き込まれてほしくない」


「エル様のせいではありません」


 声が少し強くなった。

 エルが目を丸くする。その顔はやっぱり子どもで――不本意に、可愛いと思ってしまう。


「……でも、僕がいるから、こうなる」


 小さく吐息。

 その背中が、いつもより少し丸かった。


 アリサは一歩近づき、きっぱり言った。 


「エル様。次からは、エル様だけが犠牲になるのは禁止です」


「え」


「私に守らせてください。……エル様が悲しい顔をすると、アリサも悲しいんです」


 エルはしばらく黙って、そして困ったように笑った。


「……お姉さんみたいだね、アリサ」


 胸の奥が少しだけ軽くなる。

 アリサは胸を張った。


「そうですよ。侍女兼お姉さんのアリサです」


 言い切った瞬間、エルが小さく笑った。

 その笑いが、アリサの世界を少しだけ明るくした。

 

※※※


 エルが魔族を聖剣で斬った、その瞬間だった。


 白い光が、世界を塗りつぶした。

 目を閉じても、まぶたの裏が灼ける。音が遠のき、代わりに――悲鳴だけが残った。

 魔族の、獣のような、喉を裂くような叫び声。


(……なに、これ)


 息を吸うのが怖い。

 光の中で、自分の輪郭すら曖昧になる。


 どれほどの時間が過ぎたのか。

 やがて白が薄れていき、視界が戻る。


 そこに残っていたのは――倒れ伏したエルと、灰だった。

 ついさっきまでそこにいたはずのものが、形も匂いも消えている。

 風に舞う細かな灰だけが、焚き火の火の粉みたいに静かに散っていく。


 アリサが作り出した氷の壁も、いつの間にか消えていた。


 周囲を見回す。

 魔族の気配がない。さっきまであれほど重かった空気が、嘘みたいに軽い。


「……これが、聖剣の力……」


 言葉が、喉から落ちた。

 戦場の形を、一人で塗り替えられる力。戦争の趨勢すら、たった一振りで――。


(……じゃあ、どうして今まで)


 考えが走り出しそうになる。

 けれどエルの姿が目に入った瞬間、全部が止まった。


 アリサは駆け寄り、膝をついて肩に手を添える。


「ノエル様……!」


 返事はない。呼吸はある。脈も――ある。

 けれど意識は深い底に沈んだまま、浮かんでこない。


 聖剣の柄を握る小さな手が、まだ微かに震えていた。


※※※


 野戦病院で、エルが眠り込んで三日が過ぎた。


 病室の中は消毒薬と血の匂いが混ざっている。

 昼なのに薄暗い。人のうめき声と衛生兵の怒鳴り声が、遠くで途切れず続いていた。


 アリサは水を絞った布で、エルの額と首筋を拭く。

 包帯をほどき、巻き直す。

 指先に慣れがついているのが、自分でも嫌だった。


 エルが女性の身体になってから、裸を見ることは何度かあった。

 けれど眠っている姿は、本当に綺麗な人形かのようだった。


(三日。……三日も)  


 昨日までエルは熱にうなされて、眉間に皺を寄せていた。

 ようやく、熱が下がって一安心したが、未だに目が覚めぬことに不安を覚える。


(あれほどの力……代償があるのかもしれない)


 ベッドの脇に置かれた聖剣を、恨めしい気持ちで見た。

 剣は何事もなかったみたいに黙っている。冷たく、重く、ただそこにある。


 アリサは、エルに英雄になってほしいわけじゃなかった。

 王宮で軽んじられていることに腹は立つ。歯ぎしりするほど悔しい。

 けれど、アリサが見たかったのは――エルがふっと笑う顔だった。


 気取らない声で「おはよう」と言って、少し高い声で照れて、困ったように笑う、その顔。


 聖剣に選ばれてからのエルは、どこか追い詰められているように見えた。

 力に追い立てられているみたいに。


 最初は誇らしかった。

 でも今は――選ばれなかったほうが、幸せだったのかもしれないとさえ思う。


 そのとき、エルが苦しげに顔を歪めた。

 喉が小さく鳴る。痛みに耐えるように。


 アリサは、いつも通りの声を作って言う。


「大丈夫です。アリサが傍にいます。……いますから」


 返事はない。

 それでも、こわばっていた眉間が、ほんの少しだけほどけた気がした。


 アリサは祈るように、エルの頬に触れる。


 英雄なんかならなくていい。

 ただ、目を開けて――笑ってくれればいいのだ

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