一話
聖礼の儀――王族が成人として認められるための式である。
アルテリア王国の王家は、かつて聖剣に選ばれた一族。その象徴として、王都バルテーンの聖壇には今も聖剣が突き立っている。
もっとも、聖剣を引き抜けた者は五百年前の初代国王ゲイルバーグただ一人。
それ以来、聖剣は誰の手にも動かない「儀礼の象徴」になっていた――戦が再び始まった今も。
聖礼の儀は、その聖剣に手をかけ、神父から初代国王ゲイルバーグの御言葉をいただく。
そして、それを胸に刻むと誓う。儀式の内容だけ聞けば、実に簡素だ。
「エル様、お綺麗です」
「……それって、誉め言葉なの?」
「もちろんですわ」
お付きのメイド――アリサは礼服の襟を整え、満足そうに頷いた。
近づきすぎないのに、必要な時は迷いなく指先が伸びてくる。そういうところが、彼女らしい。
エルは鏡に目をやった。
礼服は仕立てが良い。だが、肩の線が細く見えてしまうのが、どうにも落ち着かない。襟元が妙にひやりとして、鎖骨のあたりに空気が触れる。
(……綺麗、か)
華奢な身体がコンプレックスのエルは複雑な気持ちになりつつも、数少ない味方の言葉に苦笑いで返した。
「エル様も、聖礼の儀を受けるお年になったのですね。アリサ、感無量です」
「アリサは大げさだなあ」
「だって誰もお祝いに来てくださらないのだもの。アリサくらいは大喜びしておかないと。……エレナ様だって、何もありませんでしたし」
「母さんは疲れてるんだ。しょうがないよ」
「でも、たった一人の息子の聖礼の儀ですよ。ひと言くらいあってもいいのに……」
エレナはエルの実の母親である。
エルを産んだのち側室として迎えられたが、後宮の闇が深かったのか、心を壊してしまった。父親同様、母親とも、エルは会話した記憶がほとんどない。
それでも今日くらいは。
ひと言くらい、声をかけてほしかった――そんな未練が、胸の奥でまだ燻っている。
「……アリサのその言葉だけで、僕は救われてるよ」
「まあ。なんていい子に育ったんでしょう。およよ」
アリサは綺麗な栗毛を揺らし、わざとらしく涙を拭う仕草をする。
緊張をほぐそうとしてくれているのだ、と分かるのが嬉しくて、エルは思わず口元をゆるめた。
「聖礼の儀はすぐに終わるさ。問題はその後だ」
ドウリー兄様の「戦場に送る」という言葉は冗談ではないだろう。
剣術も魔術も、王族として一通り習ってきた。だがエルはどれも人並みだった。
むしろ、いくら体を鍛えても筋肉があまりつかず、剣術などは人並み以下かもしれない。
腐っても王族だから、一兵卒に紛れ込まされることはない――そう言い聞かせても、戦場では死は平等だ。
「できれば文官の真似事でもしていたかったよ。ドウリー兄様も、なんであそこまで……」
「エル様は、もっと鏡をご覧になったほうがいいです」
「……なに?」
「美しいものは、嫉妬を集めるものです」
「さすがにそんなことで、殺そうとまでするかい?」
「男の嫉妬は醜いものです」
アリサの言い切りに、エルははあっと溜息をついた。
「とりあえず、聖礼の儀はさっさと終わらせてくるよ」
そう言って、エルは聖壇へ向かった。
***
「我が剣は己のために抜かれず、弱き者のために抜かれる──」
ライロール神父が、厳かな声で初代国王ゲイルバーグの御言葉を読み上げる。
聖壇の間には、まばらではあるが列席者がいた。
騎士団長ハインバル、宰相クリストン、軍部卿サリザード。国の重鎮たちだ。第十二王子とはいえ、成年の儀なのだから顔を出さざるを得なかったのだろう。
露骨に退屈そうな者もいる。
だが、この三人だけはしかめ面のまま、御言葉に耳を傾けていた。
「我は民を導くために剣を振り、弱き者を守るために剣を振る。……エル・アルテリア殿。汝はこの御言葉を胸に刻み、生涯忘れぬと誓いますか?」
「誓います」
声が、ほんの少しだけ上擦った。
自分でも分かる。エルは喉を鳴らし、呼吸を整える。
あとは手順どおりに、聖剣に手をかけるだけだ。
聖壇の中央に突き立つ聖剣の柄を握る。
冷たい金属の感触が掌に伝わり、指先がかすかに痺れた。
――子供のころは、この伝説に憧れた。
自分がこの場に立つことになるなんて、考えたこともなかったのに。
「……ん?」
違和感。
固く動かないはずの聖剣が――わずかに、きしむように揺れたのだ。
錯覚じゃない。柄を握る手に、確かな反動が返ってくる。
「えっと……?」
「どうなさいましたか、エル殿?」
ライロール神父の声が、遠く聞こえる。
(いや、まさか。そんなはずは――)
抜けそうだ。
喉の奥がひゅっと鳴る。
抜いていいのか。抜いたらどうなる。頭の中で言葉が渦を巻く。
けれど、ここで手を離すほうがよほど不自然だ。
半ば反射で、エルは力を込めた。
その瞬間だった。
聖剣が眩い光を放つ。
目を焼くような白光が弾け、何も見えなくなる。どよめきと悲鳴が混じった声が、どっと湧き上がった。
次いで、全身を貫くような痛みが走る。
骨の芯までかき回されるような熱が、身体の内側から吹き上がる。息をすることさえ忘れた。
「っ──!?」
ドン、と衝撃。
身体が後方へ弾き飛ばされる。受け身も取れない。視界が回る。
――だが、誰かの腕がエルを受け止めた。
「エル殿下……! お怪我は――……ん?」
声の最後が、妙に濁った。
その瞬間、エルの意識はぷつりと途切れた。




