十八話
カリッツ隊は身を低くし、岩と草陰を縫うようにして、できる限り魔族軍へ近づいた。
(落ち着け……落ち着け)
そう言い聞かせるほど、指先が冷える。剣の柄を握る感触だけが、妙に生々しい。
前方でナウマンが片手を上げ、止まれの合図を出した。隊がぴたりと止まり、呼吸の音さえ飲み込む。
ナウマンは口を動かすだけで、声はほとんど出さない。
「……次に火球を撃った瞬間だ。騒ぎになる。その隙に頭を叩く」
エルたちは岩陰に身を寄せ、息を整えた。膝をついた瞬間、太腿が小さく震えたのが自分でも分かって、奥歯を噛みしめる。
あとは――合図と同時に切り込むだけ。
「あいつです」
斥候のひとりが、指先だけで示す。
その先にいたのは、小柄な魔族だった。骸骨めいた仮面、角。――だが小さいのは背丈だけで、そこに立っているだけで周囲の空気が重くなる。
いつ気配を嗅ぎ取られるのか。いつ振り向かれるのか。
不安が、じわりと喉の奥へ張りついた。
アリサが低い声で言う。
「タイミングを見て氷の壁を作ります。あいつを切り離して、短期決戦。……そのあとすぐ撤退しましょう」
「頼む、アリサちゃん」
ナウマンが短くうなずいた。
「大魔法の直後は、同じ規模の魔法は続けて撃てないはずです。……その間を狙います」
アリサの言葉に、ナウマンは目だけで返す。
「……来る」
小柄な魔族が、すっと腕を上げた。片腕を空に突き出したかと思うと、空気が一段、熱を帯びる。
空に、巨大な火の玉が形を持った。
火球が動き出す――。
「行くぞ!」
ナウマンの低い号令。
隊は岩陰から滑り出るように走った。足音を殺しているはずなのに、自分の鼓動だけが耳の奥で暴れる。
遠くで爆音が弾け、熱波が遅れて頬を撫でた。
視界が開ける。そこに――あの魔族がいる。
思っていたより小柄だった。だが近づくほど、「小さい」とは言えなくなる。
鍛え抜かれた戦士のような身体つき。背筋だけがまっすぐで、周囲を押しのけるような圧がある。
そして、仮面の奥の視線が――まっすぐ、こちらへ向いた。
背筋が凍る。
(気づいた――!?)
魔族は笑った。
笑っているのに温度がない。人間の笑みの形だけを正確になぞった、空っぽの表情。
捕食者に睨まれた獲物みたいに、全員の動きが一瞬、硬直した。
その一瞬を叩き割るように、アリサが前へ出る。
「アイスウォール!」
轟、と氷が立ち上がった。
魔族と自分たちだけを、壁の内側に閉じ込める。
「今だッ!」
ハインバルが無理やり身体を動かした。
エルも続く。胸が痛い。手の中の聖剣が重い。重さではない。覚悟を試されるような圧だ。
(遅れるな――!)
魔族が、ただ手をこちらへ向ける。
それだけで空気が波のように揺れた。
先を走っていた兵が、見えない拳で殴られたみたいに、音もなく弾き飛ばされる。身体が空中で回って泥へ落ちた。
「っ……!」
ハインバルが斬りかかる。
だが魔族は、指先を軽く払っただけだった。ハインバルの剣筋が逸れ、岩に当たって火花が散る。
(……違う)
強い、とかじゃない。
格が違う。ハインバルが、相手にもされていない。
魔族の仮面が、わずかに傾く。
次に向いたのは――アリサだった。
「……魔術師か」
ただ手を翳しただけに見えた。
次の瞬間、アリサの身体が宙に浮く。引き剥がされるように後ろへ引かれ、氷壁へ叩きつけられる。
乾いた音。
アリサが血を吐いた。
「アリサ!」
エルの声が裏返る。
「うおおおおっ!」
ハインバルが叫び、剣が夜に一本の線を引いた。
――だが。
魔族は、その刃を掴んだ。
じゅ、と嫌な音。
次の瞬間、剣がどろりと溶け落ちる。金属が泣くみたいに垂れた。
エルの喉が鳴った。冷たい汗が背中を流れる。
魔族が指を振る。
空を切るだけの動きから、斬撃が生まれた。
ハインバルが膝をつき、崩れ落ちる。
(嘘だろ)
騎士団長のハインバルが。こんな、あっさり。
エルは足が止まりそうになって、無理やり前に出た。
止まったら終わる。
魔族と目が合った。
音が消える。
耳鳴りだけが残り、身体が宙に浮く。地面の感触がない。指先から力が抜け、聖剣が滑り落ちそうになる。
「……アイスランス!」
アリサのかすれ声。息も絶え絶えだ。
氷の槍は、魔族に届く前に弾けて消えた。
だが、その“一瞬”。エルを縛っていた力がほどけ、身体が地面へ落ちる。
膝が泥を打つ。痛い。
痛みがある。生きてる。
顔を上げると、アリサが前に出ていた。
足元がふらつき、肩が震えている。それでも、エルの前に立つ。
「ノエル様に……指一本、触れさせません」
(まただ……また守られている)
悔しい。悔しくて、息が詰まる。
魔族が手を翳す。
アリサが首を絞められているようにもがき、足が宙を蹴る。
「アリサ……!」
(こんなんじゃだめだ)
(守るって言ったのに)
(守られてばっかりじゃ、何も変わらない)
「ノエル……様……逃げ……て……」
アリサの声が細い。
その細さが、刃みたいに胸に刺さる。
エルは聖剣を拾い上げ、抱きしめるように握った。小さい手が必死に柄にしがみつく。
(力がほしい)
(アリサを守る力が)
(みんなを守る力が――)
その瞬間だった。
聖剣が熱を持った。
掌の熱じゃない。剣そのものが、内側から息をするみたいに温度を上げる。
白い光が、じわりと刃を満たしていく。
霧の輪郭が浮き、泥の一粒がきらりと光る。
――王都で感じた光より、ずっと強い。
「……なんだ、これは」
視界が澄む。耳鳴りが遠のき、心臓の音が一拍ずつ整っていく。
魔族の声が、初めて揺れた。
「それは……小娘。なぜ、おまえがそれを持っている」
答える暇はなかった。
気づいたときには、エルは走り出していた。
身体が軽い。身体の奥から、力が溢れ出てくる。
怖い気持ちもある。
でも、そのまま踏み込む。
「――えいっ!」
声が少し高くなる。でも、構わない。
今、必要なのは格好じゃない。届くことだ。
無我夢中で聖剣を振りかぶる。
今まで動じなかった魔族が、初めて受け身に回った。
影のように黒い杖が、掌から生えるように現れる。
杖が聖剣を受け止めた瞬間、禍々しい魔力が爆ぜる。
空気が粘つき、喉の奥が焼けるように痛い。
――それでも。
杖に、ひびが入った。
魔族の赤い目が細くなる。驚きか、怒りか。
次の瞬間、杖が折れた。
そして、魔族の腕にも浅い傷が走る。
どす黒い血が一滴、落ちた。
(通った)
魔族が折れた杖へ魔力を注ぐ。ひびが塞がり、形が戻る。
後退しながら、杖を振りかぶってくる。
「……っ」
エルは歯を食いしばり、剣へ力を込めた。
背後で、絞められていたアリサが息を吐く。
「……アイスランス!」
氷の槍が、魔族の仮面――目の位置へ突き刺さる。
仮面がひび割れ、赤い光が一瞬だけ乱れた。
「今です、ノエル様!」
背中でアリサの声が弾ける。
エルは全身の力を注ぎ込んだ。
聖剣の白い光が一帯を包み、視界が白く潰れる。
「――ウガガガガ……!」
魔族の叫び。
二人を中心に、これまで感じたことのない衝撃が生まれる。遠い方角からも魔族の叫び声が混じった。
どれほどの時間が経ったのか。
聖剣が、エルの力を吸い取りきったように震えを止める。
光がすっと引いて、世界が元の明るさに戻った。
そこには――もう魔族の姿はなかった。
いや、そこにいたものの輪郭が崩れ、灰のようになって散っていく。
風にさらわれ、指の間からこぼれる砂みたいに、消えていった。
足元がぐらりと揺れる。
(……だめだ、立って)
そう思ったのに、膝が折れる。
先ほどまで溢れていた身体の力が抜けていくようだった。
最後に見えたのは、地面に手をついたアリサの横顔だった。
(……また守られた)
でも――今度は、守り返せた気がした。
そう思えたことだけが、救いだった。
エルは、そのまま意識を手放した。




