十七話
闇に紛れて、エルたちはハウラーベ川を渡った。
先頭のアリサが息を吐くたび、足元がぴき、ぴきと細く鳴って凍り、薄い氷の道が伸びていく。
水面に張った氷は頼りなく、星明かりを受けて青く震えた。
音を殺すため、誰も声を出さない。吐く息さえ惜しい。
それなのに、エルの鼓動だけが耳の奥でやけに大きい。
(落ち着け……落ち着け)
そう言い聞かせるほど、指先が冷えていく。
背負っている兵の浅い呼吸が、背中にじかに伝わる。
氷の道を踏み外せば、この暗闇の中、川に呑まれる。
どれほど進んだだろう。
ようやく対岸の影が、はっきり形を持ちはじめた。
アリサとハインバルが先に岸へ上がる。
ハインバルが周囲に視線を走らせ、低い声で言った。
「……気配はない。このまま川沿いに進みましょう」
ナウマンが短くうなずく。
エルもようやく息をつく。見つかる危険は、これでだいぶ小さくなった。
川沿いを進むうちに、空がじわじわと白んでくる。
いつの間にか夜が薄れ、冷たい朝の気配が忍び寄っていた。
エルは白い息を吐きながら、力を振り絞って一歩一歩踏みしめる。
やがてナウマンが、前方を睨みつけたまま言った。
「……そろそろ砦が近い。だが、このまま行くと川が南へ蛇行して山側に入っちまう」
湿った土の匂いに混じって、水音が大きくなる。
見れば、ハウラーベ川が緩やかに曲がり、行く手を塞ぐように横たわっていた。
「もう一度、渡るぞ」
ナウマンは声を落として続ける。
「アリサちゃん。……もう一回、道を作れるか」
アリサは頬の汗を拭う間もなく、小さくうなずいた。
「……はい。大丈夫です」
アリサが魔力をこめると、水面がきしむ音を立てて凍り始める。
薄い氷の道が、今度は朝の光を受けて白く透けた。
(この川を越えれば、ようやくハウバーヘン砦だ)
脚は鉛みたいに重い。腕も感覚が薄い。
それでも、もう少しと分かった途端、身体が前へ出た。
凍った川面を、一歩、また一歩。
氷が鳴るたび、心臓が跳ねる。
川を三分の二ほど渡ったころ。
遠くに――砦の輪郭が見えた。
カリッツ隊の中に、ほんのわずかな活気が戻る。
誰かが、言葉にならない息を漏らした、その時だった。
はるか遠くで、火の玉がふわりと浮かび上がる。
次の瞬間、それは一直線にハウバーヘン砦へ走り――弾けた。
※※※
遠いはずなのに、爆音は腹の底を叩いてくる。
遅れて衝撃が頬を撫で、氷の下の水が、どぷん、と大きく揺れた。
――ぴし。
足元で、嫌な音がした。
エルは反射的に息を呑む。
凍った川面に、細い亀裂が走っている。朝の光が、そこだけ不自然に揺れた。
先頭のアリサが立ち止まり、小さく何かをつぶやく。
亀裂の縁が白く盛り上がり、氷が縫い合わされるように固まっていく。
だが、アリサの息は明らかに荒い。
「砦が攻撃されてる……」
「崩れてはいない。――防御が働いたんだ」
前方から声が上がる。
エルが砦を凝視すると、確かに輪郭は保たれていた。黒煙が立ち上っているが、あの一撃を耐えたらしい。
ナウマンが短く指示を飛ばす。
「まずは渡りきる。足を止めるな。周囲警戒!」
隊は氷の上を急いだ。
遠目には、対岸に魔族の姿はないように見える。
ようやく対岸へ転がり込むように上がり、岩陰に負傷者を下ろす。
皆が肩で息をし、誰もが一度だけ地面を確かめるように手をついた。
斥候が一人、身を低くして先へ出る。
戻ってくるまでの時間が、やけに長く感じられた。
「防御魔法……あれ、あとどれくらいもつんだろ」
エルがこぼすと、アリサが小さく首を振る。
「あの規模の防御は準備にも時間が要ります。……大魔法を正面から受けられる回数は、そう多くないはずです」
「ってことは、いずれは――」
ナウマンが言いかけて、口を閉じる。
誰も続きを言わない。言えば、現実になる気がした。
そのとき、斥候が戻ってきた。息が白く、顔が強張っている。
「砦の周囲……魔族が囲んでます」
空気が、一段冷えた。
「それと……頭らしいのが一体。さっきの大魔法を撃ったと思われます」
「どんなやつだ」
ナウマンが問う。斥候は少し考え、言葉を選んだ。
「……小柄でした。けど、周りに指示を出してた。上位個体です。多分、あれが指揮官です」
「なるほどな……確かにあんな魔法はそう見ない」
斥候が、もう一歩踏み込む。
「それで……もう一つ。俺たち、今なら裏を取れます。相手はまさか川を渡ってくるとは思ってない。タイミングさえ合えば――頭に仕掛けられる」
提案が落ちた瞬間、誰も言葉を継がなかった。
成功すれば砦は助かるかもしれない。
失敗すれば――帰れない。
視線が、いつしかエルへ集まっていた。
ナウマンが、苦い顔のまま言う。
「……ノエルちゃん。二手に分かれる。ノエルちゃんたち三人は、怪我人と一緒にここに残れ」
エルの喉が鳴る。
「俺たちは……次の火球が来て騒ぎになる瞬間に、頭を叩く。あいつ一体落とせば、戦況は変わるかもしれない」
隊員たちが静かにうなずいた。
誰も、英雄ぶった顔をしていない。ただ、やるべきことを決めた顔だ。
ハインバルが膝をつき、エルを見上げる。
「ノエル殿。あなたはここで死んではいけない。逃げるのもまた――務めです」
アリサも、エルをじっと見つめている。
エルは息を吸い、吐いた。胸の奥が痛い。
「わかってる……わかってるよ」
でも、と続けた言葉が喉で詰まる。
何もできなかった昨夜の様子が、まだ腹の底に沈んでいる。
エルは聖剣の柄を見た。
ただの剣みたいに、何も語らない。
「……僕は王族だけど、聖剣の使い手でもある」
アリサが思わず声を上げる。
「だからって……! ノエル様、今は――」
「今まで、守られてばかりだった」
エルは、自分の声が震えているのを自覚した。
それでも、目だけは逸らさない。
「もし力があるなら、使わなきゃいけない。……逃げてばっかりじゃ、いられない」
アリサの瞳に涙が浮かぶ。
エルは、苦い笑いを作ろうとして、うまくいかなかった。
「心配しないで。……そう簡単に死なない」
エルはナウマンへ視線を戻す。
「悪いけど、僕も行く」
一瞬の沈黙。
それからナウマンが、鼻で笑った。
「わかった。わがままな王女様だな」
隊の中から、かすかな笑みがこぼれる。
怖さが消えたわけじゃない。
ただ――背中を押す程度の温度が戻った。
「……よし。決めた」
ナウマンが短く言う。
「動けるやつは装備を軽くしろ。負傷者はここに隠す。――行くぞ」
そして皆が、もう一度だけ砦を見た。
黒煙の向こうで、次の火球が上がるかもしれない――そんな予感が、空気に混じっていた。




