十六話
魔族を撃退してから、さらに数時間歩いた。だが、ハウバーヘン砦はまだ遠い。
カリッツ隊の隊員たちは――エルも含めて、疲弊しきっていた。
「……あと二時間はかかるか」
先頭を歩く副隊長――ナウマンが、喉の奥で砂を噛むような声で呟く。
その直後、ハインバルが足を止め、周囲へ視線を走らせた。
「魔族の気配があります。いったん岩陰へ」
誰も異を唱えない。返事すら省いて、列が岩の影へ滑り込む。
本来なら、もう砦に着いていてもおかしくない。だが周辺に魔族が出没しており、迂回を重ねるうち進路は大きく南へ振れていた。
カウレッツェ平野は見晴らしがいい。けれどこの一帯は岩が露出し、身を隠せる陰が点在している。
耳を澄ませば、水音が近い。
カウレッツェ平野を東西に貫くハウラーベ川だ。
「水を汲んできます」
隊員の一人が短く言って川へ向かった。残った者たちは怪我人を下ろし、岩陰へ身を寄せるように腰を落とす。
濡れた息が、白い煙になって消えた。
「……カリッツ小隊長は、どうですか」
エルが問うと、ナウマンは苦い顔のまま視線を落とした。
「意識は戻ってない。だが、まだ息はある」
「……私のせいで……」
言葉が漏れた瞬間、ナウマンは即座に首を振る。
「ノエルちゃんのせいじゃない。これは戦争だ。……みんな、覚悟してここにいる」
慰められているのはわかる。
それでも胸の重さは消えなかった。
(なぜ聖剣の力は使えなかった……? 僕の力が足りないのか)
少し離れた場所で、ハインバルとアリサが小声で言葉を交わしている。
エルは少しでも体力を回復させようと、深く息を吸い、吐いた。肺の奥が痛い。
やがてハインバルが戻ってくる。
鎧の音さえ抑えた歩き方だった。
「ノエル殿。状況が状況です。ここにいる皆さんへ、ある程度の事情を共有したい。よろしいですか」
確認するように、ハインバルがエルの目を覗き込む。
自分が何者か。聖剣に関わること。隠し続けるのは確かに心苦しい。
エルは小さくうなずいた。
「構わないよ。……ここにいるみんなのことは信頼してる」
「承知しました。ただし、あの件は伏せた形で」
水を汲みに行った兵が戻ってきたのを合図に、ハインバルが一歩前へ出た。
カリッツ隊の視線が一斉に集まる。
「皆さんに、我々について話しておきたいことがあります」
「……どうした。そんな改まって」
ナウマンが低く返す。隊員たちも戸惑った顔で互いを見た。
ハインバルは兜を外し、岩の上にそっと置く。夜気の中に、端正な横顔が露わになる。
「私はハインツ……ではありません。ハインバル。王国騎士団長です」
ざわり、と空気が揺れた。
だが誰も茶化さない。今の戦場が、軽口を許さない。
ハインバルは視線をエルへ向け、言葉を選ぶように続けた。
「そして――ここにいるノエル殿は……」
一斉に視線が刺さる。
エルは喉が鳴るのを飲み込み、背筋を伸ばした。
「ノエル・アルテリア殿下。アルテリア王国の王女でございます」
その瞬間、誰かが小さく息を吸った。
固まった顔が並ぶ。驚きで、言葉が出ない。
※※※
朝が近づく頃、斥候に出ていた兵が戻ってきた。息が白く、肩で呼吸をしている。
「周囲に魔族がうろついています。……このままだと、いずれここも見つかります」
報告を聞いた途端、岩陰の空気がさらに重く沈んだ。
「……強行突破するか」
ナウマンが絞るように言う。
すぐに別の隊員が荒い声で返した。
「怪我人もいる。次に当たったら、さすがに終わりだぞ」
短い沈黙。
ナウマンの視線が、怪我人たちへ滑る。歯を食いしばる音が聞こえそうだった。
「……なら、動ける者だけで先に行く」
誰かが息を呑んだ。
「置いていくってことか?」
答えは出ない。返事のない沈黙が、いちばん残酷だった。
胸の奥が冷たくなる。
エルは疲れで足が鉛みたいだったが、それでも立ち上がった。
「……私のことを考えての判断なら、やめてほしい」
思ったより声が通った。皆の目が一斉にこちらへ向く。
ナウマンは眉をひそめ、すぐに首を振る。
「殿下――……いや。そういう話じゃない。どっちにしろ、このままじゃ全滅の可能性がある」
「わかってる。でも――まず、みんなで帰る方法を考えよう」
エルは一度だけ深く息を吸った。
「それと呼び方は……今まで通りでいい。ノエルちゃんで」
その一言で、張り詰めていた空気が、ほんのわずか緩む。
ナウマンが苦い顔のまま、短くうなずいた。
「……わかった。ノエルちゃん」
エルはカリッツ隊を見渡した。
目の下に濃い影。指先は震え、でも誰も背を向けていない。捨て置く覚悟までは――まだ飲み込めていない。
遠くから、川の流れる音が絶えず届く。
その川音が合図となり、ひらめきを呼び起こした。
「……川を渡るのはどうだろう」
「川を?」
「川を越えて、大きく迂回して砦へ向かう。川の向こうには魔族もいないだろう」
「だが、この暗さだぞ。怪我人もいる……」
隊員が言いかけて口をつぐむ。
エルはアリサを見やった。
「アリサ。……川を凍らせられない? 氷の道を作って、歩いて渡る」
アリサは一瞬だけ唇を噛み、川の方角を見つめた。
そして、はっきりとうなずく。
「……できます。範囲は限られますが、道くらいなら作れます」
ナウマンが顎に手を当て、素早く計算するように目を動かす。
「……なるほど。速度は落ちるが、見つかるよりはマシだ」
短く息を吐き、決断する。
「よし。ノエルちゃんの案で行く。渡河の準備だ。怪我人は先に運ぶ。転んだら終わりだ、声は出すな」
隊員たちが静かに動き出す。
アリサが袖をまくり、手のひらを冷たい夜気に晒す。白い息が指先に絡む。
夜の川へ向かう列は、足音さえ殺すように――闇の中へ溶けていった。




