十五話
魔族は本来、小細工を弄することを好まない。
暴力で圧倒するだけでも、人間を滅ぼす力がある――そう信じている。
しかし、魔族は一度負けた。
その事実が、傲慢を削り、警戒を生んだ。
だから今回の戦争では、いくつかの策が仕込まれている。
カルバンが王都に潜入していたのも、その一つだった。
そのカルバンが消息を絶った。
魔族側にとって、それは衝撃だった。
カルバンは愚かではない。
万が一潜入が露見しても、逃げ切る程度の腕はあったはずだ。
「聖剣の力が復活したのでは?」
「いや……人間側でも、そういう話は出ていないらしい」
侵攻は、ゆっくりだが確実に魔族側が押していた。
しかも魔族は、まだ全力を出していない。
警戒しているのは、聖剣。
あれだけが戦局をひっくり返す。
ゆえに前線に出しているのは、下級魔族――力の弱い者たちが中心だ。
下級といえど、個の力で見れば人間の兵士など容易く凌駕する。
「俺が出よう」
「なっ……マルス様が」
「人間の軍を叩く。聖剣が生きているなら、必ず姿を見せる」
カルバンの失踪を受け、ついにマルスが動いた。
魔族幹部「五曜将」の一人――マルス。
マルスが詠唱を始めた瞬間、空気の密度が変わる。
大地が軋むように震え、魔力が濃くなる。
「ファイア・イグニス」
呟きと同時に、隕石じみた火球が空中に出現した。
熱波が広がり、周囲の空気が焼ける。
人間軍が騒然となる。
だが――遅い。
火球は前線へと走り、弾けた。
爆発。
衝撃が地を抉り、肉の焼ける死臭が立ち上る。
「……二発目だ。ファイア・イグニス」
マルスは楽しげに笑った。
逃げ惑う人間の列へ、二つ目の火球が落ちる。
「さて。何が出てくるか」
マルスは視線を細め、命じる。
「追い打ちをかけろ。深追いはするな。聖剣の力が確認できたら、即座に報告しろ」
命令が下った。
下級魔族の一人――ファリルが走り出す。
逃げ惑う人間を、ひとり、またひとりと狩っていく。
(本当に聖剣は復活しているのだろうか)
追撃は続き、やがて夜になる。
「……ふむ」
闇の向こうに、人間の一団がいた。
数はやや多い――だが、ファリルは嗤った。
(問題ない。俺の力なら、まとめて潰せる)
ファリルは踏み込み、影のように襲いかかった。
※※※
最初に切りかかったのは、ハインバルだった。
エルの目には残像しか映らないほどの踏み込み。重い鎧が空気を裂き、渾身の一撃が真上から叩き落とされる。
仕留めた――そう錯覚するほどの一刀。
だが魔族は、右腕をすっと持ち上げただけだった。
刃が触れた瞬間、ガン、と嫌な音が夜気に響く。
それでも、傷ひとつついていない。
「アイスプラント!」
アリサの声が弾ける。
地面から伸びた氷の蔦が、魔族の足へ巻きついた。
――だが、魔族は動じない。
腕を軽く振っただけで、ハインバルの巨体が後方へ弾き飛ばされる。
地面を転がり、鎧が鳴り、砂が散る。それでもハインバルは立ち上がり、攻め手を止めなかった。
呼応するように、カリッツ小隊長たちが四方から斬りかかる。
その輪の外で、エルだけが一拍遅れていた。
存在感に飲まれて、足が、ほんの一瞬すくむ。
(……僕も、やらなきゃ)
魔族を目の前にしても、聖剣は反応しない。
それでも、かき集めた勇気を握りしめるように、エルは聖剣を握り直して駆けた。
カリッツたちの刃は、当たっているように見える。
しかしよく見れば、魔族の身体の表面に薄銀色の膜――盾のような“シールド”が張られていた。
刃がそこに触れるたび、火花が散るだけ。傷は入らない。
魔族は虫けらを払うように剣戟をいなし、一人、また一人と叩き伏せていく。
エルの斬撃も――同じように、軽く受け流された。
(なんで……なんで聖剣の力が出ない。何か制約があるのか)
魔族が腕を振るう。
拳がエルの腹に突き刺さり、息が止まった。
「……っ」
「ノエル様!」
アリサの声が跳ねる。
エルは弾き飛ばされ、地面へ倒れ込んだ。
「弱いな、人間ども」
初めて、魔族の声が届く。
地を這うような低い響き。
アリサとカリッツたちが、エルを守るように立ちふさがる。
「ふむ……そいつは何か特別なのか」
それまで人間を“物”のように扱っていた魔族が、初めて「興味」を示す。
仮面の黒い眼窩の奥で、赤い目がぎょろりと動き、エルを捉えた。
視線が、頭の先からつま先まで、ねっとりと舐めるように滑っていく。
「大した力もない……なんてことない小娘だが……」
「うちのアイドルでね。傷つけたらカリッツ隊がタダじゃおかねえぜ」
カリッツが、にやりと笑う。
「はああっ!」
割って入ったのはハインバルだった。
エルと魔族の間を断ち切るように飛び込み、一振り、二振り。連撃が火花を散らす。
さすがの魔族も、半歩――いや、ほんのわずかに後退した。
「うっとうしい」
短い言葉とともに、ハインバルの体がまた吹き飛ぶ。
鎧が地を擦り、鈍い音が遠ざかる。
「面白い。まずお前から殺してみよう」
氷の蔦に絡め取られた足をものともせず、魔族はアリサとカリッツたちを弾き飛ばす。
そして今度は、明確にエルへ歩み寄ってきた。
エルは呼吸を整え、聖剣を両手で握り直す。
全身が痛む。だが、ここで折れるわけにはいかない。
(どうして……聖剣は反応しない。……また、みんなに守られている)
「――えいっ!」
全力で振り下ろす。
だが刃が届く前に――
がし、と。
魔族の大きな手が、エルの腕を掴み取っていた。
引き抜こうとしても、びくともしない。
握る力が、じわじわと強くなる。骨が軋み、腕の奥が熱く痛む。
「あ、ぁ……っ」
声が裏返りそうになるのを、噛み殺せない。
魔族の赤い目が、玩具を壊す前の子どものように愉快そうに細められた。
――そのとき。
「おいッ!」
背後から、カリッツ小隊長の怒鳴り声が炸裂した。
いつの間にか魔族の背に飛び乗った彼が、首元へ腕を絡めるようにしがみつき、短剣を構える。
「タダじゃおかねえって言ってるだろ!」
次の瞬間、短剣の切っ先が、魔族の片目へ突き立った。
「ウガッ!」
はっきりした悲鳴。
掴まれていた腕が解放され、エルはその場に崩れ落ちた。痛みで視界が揺れる。
「カリッツ小隊長……!」
手を伸ばしかけた、その一瞬で。
魔族はカリッツを片手でつかみ上げ、乱暴に――投げ捨てるように地面へ叩きつけた。
鈍い音。
カリッツは、ぴくりとも動かない。
「アイスランス!」
間髪入れず、アリサの詠唱が響く。
夜空から降り注ぐように氷の槍が生まれ、その一本が魔族のもう片目を貫いた。
「……はぁ、はぁ……許さない……!」
息も絶え絶えに吐き捨てるアリサの声は、それでも揺れていなかった。
両目を押さえてのたうつ魔族の前に、ハインバルが戻る。
砂と血にまみれた鎧が、ぎり、と鳴った。
「外が無理なら、中だ」
鋭い踏み込み。
突き出された剣が、魔族の大きく開いた口内へ吸い込まれるように入る。
ぐ、と鈍い手応え。
魔族の呻きが喉の奥で潰れ、巨体が膝から崩れ落ちた。
それでもハインバルは剣を引き抜かず、ねじるように押し込み、最後まで動きを止めない。
やがて、巨体はぴくりとも動かなくなった。
「ノエル様!」
アリサが駆け寄り、エルの顔を覗き込む。
涙はない。だが、瞳の奥が必死だ。
「……腕を、ちょっと痛めただけ。平気……」
痛みで言葉が細くなる。それでも、笑おうとして失敗する。
「駄目です。今、顔が真っ白です」
「平気だって……」
言い張った瞬間、遠くで怒鳴り声が上がった。
「カリッツ小隊長! ……意識が――!」
「まだ息はある! 動ける者は負傷者を背負え! 急いで離脱する!」
現実が、音として戻ってくる。
撤退の列が動き出す。闇の中で、人が人を支え合って流れていく。
(僕は……何もできなかった)
悔しさが、胃の底に沈む。
それでもエルは、痛む腕で近くの負傷兵の身体を抱え上げた。
「ノエル様、本当に無理しないでください!」
「……大丈夫。せめて、これくらいは……」
足がふらつく。視界の端が暗い。
それでも、よろめく身体を前へ押し出し、撤退する部隊の列へ合流した。




