十四話
補給部隊に配属された初日、エルは戦場の匂いにくらくらしていた。
汗と馬と油脂の匂い。干しきれない濡れ布の匂い。
そして――血の匂い。薄くても、ずっと鼻の奥に残る。
少女の身体になってからというもの、匂いに敏感になった気がする。
エル一行はハウバーヘン砦を離れ、さらに内側の補給拠点へ案内された。砦から半日ほど移動した場所にある。
通された詰所は天井の低い木造の小屋で、床板の隙間風が冷たい。
二段ベッドに粗い毛布。王都の寝台の柔らかさを思い出し、エルは一瞬だけ喉を鳴らした。
(……来たんだな。本当に)
「ノエル様、顔が固くなっています」
背後でアリサが小声で言う。
その声があるだけで、張りついていた緊張が少し解ける。
「固くなってないよ」
「固いです。眉間が、ぎゅって」
「……それは、もともとだよ」
言い返すと、アリサが肩をすくめて笑った。
ハインバルはいつもどおり無口で、出入口の位置を確認するように視線を動かしている。鎧の肩がわずかに鳴った。
その日の午後、さっそく荷の仕分けを命じられた。
矢筒、乾パン、塩、布、薬草、包帯。思った以上に荷物が多かった。
「お、来た来た。新入りの――ええと、ノエルちゃん、だっけ?」
振り向くと、補給部隊の小隊長カリッツが肘で部下を小突きながら近づいてくる。
がっしりした体格に似合わず、声はやけに軽い。
「ノエルちゃん、その荷物持ってあげようか?」
「……いえ、大丈夫です」
エルはきっぱり答えて木箱を抱え直した。
腕いっぱいの箱は、抱きしめるように持たないと落ちる。胸の前で視界が狭まり、つま先が見えない。
周囲から、ひゅーひゅーと冷やかしの声が飛ぶ。
「聞いたかカリッツ、フラれたぞ」
「そりゃそうだろ、お前の顔が怖ぇんだよ」
「はは。ひでえな、おい」
カリッツは笑っているだけだ。
笑いながら、エルの箱の下にそっと手を添えてくる。
「……持てますよ」
自分に言い聞かせるように呟くと、カリッツはあっさり手を引いた。
「かわいいのに偉いな。……運んでくれ」
呑気な声に、エルは少しだけ肩の力が抜けた。
※※※
補給の仕事は地味だが、忙しい。
荷札を読み、縄を締め直し、馬車の板を叩いて割れを探す。
最初の数日は、縄の結び方ひとつまともにできず、エルは何度もやり直した。
「結び目が甘いです。これでは走ったときに外れます」
「……こう、かな」
ハインバルの指摘はいつだって淡々としている。
結び直す指先が、すぐに赤くなる。手が小さくなった分、縄が指に食い込みやすい。
夕方、手のひらを見たアリサが顔をしかめた。
「……豆、できてますよ」
「大丈夫だよ。これくらい」
「大丈夫じゃありません。ノエル様の可愛い手が台無しです」
「……戦場にいる以上、仕方ないよ」
むっとしながらも、アリサに軟膏を塗られると、熱がすっと引いていく。
(……守るって決めたのに、守られてばかりだ)
その夜、詰所の外でこっそり素振りをしていると、補給部隊の隊員がいつの間にか集まってくるようになった。
最初は遠巻きだった。
次に、勝手に賭けが始まった。
「今日、ノエルちゃん、何回振ると思う?」
「百。いや、二百いくな」
「腕ぷるぷるで倒れる方に銀貨一枚」
「聞こえてるんですけど」
エルが冷めた口調で言うと、笑い声が返る。
悪意ではない――そう分かる程度には、エルも彼らの空気に慣れてきた。
ハインバルが木剣を握り、エルの前に立つ。
「構えてください」
「……はい」
木剣の先が、ほんの少し揺れる。応援の声が飛ぶが、目をそらさない。
(このまま魔族に会わなければいいのにな――)
ふと、そんな甘い考えが頭をよぎる。
自分で自分を殴りたいほどの弱さだ。
「行きます」
木剣がぶつかり、乾いた音が夜に響く。
ハインバルは容赦なく弾き、エルの剣が跳ねる。
息が整うのを待たずに、木剣を拾って再度打ち合いに臨んだ。
いつしか見物の兵たちは、笑いを引っ込めて真顔で見ていた。
翌日、カリッツが何でもないふうに言った。
「ノエルちゃん。今日、荷台に乗ってみるか」
「……荷台?」
「前線まで運ぶ。吐くなよ」
エルの仕事は少しずつ増えていった。
お嬢ちゃんと呼ぶ兵もいるが、舐められているのではなく、受け入れられているのだと感じる。
仕事にも慣れ、居場所ができていくのを感じた。
※※※
その夜、エルは寝台の上で目を閉じても、なかなか眠れなかった。
「……寒い」
木造の小屋は隙間風が入ってくる。夜になると冷え込み、硬いベッドは寝苦しい。
上の寝台から衣擦れがして、アリサがそっと降りてくる気配がした。
「ノエル様」
返事をする前に、毛布がふわりとかけ直される。
それだけで寝苦しさが少しだけ引いた。
「……起こした?」
「いいえ。起きてました」
アリサは言い訳みたいに笑い、エルの手を探るように握った。温もりが伝わってくる。
「ノエル様は頑張りすぎるので、アリサは心配です」
「アリサは心配性だな。僕は大丈夫。みんなやさしいしね。王宮より居心地がいいくらいだ」
「それはそれで問題な気もしますが……。くれぐれも焦らないでくださいね」
「わかってる。聖剣の力も、まだよくわかってないしね」
早く、アリサに心配されないくらい力をつけたい。
守りたいものを守れるくらいには。
エルは握り返す力だけ、ほんの少し強くした。
※※※
補給部隊に配属されてから、一か月が経ったころだった。
その日も、前線へ物資を送り届けた。
帰りは怪我人を後方へ運ぶ。荷台の上では、包帯だらけの兵士がうめき声を漏らしている。
「補給部隊が襲われることはないんですか?」
手綱を握るカリッツ小隊長に、エルは前から気になっていたことを口にした。
「大軍に兵法無しって言うだろ?」
「大軍……?」
「数も力も、あちらが上なのさ。だから奇策も奇襲も使う必要がねえ。
正面から押して、時間かけりゃそれで十分ってわけだ」
「じゃあ、補給部隊の私たちは……」
「そう簡単には狙われねえさ。――まあ、だからって警戒がいらねえって話でもねえけどな」
カリッツは肩をすくめて笑った。
その言葉に、エルはほんの少しだけ息が抜けた。――その瞬間だった。
地面のずっと先。前線の方角で、腹の底を揺らす轟音が鳴り響いた。
遅れて乾いた衝撃波が頬を打つ。
「……今の、なに?」
荷台から身を乗り出すと、遠くの丘の上で土煙が上がっている。
前線陣地の一角が、ごっそり抉り取られていた。
「前線が……?」
かすれた声をかき消すように、別方向からも爆音が続く。
黒い煙の向こうで、何かが蠢いた。
人の形をしているようでいて、節の多すぎる腕。
骸骨じみた仮面の奥で、赤い眼光だけが瞬いている。
「魔族だ……!」
誰かの叫びとほぼ同時に、前線から鐘の音が鳴り渡った。
退却を告げる合図だ。
「前線が総崩れだ! 急いでハウバーヘン砦まで戻るぞ!」
怒鳴り声が飛び交い、兵士たちが雪崩れるように走り出す。
負傷者を抱えた者、武器を捨てて逃げる者、怒号と悲鳴が入り交じる。
エルも、担架の端を握りしめて走り出した。
振り返る余裕はない。ただ、崩れていく前線と、そこに流れ込んでいく黒い影だけが、網膜に焼き付く。
――補給部隊の自分たちは安全だ。
さっきまでのカリッツの言葉が、頭の片隅で空しく反響する。
こうして、エルたちはアルテリア王国軍の大規模な撤退戦に、否応なく巻き込まれていった。
※※※
撤退は、深夜になっても終わる気配を見せなかった。
いつもなら日が沈む前に野営の準備を始めるところだ。だが今は、そんな余裕はどこにもない。
荷物は必要最低限だけを選び、残りはすべて置いてきた。
担架も解体し、負傷兵はそれぞれが背負って運んでいる。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい? まずくなったら俺を置いてってくれ」
背中から、かすれた声が耳に届く。
「馬鹿なこと言わないでください。これでも鍛えているんです」
エルは息を切らしながらも、わざと強い声で返した。
男の体温と血の匂いが、いやでも現実を突きつけてくる。
「静かに。……誰か近づいてくる」
先頭を行くカリッツ小隊長の低い声が響く。
全員が一斉に口をつぐむと、夜の静寂が戻ってきた。
その静寂の中に――チリチリと、蛇が地面を這うような不快な音が混ざる。
暗闇の向こうから、ぬうっとそれが姿を現した。
三メートルはあろうかという巨体。頭からは湾曲した角が二本伸び、顔には人の骸骨を思わせる仮面をつけている。
喉がひとりでに鳴った。
足が逃げ出したがっているのに、背の重みがそれを許さない。
補給部隊の兵たちが次々に荷を降ろし、武器を抜いた。
「幸い、一体だ。……何とか切り抜けるぞ!」
カリッツの掛け声に、男たちが「おう!」と短く応じる。
負傷兵たちは地面にそっと下ろされ、エルも背から男を降ろした。
剣を抜く音が、闇の中で連鎖する。
その輪の中に、エルも聖剣を握りしめて立った。




