九話
少し腹立たしいことに、聞き込みではエルの容姿が役に立った。
困ったように首を傾げて見上げるだけで、特に男たちは妙に親切になる。
けれど得られるのは、だいたい噂話だ。
街のチンピラが怪しいだの、最近羽振りのいい貴族がいるだの——どれも決め手に欠ける。
日も暮れてきて、歩く人影もまばらになってきた。
「うーん……これといった情報が出てこないな」
「聞き込みなら、ギルドや騎士団も動いているでしょう。そうそう新しい話は拾えません」
ハインバルが、仕方ないと言いたげに答えた。
そして、声をさらに落として続ける。
「……顔に出さず聞いてください。先ほどから、何者かにつけられています」
「……犯人だろうか?」
「分かりません。別口の可能性もあります」
「どこにいるか分かる? 捕まえられない?」
「いえ。位置までは特定できません。荒事に慣れているのでしょう。——視線だけが、ずっと刺さる」
「僕には分からないけど……ハインツが言うなら、そうなんだろうな」
エルは少し考え込み、小さな声で続けた。
「……ねえ。僕を囮にするのはどうだろう。僕が一人になれば、姿を現さないかな?」
「ノエル様、それはさすがに危険すぎます」
アリサの声が、珍しく尖っている。
反対されるのは分かっていたが、その強さにエルは言葉を詰まらせた。
「どうしても必要だと言うなら、アリサが囮になります」
「だめだよ。アリサを危ない目に合わせられない」
「それは、こちらの台詞です」
アリサがぴしゃりと言い切る。
「ノエル様は、もっとご自分を大切にしてください」
珍しく、はっきり怒っている。
「あまりに危険かと。そもそも、冒険者の仕事を逸脱しています」
ハインバルが即座に切る。
「そうだよ、ノエルさん。女の子を危ない目に合わせられない」
レックも慌てて頷いた。
「でも、ただ待ってるだけなんて嫌なんだ」
エルは二人をじっと見上げる。
逃げるなと言われている気がして、胸がきゅっと詰まる。
沈黙のあと、ハインバルが短く息を吐いた。
「……仕方ない。危険へ突っ込むことは推奨できませんが、手は打ちましょう」
「手?」
「ノエル殿とアリサ殿を前に——十分な距離を置いて、私とレック殿が後ろから張ります」
ハインバルの目が細くなる。
「相手が様子見でも顔を出せば、こちらが捕らえる。ノエル殿は、自身の安全を最優先に。合図があれば迷わず逃げてください」
アリサが眉をひそめる。
「……気が進みませんが。この身に代えても、ノエル様は守ります」
エルは、ようやく息を吐いた。
「いつまでも守られてるわけにはいかないけど……ありがとう。行こう」
※※※
夜。通りの灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
人影は途切れ、足音だけがやけに響く時間になった。
エルはちらりとハインバルを見やる。——そろそろいいだろう。
「もう知らない! ハインツの……っ、この石頭!」
わざと周囲に聞こえる声で怒鳴り、鎧の胸当てを拳で叩く。
硬い。指先がじん、と痺れた。
「こんな連中、放っておいて。アリサ、行こう!」
エルはアリサの手を掴み、ずんずんと夜道を進む。
背中に冷たい視線が刺さっている気がした。
「……来るかな」
小声で呟くと、アリサが即座に頷く。
「来ても来なくても、守ります」
「ありがとう……私も、できるだけ戦う」
二人はわざと、灯りの少ない路地へ入った。
湿った石壁。遠くに水音が聞こえる。
静寂が広がる。
革の擦れる音。
鎖が触れ合う、かすかな金属音。
次の瞬間、影が四方から滲み出た。
フードを目深に被った男が四人。
距離は近い。逃げ道を塞ぐ角度で、包囲を作っている。
「誰だ……?」
エルは聖剣を抜かず、まず柄を握りしめた。
アリサも一歩前に出て、掌に魔力を集める。
男のひとりが、わざとらしく肩をすくめた。
「女の子がこんな時間に歩いてたら危ないよ。……ほんと、危ない」
フードの奥から、湿った笑い声が漏れる。
甘い匂いが、ふっと混じった。
「……っ」
エルが息を止めるより早く、アリサが先に動いた。
「アイスランス!」
氷の槍が闇を裂く。
だが男たちは散るように避け、槍は石壁に突き立って砕けた。
「おいおい、乱暴だな」
別の男が、懐から何かを取り出す。布袋——いや、粉を包んだ紙だ。
「吸わないで、ノエル様!」
アリサが咄嗟にエルの前へ立つ。
その瞬間——背後で叫び声が上がった。
「うわぁっ!」
男のひとりが吹き飛ぶ。
闇を割って、鎧の影が踏み込んでくる。
ハインバルだ。
「——捕縛する。抵抗は許さん」
低い声。剣が一閃し、男の足元を払う。
勢いよく倒れた男に、遅れてレックが飛び込んだ。
「動くな! ……って、動くなぁ!」
場違いな声が、逆に緊張を薄めない。今はそれがありがたい。
男たちは逃げようとしたが、動きが鈍い。
甘い匂いのせいか、それとも、最初から算段が狂ったせいか。
ハインバルは迷いなく距離を詰め、二人目の手首を捻り上げる。
骨が軋む音がして、男が呻いた。
「ぐっ……!」
残る一人が路地の奥へ走る。
「逃がすか!」
レックが追いすがるが、男は合図のように指を鳴らした。
——カツン。
何かが転がる音。
エルが目を凝らした、その瞬間。
ふっと、匂いが濃くなった。
頭の奥が、軽くなる。
「ノエル様!」
アリサの声が遠い。
エルは歯を食いしばって踏みとどまり、聖剣の柄を強く握った。
視界の端で、ハインバルが最後の男の首根っこを掴み上げる。
「ノエル殿。——捕縛完了しました」
「はは……さすがだね、ハインツ」
言いかけて、エルは喉を押さえた。
甘い匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
息をするたび、眠気が染み込んでくる。
意識が、ゆっくりと沈む。
「……ごめん、アリサ」
アリサに寄りかかるようにして、エルは気を失った。
※※※
エルが目を覚ますと、そこは冒険者ギルドだった。
頬の下に柔らかい感触。アリサの膝枕だと気づいて、遅れて状況が戻ってくる。
向かいにはハインバルとレック。
ギルドの奥は騒がしく、誰かの怒鳴り声や足音が途切れない。
「……えっと。どのくらい寝てた?」
「二時間ほどです」
アリサが覗き込む。目が笑っていない。
「犯人たちは、ギルドへ引き渡しました。無茶しすぎです」
「ご、ごめん……」
言い訳を探す前に、ハインバルが淡々と報告を継いだ。
「捕縛した者たちは、口を割りました」
「なにかわかった?」
「指示役の名が出ています」
ハインバルが視線を落とし、低い声で言う。
「リハリザード子爵」
子爵家の名。
エルは息を呑んだ。冗談で出る名前ではない。
「相手が相手です。騎士団も動いています。ギルド単独では手に余ります」
アリサが、重い言葉で付け加える。
「それと、ノエル様が吸ったあの粉——マホエル草を粉末にしたものでした」
「マホエル草?」
エルの疑問に、ハインバルが補足する。
「魔族領にのみ生息する植物です」
背中に、冷たい汗が滲む。
「つまり……」
「魔族が関わっている可能性があります」
「魔族? 王都に……?」
エルは思わず息を呑んだ。
アリサの身体が強張るのを感じる。
「急ぎ、突入の準備を進めています」
ハインバルが言い切る。
「私も加わります。ノエル殿はギルド内で待機してください」
「……私も行くよ」
エルは上体を起こした。まだ頭がぼんやりするのに、言葉だけは先に出る。
「いずれは魔族とも戦わなきゃいけない。今日みたいに、守られて倒れて終わりなんて嫌だ」
「……そう言うと思っていました」
ハインバルは呆れたように息を吐き、しかし拒まない。
「なら、条件があります。前へ出ない。合図があれば即座に下がる。——自分の安全を最優先にしてください」
エルは一拍置いて、頷いた。
「……約束する」
「ノエル様は本当に無茶ばかりするんですから、もちろんアリスも行きますよ」
アリサが溜息をつく。アリサの表情を見て、エルは困ったように笑った。




