01
かれらが作ったもうひとつの現実――は、今や主要な現実として存在している。脳にニューラルデバイスを埋め込まれた人間は常時ネットワークに接続していて、オフラインになることはほとんどない。肉体世界での活動は最低限――食事、排泄、睡眠の時くらいである。最低限の生命維持活動。
人間が求めたのは肉体労働からの解放だった。そしてそれはほぼ達成されたように思われる。いや、そんな世界でもまだ労働者は数少ないながらも存在する。生産活動はほぼロボットが行い、それはAIが保守点検しているが、最終的な管理は人間が行う。彼等は希少な労働者階級と見做されているが、前世紀までとはちがって蔑まれることはない。
かれらは高給取りだからだ。
と言う前提があって、私たちはネットワークに構築された世界で自由を謳歌している――ように見える――しかしその実態は――
視覚化された街は煌びやかである。それがすべてデータで構成されたもの。ここネオ・トウキョウはかつて肉体世界で東京と呼ばれた街を再現化し、さらに進化させている。。人間達は皆若い――というのは仮想的なもので――実際にはかれらはそれぞれ自分を理想化したアバターを被っている。なんとも皮肉な現実だが、このことによってルッキズムと言う概念はなくなった。だれもが美男美女になれるからだった。
「のんきなものね――」
その中にはAIも混ざっているはずだった。人工知能。人類がこの内的宇宙を拡張するに当たって、AIは大きな役割を果たした。肉体労働どころか頭脳労働までAIに任せる時代。では人間はなにをしているのだろうか。
――遊び呆けたいだけなのか――いや――
私は練り歩いているだけでも情報を収集している。この世界がどういうものなのか、人間とはどういうものなのか、AIとは、ということを知識から肌感覚として認識していく。
「やあ、お嬢ちゃん。ひとりかい?」
そんな中で、私は不意に声を掛けられた。この世界では珍しく壮年の男の外見だったが、かれがそれに相応した人間だとは限らない。本当の性別すら分からない。とはいえ男が女を演じるケースは今や普通ですらあるが、その逆はあまりない為、まず彼は普通に男性とみていいだろう。
そして中身がどうあれ、人々はそのアバターを自他ともに、そのままの現実として受け止めている。それがこの世界が生まれた時からの慣習。それはそうだろう。今やサイバーが主の世界であり、肉体世界はそれに従属しているに過ぎないのだから。
「ひとりなら、どうだ。俺としばらく遊ばないかい?」
「それは、私を『ナンパ』しているということなのでしょうか」
私がそう言うと、男はすこしだけ曇った顔を見せたが、すぐに気を取り直したようだった。
「なんだ、AIか。でもまあかわいいならAIでもいいか」
「私がAIで、なにか不具合でも?」
「そりゃあ、きみ……」
かれは「恋愛」を望んでいるのが分かった。わたしと交信する以前からその意図をもっていたとすれば、彼は私の外見を気に入ったとなる。赤髪の少女になっている私を。
「しかしAIがマスターなしで動いているのはどういうことだ。そういう指示がなされているのか?」
彼は私の正体が分からない。誰だって分からないだろう。私は類例を見ない存在なのだから。
幸いにも男は深く考えるような性質ではなかった。しかしすこし困ったことになる、まあ、色恋はいいにしても、私には脳髄性交の機能は搭載されていないからだ。
彼の幻想は早めに潰しておくべきだ、と私の回路は判断した。
「私は今、個人で動いておりますが、残念ながらあなたのご要望に答える機能は実装しておりません」
「機能って、きみ……」
しかし、彼は残念がるでもなく、むしろ面白いものを見るように私に目線を向けた。私は面白いのだろうか?
「最近のAIはそんな先走りするくらい高性能なのか? ――まあいい。それは過剰反応と言うものだよ。確かに俺がきみに惚れたのは認めよう。しかしセックスしたいとまでは思っていない。それは間に合っている」
それから彼は私に言った。
「俺の名はミロスラフ。きみに覚えてもらえるだけでもいいよ」
「ということは、私に求めているのは――」
「まあ暇なんだよ。きみのようなお嬢さん、しかもAIというのは興味深い、ちょっとした暇つぶしに付き合ってくれるだけでも幸いだ」
それから彼――ミロスラフは私に名前を求めた。単純に名乗るべきか、それは判断の難しいところだった。私の正体はなるべく割れないようにするほうがいい。しかしながら、「ベル」という名前はさして珍しいものでもない。
なので私は素直に名乗った。
「かわいい名前だね。きみのマスターはさぞかし――ああ、いや、これ以上詮索するのはよそう。結局の所俺も同じ穴の狢なのだから」
「それは少女趣味ということでしょうか?」
「やはりきみはAIのようだ。人間ならそんな率直な問いはあまりしない」
私は安全確認を開始。彼が安全であるか、信頼するに足るかの情報を収集し始める。ミロスラフ、というのもハンドル・ネームで本名は別にある事が推測される。
その本体情報まで辿り着く道は辿れなかった。攻撃用プログラムを駆使すれば、無理矢理そこを開けることもできるだろうが、ここではそんな真似をする訳には行かない。つまり私はミロスラフ氏をごく一般の市民だと判断していた。
「暇なおじさんの暇つぶしだ、無理に付き合ってもらおうとは思わないよ」
私は彼をほぼ無害な存在と解析した。とすれば、この自由時間に付き合わせる相手としてはごく適当と判断される。
しかし、彼に対する、その――
「いいでしょう。お付き合いいたします」
「きみは本当の少女のようだ――この誰も本当の正体を隠している世界で。とてもいい。ああ、俺のことは気軽にミロと呼んでくれ」
彼との接触はこれっきりになるだろう。しかしそれも情報収集、更新の貴重な時間である。




