二話 束の間の平穏
東さんと出会ったその日はこれまでと違って直接的なイジメは無かった。
だが、イジメがあろうとなかなかろうと私の行動は変わらない。
学校が終われば図書館に行く、そして閉館までずっと本を読む、その繰り返しだ。
私が本を読んでしばらくしたとき、不意に肩にちょんちょんと触れられた、驚いて後ろを振り向くと、そこにはイタズラっぽく笑う、東さんが立っていた。
私は、東さんを認識すると何故こんな所にいるのかと訝しく思った。
しかし、昼間のことを思い出し、まずはお礼を言うことにした。
「あ、あの昼間はありがとうございます。」彼は朗らかに笑うと
「ああ、気にしなくて良いよ。俺はイジメとか嫌いなだけだから。」と言った。
更に「そんなことより花村さん、今、暇?暇ならちょっと外に出て話さない?」と続けた。
私たちは外に出た、外は4月とはいえまだ少し肌寒さが残っていたが、私は久しぶりに人と話せる、と少し嬉しい気持ちになった。
思えばここ数年ろくに人と話してこなかった、こんな時に何を話せば良いのかまるで分からない。
とりあえず気になっていたことを聞いてみる。
「あの、東さんはどうして図書館に居たんですか?」と彼は歩きながら苦笑して答えた「ま、気づいてなかったとは思うけど、俺は小学生の時から休みの日はよく図書館にいて花村さんのことも見たことがあったんだよ。」と言った、私は顔が熱くなるのを感じた。見られていたのか、しかも私は彼がいたことに気づいたことなど一度も無かった。私は「そうだったんですか…気づかなかったです、すみません。」東さんは「何で謝るの?俺が勝手に気になってただけだ。それに俺が小説を読むようになったきっかけは君なんだよ」と話した。意味が分からなかった。私と、彼が小説を読むこと、どんな関係があるというのだろう?「えっと…それはどういうことですか?」彼は恥ずかしそうに「俺はその時、親に言い付けられて医学の勉強をさせられてたんだ。それで図書館に通ってた、ただ俺は別に医者になりたいわけじゃなかったんだ。
館内を適当に歩いている事が多かったね、そこで君が本を食い入るように読んでいるのを見かけた。」と言う。話を聞きながら私は、改めて聞くと本当に恥ずかしいと感じていた、まさかそんな姿を見られていたとは…それに彼からはそんな風に見えていたのか。穴があったら入りたい…が、とりあえず彼の話を聞こうと、気を取り直す。
「で、当時の俺は思ったんだ、あの本の何が彼女を夢中にさせるのか?ってね。
それで君が読み終わるのを見計らって、その本を手に取って夢中になって読んだ。その本の内容は今も覚えてるよ。ライトノベルで前世が無職の男が異世界転生してやり直す、そんな話だったな。君がいなかったら俺はあの本を読んでないし、物語の面白さなんかに気づくことなんてなかっただろうね。」そう言って照れくさそうに笑った。私はその話を聞いて嬉しかった。彼―いや、東さんは私の読んだ本の中で一番好きなシリーズを例に挙げた。感想を聞いてみたい。
そんなことを考えていたとき、東さんが「さあ、着いたよ。」と言った。
そういえば何も考えず歩いていたがどこかに向かっていたのか。
見るとそこは喫茶店だった。
木造の一軒家が建ち並ぶ、古くからあるような住宅街の一角にひっそりと建っていた。
木でできた看板には「喫茶croissant de lune」書いてあった。
…読めない。私は外国語なんて、まったく分からない。かろうじて自己紹介が出来る程度だ。
でも気になるので、私は東さんに聞いてみることにした。
「あの、、このお店の名前なんて読むんですか?」東さんは一瞬びっくりしたような顔をしたが、少し考えて「これはね、クロワッサン・デ・ルナ。フランス語で三日月っていう意味だよ。」と答えてくれた。
私は納得したと同時にそれを知っていた東さんが凄いと思った。
私は東さんに「東さんはフランス語が読めるんですか?」と聞いた。東さんは「いや、読めないよ、俺が読めたのはここのマスターに前に聞いたからだよ」と言った。
なるほど、東さんは前にもこの店に来たことがあるのか。
そう思っていたとき、「じゃあ、入ろうか」と東さんが言った。私は咄嗟に「ちょ、ちょっと待って!」と声を上げた、自分でもびっくりするような大声が出た。思えば大声を出したのなんて小学校低学年以来だろう。
東さんは振り向くと「どうしたの?」と私に尋ねた、私はさっきと正反対に蚊の鳴くような声で「わ、私…お金…持ってない…」と途切れ途切れに答えた。
それを聞くと東さんは一瞬きょとんとした顔をして、その後、ぷっ、と笑うと可笑しそうに「心配しなくて良いよ俺が払うから。」と言った、「いや、そういう訳には…」と、なおも続ける私に、さっきの可笑しそうな目はもうどこにもなかった。代わりにまっすぐな眼差しで「君と話したいことがあるんだ。」と言った。私は何も言えなかった。
彼の言葉と瞳は私に有無を言わせなかった、そこにはそれだけの真剣さがあったから。
東さんは私の沈黙の意味を肯定ととって、今度こそドアを開けた。ドアを開け、先に中に入った東さんの後を一歩遅れて入る。中に入ると、珈琲の香ばしい匂いが鼻腔を満たした。東さんは窓際の二人がけのテーブル席に腰を下ろした。私も東さんの前に腰掛ける。辺りを見回すと店内は外の薄曇りの空がとても似合う、落ち着いた雰囲気だ。それでいて少し洒落ていると思えるのは、天井から淡い暖色で店内を照らすシャンデリアや耳に心地よさを感じるジャズの音色が店の雰囲気に合っているからだろう。
東さんは私が席に着くと「君はなににする?」と私に尋ねた。
そうは言われても、私は今までこういう店とは無縁だったから何を頼んで良いのか分からない。
そこで私は東さんと同じものを頼もうと思い「東さんと一緒の物でお願いします。」と答えた。
東さんは分かった、と言うと手を挙げて店員を呼んだ。
その時の東さんはどこか嬉しそうに見えた。先程までカウンターで食器などを整えていた40代くらいのマスターが注文を取りに来ると「カフェオレ2つお願いします」と注文をした。マスターはかしこまりました、と言って流れるような動作で一礼をするとカウンターへと戻っていった。マスターがカウンターに戻ると東さんは「ここのカフェオレは本当に美味いんだよ」と教えてくれた、続けて東さんは何故か横を向きながら。「えーと、そういえば君のこと何て呼べばいいかな?あ、俺のことは瑛士で良いよ。」と早口で言った。私はそんな彼が可笑しくてつい笑ってしまった。だって学校で明日香たちに怒っていた彼とあまりにも違っていたから。すると東さんは「笑うことないじゃん」と少し口をとがらせて言う。
私は「ふふっ、ごめん、私のことは…アリスでいいよ、瑛士さん」と答えた。
『アリス』なんだかんだ言っても、14年間苦楽を共に(苦が楽の6倍くらいあったが)してきた名前だ。
侮蔑や嘲笑を込められるならともかく、彼に呼ばれるのならこの名前が良い。
「ん、分かった」と瑛士さんが言ったとき、マスターがカフェオレを運んで来た。テーブルにカップを置くと伝票を置き、先程と同じようにカウンターへ戻っていった。テーブルに目を落とすと、カップは美しいリーフの模様が彫られた白い陶器だった。
その中にふわっとした薄茶色のカフェオレが入っている。カップを手に取り、口元に運ぶ、カップを近づけると珈琲の香ばしい匂いと仄かにミルクの匂いがした。
「いただきます。」そう口にしてから口をつける。
まず口に広がったのはミルクの柔らかな甘みだった、そこに少し遅れて珈琲の苦みが加わったが、それは決して嫌なものではない、むしろミルクの甘みと合わさることで絶妙な味わいになっている。
瑛士さんが美味いと言うだけのことはある。「美味しい…」私はついそう呟やいていた。
瑛士さんは優しい微笑を浮かべて「そう、口に合ったようで良かったよ」と言った。
そこで瑛士さんの纏う雰囲気が引き締まったように感じた。私はそんな彼の雰囲気に背筋を伸ばし彼の言葉を待った。しばらくして彼は「アリス、君はどう生きたい?」と私に聞いた。