episode――.05
「えーっと、アヤカ……?」
「待ってて今ズボン乾かしてる」
そう言って彩佳はジャックの濡れたズボンをドラヤーで服を乾かした。
「えぇ? てっきり……」
ジャックがしょぼんと落ち込んだ瞬間、何を期待していたのか分かったが、軽蔑と悪戯心を混ぜ合わせた目で彼を見つめると、彩佳は無言で作業に戻った。
つい、衝動に駆られて彼にキスをしたけど、蟠りが全て溶けたわけじゃないし、今の状態は元サヤに戻ったとは言い切れない。
彩佳がどれだけジャックを好きでも、仮に彼も同じだとしても、そんなに直ぐ以前のようにはなれないという複雑な女心が揺れる。
だいたい、出会った頃のことを考えても……、と彩佳は彼と出会った時のことを思い出した――――。
絵に興味を持ったのも母親の影響、ファッションに興味を持ったのも母親の影響、ずっと母の後姿を見て育ち、それを真似をしてきた。
国内だけではなく海外でも有名なファッションブランドNISHINAの創業者であり、デザイナーでもある母のことを尊敬しているが、このままでは自分は母親の模造品になりそうで嫌だった。だから、ファッションデザイナーではなく、画家の道を選んだ。
絵を描くことは好きだったし、幼い頃に印象派の代表であるモネの絵を見た時、とても感動したのを今でもよく覚えている。
そよぐ風や、やわらかな暖かい温度など、一枚の絵から体感出来るなんて凄い! と感激し、自分もそんな絵を描いて見たいと思った。
けれど、現実は簡単にはいかないし、思っているだけでは表現できないことも多々ある。まさに、今日がそんな日だった。
通っているアートデザイン大学の講師に、『残念だが君は画家向きじゃない』と言われてしまった。
『アヤカ・ニシナ、君は絵画より、現代アートの方が向いてるよ。ほら、母親のようにファッションデザイナーの方が才能を活かせるんじゃないか?』
言われた言葉は、彩佳の心の奥に眠らせて閉じ込めている卑屈な部分を容赦なく突いてきた。
ファッションデザイナーを目指せば、否応なしに、『え? 本当にNISHINAの娘?』と疑問の言葉を投げかけられるに決まってる。
そんなネガティブな思考しか浮かばない自分にうんざりしながら家に戻り、リビングのソファで何度目かの溜息を吐いていると、「おーい、忘れてないか?」と背後から聞こえてくる。
母親の離婚した元夫、つまり彩佳の父親である神崎智明がスーツ姿に身を包み、リビングに現れる。
「どうした? 行きたくないなら無理にとは言わないが」
「直ぐに用意する」
彩佳の父親はNYの金融機関に勤めていることもあり、資産家が開く週末のちょっとしたパーティーに呼ばれることも多かった。
資産家が集まるようなパーティーは芸術が好きな人多く、その分野の会話も多々あるため彩佳が駆り出される。
自室へ行きフォーマルドレスを手に取り、それに着替えるとネックレスを着け、再びリビングへ向かった。
「ん、フォーマルにしたのか、せっかくNISHINAのパーティードレスがあるのに、春子が見たら泣くな」
母の名を出しながら、父が小言を言うのを聞き、「確かにそうかもね」と彩佳は小さく溜息を吐いた。
父親に促されるまま家を出ると、マンション前にいるドアマンが「行ってらっしゃいませ」と、にこやかに送り出してくれる。
会場までの道のりは、それほど遠くない場所にあり、NYでも折り紙付きのホテルのパーティー会場は既に関係者が場内を埋め尽くしていた。
華やかな衣装を身に纏った女性や、センスの良いスーツを着こなす男性などなど、金融機関のパーティーは割と派手だ。
彩佳は父に頼まれて、取引相手と芸術系の話をしたり、『NISHINAの娘』を演じたり、自分の出来る限りのことを熟した。
――お腹空いた……。
ソフトドリンクをちびちび飲んでいるだけでは、お腹が膨れるはずもなく、取りあえず、しばらく父に呼ばれることもないだろうと、彩佳は並べられている料理を眺め、片手で摘まめそうな物を適当に皿に盛ると、会場から少し離れた場所へ向かった。
外へ繋がるイベント会場へと足を延ばして、空いているパラソルシートに腰掛ける。辺りには誰も居らず、気兼ねなく食事にありつけるわね、と大口を開けてチキンにかぶり付いた。
――えー、マズ……っ!
お腹が空いている時は何を食べても美味しいはずなのに、まったく味がしなくて、ガッカリしながら今度はサンドウィッチに手を伸ばそうとした時、自分が座っている更に奥でドンと大きな音が聞えた。
何だろう? と音が聞えた方へ視線を送ると男女がもつれ合っている……、と言うよりも揉めているようだった。
「ねぇ……」
「悪い、今日の俺はそんなことしに来たわけじゃないんだ」
「あら、私の誘いを断ると大変なことになるわよ?」
何だか穏やかじゃない会話が聞こえてくるけど、海外では情熱的な女性も多く、ハッキリ物を言うし、男が迫られている場面も特に珍しくはない。
ただ、女性が口説いている男が、とんでもない美形だと言うこと以外は、物珍しいことでもなかった。
――早く、どっか行ってくれないかな……。
そちらは性欲を満たしたいのでしょうが、こちらは食欲を満たしたいのです。と内心不満をこぼしながら、食べようと思っていたサンドウィッチに手を伸ばす。
今度こそ、美味しいといいけどな、と願うように、あーんと口を開けて捕食しようとした瞬間、「バチン」と大きな音と「っ痛!」と男の声、それに吃驚した自分。
条件反射で音の鳴る方へ顔を向けた瞬間、手が緩んでサンドウィッチが床へと落ちた。
「あ……」
無残にも崩れ落ちてしまった食べ物に溜息を吐き、自分の不注意を棚にあげて、揉み合い中の二人の方を恨めし気に見た。
落ちたサンドウィッチを拾い上げると、仕方なく会場へ食べ物を取りに向かった。
――凄い音してた……。
どうして殴られたのかは分からないけど、あの音の感じだと腫れて大変なことになりそうだと気の毒に思った。
少し気になった彩佳は、自分の食べる物とは別に、氷の入ったウォーターグラスを手に取り、先程の場所へ向かった。
だが、例の男の姿は消えており、せっかく持って来たのに無駄になっちゃったな、と小さく溜息を吐いた。
そんなことより、食事だ。さっきから、まったく満たされてないお腹を早く満たしてやりたい。また同じようにパラソルシートに腰掛け、今度こそ、とサンドウィッチを手に取る。
「それ、不味いよ」
食べる前に〝マズイ〟と釘を刺されて、勘弁して欲しいと思った。こっちはお腹が減って仕方がないと言うのに、そんなこと言われても食欲は急には止まれないのだ。
忠告を無視して食べようと思ったけど、誰が忠告してくれたのか気になり彩佳は辺りを伺った。
「あ……、え」
ざっと椅子を引き、目の前にドカっと座る男が、「だから、不味いからやめた方がいい」と彩佳が手に持っているサンドウィッチを叩き落とした。
「ちょ、っと……、何……をっ」
文句を言う言葉が止まってしまった。暗がりでも分かる見事なブロンドに、美しいエメラルドグリーンの瞳、こんなに顔が整った男を彩佳は見たことがなかった。
二十代前半だろうか? 顔のパーツが全て完璧な形を象っており、インスピレーションを掻き立てる容貌に見惚れた。
今は座っているが、おそらくスタイルも恐ろしく良いのだろう。ただ、残念なことに、右頬が真っ赤に染まっている。
「あ、さっき叩かれていた……人?」
「見てたのか?」
眉をひそめる彼に、不可抗力だということを伝える。
「見てたと言うか、ここで食事をしていたら、あなた達が来て揉め始めたんです。コレどうぞ?」
氷入りのミネラルウォーターのグラスを差し出すと、片方の眉を器用に上げて、「ありがとう」と受け取ってくれた。




