49.傍観者ではなく
「お父様、何か御用でしょうか」
夕食前の日が暮れかける時間、セルドラはラジェストラに呼び出された。
ノックをして執務室の扉を開くとそこには弟であるロノスティコ、そして側近候補であり同級生として魔術学院に共に通っているエイダン、そして昼に訓練場で一緒にいたカナタがいた。
その三人だけではない。壁際では暗い顔をして俯いている男達が三人と護衛騎士が二人いた。
その五人全員がセルドラにとっては見知った顔だった。暗い顔をしている三人は自分の教育係、そしてその三人を挟むように立つ二人はラジェストラの護衛騎士だ。
「セルドラ」
ラジェストラがじろりとセルドラを睨む。
子供三人を溺愛するラジェストラとは思えない目だった。
その目は無能な貴族を糾弾する時の冷たさに似ている。
「はい、お父様」
「お前……第一域の魔術を半分程しか使えないというのは本当か」
静かな口調でラジェストラはセルドラに問う。
セルドラはばっと教育係達のほうを見た。まるで告げ口をした者を探すかのように。
だが違う。教育係達が今更そんな事をわざわざ口にするはずがない。
「いや、エイダンか……!」
「はい、セルドラ様」
エイダンは沈痛な面持ちで答える。声が少し揺れていた。
セルドラはそんなエイダンを睨むが、そんな事をしている暇はない。
なにせこの領地で一番恐い大人がこちらを見ている。
「答えよセルドラ。本当なのかとアンドレイス家が当主ラジェストラが聞いている。魔術の教育係はセルドラ、お前に学習進度を誤魔化すように指示されていたと証言しているが?」
「…………はい、お父様」
躊躇いがちにセルドラが答えると、ラジェストラは目を見開いてそのまま項垂れた。
「なんという……。どういう事かわかっているのか……? そんな事をして、何に……」
ラジェストラの声が震えている理由は、この場で最も貴族社会に疎いカナタにすら何となくわかった。
外からの養子であり、十歳という遅さで授業を受け始めたカナタですら魔術の勉強は第一域の術式を学ぶところから始まっている。
教本の文字すら読めなかったカナタが、だ。それほどに第一域は初歩の初歩。
第一域の魔術は魔術学院に入学する前に習得するのが基本であり当たり前なのだ。
入学前に第一域を基礎として根付かせているからこそ、専門性が高くなる第二域の魔術をスムーズに魔術学院で学んでいけるようになるのである。
だというのに……そこらの貴族の子どころか公爵家という大貴族の長子、なにより魔術学院に入学してもう半年以上が経っているはずのセルドラが第一域の魔術を基礎として習得できていない。
それがどれだけ問題なのか同席しているカナタはわからなかったが、今のラジェストラを見れば深刻かどうかは判断できた。
「セルドラ、お前は魔力に問題があるわけでもない。そう、問題は無かったからこそこの道を進ませている。領主の子としての道をだ……わかっているかセルドラ、領主の子なんだぞ」
「わ、わかっております」
「わかっておらぬ!!」
普段からは想像もつかないラジェストラの怒号に空気が張り詰める。
教育係の面々はもう精神的には死んでいるようなもので、壁際に並んでいる彼等の顔から生気が消えていた。隣に護衛騎士がいてもいなくても同じ反応だっただろう。
「セルドラ、お前は要領のいい子だ。才能もある。幼い頃からなんでもうまくこなしていた……だからこそ各方面の教育係から問題無いという報告を受けて疑う事もなかった。魔術は多少の遅れはあるものの誤差の範疇であると。
だから、時に城を飛び出しているのも見て見ぬ振りをしていた。城で机に向かってばかりでは息が詰まる気持ちは十分に理解できたからな」
「お、お父様……」
「だが醜態を晒せと言った覚えはない。何故魔術だけこんな事態になるまで放置した……教育係の面々に口止めまでして……。領主の子がどういうつもりだ?」
重苦しい空気が執務室全体にのしかかる。
ディーラスコ家の執務室よりも広々としているはずなのに、ラジェストラの圧のせいか牢獄のように狭く思えてしまう。
怒られているわけではないはずのエイダンすら緊張からか生唾を飲み込んでいた。
「……は、……なかった……ので……」
「何?」
観念したようにセルドラは声を漏らす。
小さすぎて聞こえなかった。
「魔術だけは……最初から、うまく……できなかったので……。他と違って……」
セルドラの言い訳にラジェストラは一瞬、目を剥いた。
ぽつぽつと魔術の学習進度だけ誤魔化していた理由をセルドラは説明し始めた。
セルドラは幼少の頃から、何でも器用にこなす事が出来ていた。
文字の読み書きや計算は勿論、武芸も人並み以上にこなし、得意な乗馬も最初から手足のように操っていて、貴族の娯楽、交友手段としてもメジャーな狩猟も一日でコツを掴んで獲物の動きを読み始めた。
古い歴史から近代の政争の経緯、隣国の信仰対象や教義に至るまでも覚えており……領主の子に相応しい才であると言える。
ただ一つ――魔術を除いては。
他の事がすぐに人並み以上に出来てしまったセルドラは、初めて躓いた魔術という分野に対して、あろう事か遠ざけるという選択をしてしまった。
それは天才ならではの理由だったのだろう。初めてうまくできないと感じたものがあまりに奇妙に見えて、苦手意識を持ったままずっと今日までに放置してしまったのだ。
……知識の分野であれば、それでもよかった。
人を纏める力さえあれば、各分野の優秀な者を置いて情報を引き出せばいい……だが実践技術に関しては別だ。
領主は有事の際になれば民を下げ、侵略者に対して前線で指揮を取る。いざとなれば自身もまた戦火の中に。
領主とは領地における要であり最後の砦でもある……当然、領地を治める学だけでなく武力も兼ね備えていなければならない。その武力の最たるものが魔術である。
なにより、貴族社会で魔術を扱えぬ領主に対する扱いは……語るまでもない。
「魔術とは鍛錬と反復によってしか練度が上がらぬ……そういう技術だ。逃げ出せばどうなるかなどわかるだろうに……」
「ですが、他の事はこなせたのです! それが、魔術だけは……合いません」
「合わない、だと? そんな気まぐれで、お前は逃げたのか。領主の子であるお前が」
ラジェストラはますます落胆を隠せないようだった。
優秀だと思っていた、いや実際に優秀であるセルドラがまさかたった一つ、たった一分野に対してここまで致命的な選択をしていたなど信じたくないと目を伏せる。
「魔術すらろくに学べぬ領主がどういう扱いを受けるかなど、わかるだろう……。苦手なものがあるのは当たり前だ、その点を責めようというわけではない。だが苦手であっても努力し、周囲に認めさせるのが領主の子だ。
我々は他より恵まれているからこそ、投げ出してはならない。気まぐれで遠ざけてはならない……跡継ぎならば当たり前の事だ。わかっていたはずだろう、お前ならば」
「…………」
セルドラは黙っている。
自分でもわかっていて、それでも遠ざけ続けてしまったのだろう。
苦手なものを遠ざける……それは自然な心の働きだ。けれど領主の子には許されない。
「ロノスティコ、エイダンよく報告してくれたな」
「ロノスティコ……?」
魔術学院にてセルドラの現状を把握しているエイダンだけでなく、弟の名前までもが挙がるのが疑問だったのか、セルドラはロノスティコに目を向けた。
「教育係が報告を偽っている事を報告してくれたのはロノスティコだ。丁度昨日の話でな……今日のエイダンの報告と合わせて真実だと判断する材料になった」
「き、のう……?」
「……」
ロノスティコは兄の声に応えることなく、黙って座っている。
――あまりにもタイミングが良すぎないか?
まるで、エイダンが帰ってくるのを待っていたかのようなタイミング。そんなタイミングに偶然、教育係の報告虚偽に気付いたなどあるはずがない。元々知っていて、このタイミングを狙っていたとみるのが妥当だ。
セルドラはそこまで考えて、ロノスティコの狙いを見抜く。
「ロノスティコ、きさま……! 今までそんな素振りを、見せた事もない癖に――!」
「ええお兄様……僕は、争いが嫌いですから……。それに、お兄様は魔術以外の分野では……確かに優秀な御方なので……このタイミングくらいしか、隙が無かったんですよ……。
側近候補の人が、魔術学院でのお兄様の様子を見て報告するために帰ってくる……このタイミングでしか……。賭けでしたけど……ディーラスコ家の方々が真面目な側近候補であるというのはカナタさんと接していてわかっていましたから……」
それは賞賛のようにも聞こえたが、違う。
傍観しているカナタですらロノスティコが小さく笑ったのがわかった。
「魔術学院に入学し、基礎すらおぼつかない……。そんなアンドレイス家の醜態を晒しているお兄様を今の状態で後継者として宣言するのは……どうでしょうか……」
「うむ……いや、確かにそう、ではあるが……」
ラジェストラは眉間に皺を作りながら、苦い表情を浮かべた。
セルドラが魔術学院に入学してすでに半年が経っている。
魔術学院は情報から何まで閉鎖的で所属する教師達がわざわざ吹聴しないだろうが、通っている同級生達の口はどうやっても止められない。セルドラやエイダンが帰ってきているように他の者も家に帰ってすでに学院生活についてを話しているに違いない。
ロノスティコの言い分は正しい。
このままセルドラを次期当主などと発表すれば招待した貴族……特に別派閥の貴族達に付け入れられ、権威を削がれるきっかけになりかねない。いや間違いなくなる。
成果ではなく醜態を晒している跡継ぎを次期当主と発表する領主など侮られて当然。後継者育成を失敗したと大々的に教えているようなもので、今までラジェストラが守ってきた権威などセルドラが継ぐ頃には地に落ちているに違いない。
「領主ラジェストラ様……今回の件を踏まえ、アンドレイス家次期当主の再考を求めます……。
慣習通りであれば長子が次期当主となりましょうが……このロノスティコにも機会を。後継者争いといきましょう……お兄様……」
ロノスティコの目的は前夜祭での次期当主発表の中止。
普段の大人しい姿はまるで爪を隠す猛禽のごとく、ロノスティコは堂々と後継者争いを希望した。
「……」
カナタはその光景をただ黙って目に焼き付ける。
自分がここに同席させられた意味を考えながら。




