279.パセロス・ジュノワーロ
キュアモ姉さんは私にとっての全てと言ってもいい人だ。
血は繋がっていなくとも、姉さんのためなら何でもすると決めたのは子供の頃。
姉さんがジュノワーロ家に引き取られてきた時の事だった。
初めて出会った時の事は今でもよく覚えている。
「初めましてパセロスね? 今日からよろしく!」
「……私が兄だろ?」
「何を言っているのかしらしら? 私が姉よ?」
歳は同じで、引き取られたほうが姉など聞いたことがない。
けれど、姉さんは自慢げにこう言った。
「私のほうが背高いものもの! 私が姉に決まっているでしょでしょ?」
「……」
まだ八歳だった頃、私はまだ小さかったのでキュアモ姉さんよりも背が低かった。
そんな理由で、私は弟扱いされた。父に相談したが……。
「どちらでもいい。どうでもいいからな」
……期待はしていなかった。いや当時はまだ少し親という存在に期待していたか。
父にとって我が子というのは利用価値のある手足に過ぎなかった。
姉さんが引き取られたのも、他人の記憶にある情景が見えるという奇妙な目があるからに過ぎない。
父が傾倒している方のために力を捧げる後進。
ジュノワーロ家はそういう家だった。
侯爵家とは名ばかりでかつての栄華などなく、権力と甘言に釣られて利用される。
没落しないのは単純に歴史のある家であるのと、利用価値のある駒を育てられるからだった。
「いいか? お前達の力は、いつかお仕えする第二王女のために使うのだ」
父にそう告げられたのは第二王女が第三王子を殺した年の事だった。
今思えば、この時派閥の方針が固まったのだろう。失伝刻印者である第二王女を魔術王として祭り上げる方針が。
第二王女が十歳の時、私達が十二歳の時だった。
この頃にはもう、両親を親だとは思わなくなっていた。父は私達を道具としか見ておらず、母は私達を時折殴りに来るだけだったのだからそれくらいはいいだろう。
自分で何も選べない人生。才能があっても使い潰されるだけの人生。
糞だと思った。せめて自分で何かを決められたのなら後悔くらいはできるのに。
家族なんて形はジュノワーロ家にはなかった。姉さんの存在を除いては。
「駄目だよだよパセロス! 好き嫌いすると幽霊が来て食べられちゃうんだよだよ! え? そのお皿によけてるキノコは何かって? えっと……私はほら、幽霊大丈夫だからから!」
「屋敷の中でかくれんぼしよしよ! お義父様もお義母様もいない今がチャンスチャンス!」
「パセロスは頭いいねえ!」
「パセロス、仕方ないからお姉ちゃんが一緒に寝てあげてもいいよ? ゆ、幽霊が恐いとかじゃないんだからから!」
姉さんはジュノワーロ家の中ではとびきり浮いていた。
父の洗脳のような指導を受け止め、母の暴力を私の代わりに受け、それでもなお姉として弟である私に笑顔で接してくれる。家族を家族とも思わないこの家でそれは異様だった。
夏に咲くひまわりが人間になったのなら、彼女のような人間なのではないだろうかと思う。
ある日、母の機嫌が特にひどい日があった。珍しく食事の同席を誘われたかと思えば、母は私に向けてナイフやフォークといった食器を投げてきた。
父と私が似てきたという理由らしい。恐怖だった。
しかし、ひどかったのはそれからだ。
食器を投げられる私を姉さんが庇ってくれたかと思うと、母の機嫌がさらに悪くなって姉さんは連れてかれた。いつもと同じように一発二発殴られて終わりだと思っていた私は抵抗しなかった事を後悔した。
「いたたた……今日はお義母様の機嫌悪かったね、えへへ……」
「姉……さん……!」
姉さんは左手の指を四本も折られていた。爪が二枚剥がされていた。
私はその時、姉さんを直視できなかったというのに姉さんはいつものように私を心配させまいと笑っていた。
幸いだったのは、医者がまともだった事だろうか。何とか治療だけはしてもらえた。
姉さんの頬には痛々しい涙の痕がある。どれだけの痛みに泣き叫んだのか。
母と呼ぶ相手にどれだけの苦痛を与えられたのか。
「なんで……私を庇ったんだ……笑えるんだ……?」
わけがわからなかった。今日まで姉さんが私に構う理由も、本当の姉弟のように接してくる理由も、私を庇ってくれた理由も。
気付けば、そんな事を聞いていた気がする。
「だって私はお姉ちゃんだもん! 弟の代わりに怒られないとねとね!」
痛いはずだ。治療をしても痛みは治まっていないはずだ。
なのに、姉さんは当たり前のように私に笑いかけてくれた。
最初におふざけのように決まった姉という役割を貫いていた。
その時、すでに私は姉さんの背を越していたのに。
母が死んだのはそれからほどなくしての事だった。
殺したのは父だった。子供への愛? そんなはずがない。
「言ったはずだ。お前達の力はいつかお仕えする第二王女のために使うのだと」
道具が壊れたら困るからだった。
ああ、私達は逃げられないんだ。母が死んだ事に安堵だけしながら、そう思った。
逃げればいいのか。どこに?
助けを求めればよかったのか。誰が第二王女派閥かわからないのに?
私も姉さんも動くことはできなかった。
姉さんとだけ暮らせる場所が欲しい。
……第二王女が失脚したという話を聞いたのは、それから数年後の事だった。
◆
静かに、カナタの部屋の扉が開く。
またシャーメリアンのハニートラップか。違う。
日時も回った真夜中の暗がりの中、足音もない一人の姿が月光でほんのり照らされる。
魔力反応を出さないための武器はナイフ。声が外に漏れないための事前に起動していた防音の魔道具を懐に入れた……パセロスがカナタの部屋に入ってきた。
「……」
息を殺して、カナタの眠るベッドまで後数歩。
一時は諦めていた暗殺だが、エイミーの存在が彼に行動を起こさせた。
聖女の力が予想以上だった事で、もうここに用意された魔道具がカナタを脅かす事はない。真正面からは実力的に無謀。
ならばもう、彼にはこれしか手が残されていない。一か八かの暗殺。
カナタを殺したところでパセロスは逃げられないだろう。こんな事はすぐ露見する。
だが……姉であるキュアモは助かるかもしれない。
「……っ」
ベッドに近付いて、勢いよくナイフを振りかぶったところで腕が止まる。
すぐに振り下ろす事ができないのはパセロスに残った良心によるものか。
それとも、姉キュアモに言われた……間違っているという言葉か。
「本当に今日は訪ねてくる人が多いな」
「!!」
パセロスは声に驚いてカナタの寝るベッド目掛けてナイフを振り下ろそうとする。
だが、そんなものがすでに身構えていたカナタに刺さるわけもなくナイフはベッドに突き刺さっただけだった。
カナタは起き上がった勢いのままパセロスの胸倉を掴んだ。
「夜更かしは得意なんだ。昔から魔術滓を眺めてたから」
「カナタ……くん……!」
「それと……躊躇うくらいならやるんじゃねえよ」
「う……!?」
カナタはパセロスを窓に向けて勢いよく蹴り飛ばす。
月が照らす真夜中のこと……三階の窓から二つの人影が飛び出した。




