220.私?
「おいでメレフィニス」
「はーい!」
少女は子供の頃から、母親に呼ばれるのが好きだった。
アニムス家に生まれた待望の子供であり、七歳になるまで花よ蝶よと育てられた。
使用人とおままごとやかくれんぼをして遊び、遊ぶ時間を過ぎた自分を母親が呼びに来てほしくて、わざとずっと隠れたりする。そんな無邪気な少女だった。
「メレフィニスはお勉強をとても頑張っているって先生が言っていたわ」
「うん! だって、お母様はメフィが頑張ったら嬉しいでしょ!?」
「ええ、お父様もきっと喜んでくださるわ」
遊びながらも初等教育を難なくこなし、時間が余るくらいに聡明だった。
王女に生まれて才能があり、何の不自由もない……朝は一日を楽しみに、夜は明日がどんな日かを楽しみにしながら眠りにつく。
七歳になって半年が経った頃、母親に呼び出されるまでは。
「お母様……お呼びですか……?」
メレフィニスはぶすっと不満そうに母の部屋に赴いた。
いつもなら呼びに来てくれるのに母親は呼びに来てはくれなかった。
「来たわ! 認められたわ! ようやく認められたわ!!」
「え……?」
「あなたの継承権が正式に第二位になったのよ! 当たり前よね! 久しく生まれた失伝刻印者の王族! 今日からあなたは第二王女よ!」
母親がとても喜んでいたので、メレフィニスも笑顔になった。
けれど、何故か自分を見る母親の目が嬉しくなかった。
母親が笑っているのなら自分も笑顔になりたかったのに、何かが違う。
「ああ、私の可愛い第二王女……! やっと、やっと報われるのね……!」
「お母様……メレフィニスって呼んで……?」
「いいえ、あなたは第二王女。第二王女よ……そしてゆくゆくは、国王と呼ばれる女になるの……あなたの才能なら絶対にファーミトンやローバストなんて当たり前に越えられる……! あなたは可愛い可愛い……やっと生まれた……私を、王を産んだ女にする最愛の第二王女よ……!」
その日から、メレフィニスが名前で呼ばれることはなくなった。
継承権を強調するかのように第二王女、殿下と呼ばれ続けた。
母親ですらその名を呼ばず、ただただ今日の成果を聞いてくるだけ。
その時にメレフィニスは初めて気付いた。
母親や使用人から感じる、気持ちの悪い視線。
全員が自分の肩に乗る第二王女という肩書きを見てくる。
目が合っているのに、目が合っていない。
「先生……おままごとしたいよ……」
「いけません王女様、あなたのお母様から遊ばせるなと仰せつかっております」
遊んでくれる先生はいなくなった。
「ねぇ……かくれんぼしようよ……」
「そんなお遊びをしている暇はございません殿下」
使用人から遊びは無駄だと切り捨てられた。
「わぁ……綺麗……! 宝物みたい……!」
「何をやっているのです!! 第二王女ともあろう方が魔術滓を出すなど!! お母様を失望させたいのですか!!」
「ご、ごめんなさい……」
魔術の授業はより一層厳しかった。
魔術滓を出そうものならその日の練習時間は三倍に増えた。
いつか。いつかまた。
そんな希望に縋りながら九歳まで過ごした。
幸か不幸か……いや、不幸だったのかもしれない。その才能ゆえに二年近くそんな閉塞的な環境でも全てをこなし、所作はもちろん、着々と知識と実力も蓄えて少女は成長していった。
王女らしい勤勉さ。
王女らしい所作。
王女らしい魔術の才能。
王女らしい。王女らしく。流石は第二王女。
全ての賞賛が自分に液体状の石膏を塗りたくって、別の存在に変えていくかのようで不快だった。
そんな姿すら、現状に満足しない理想の王女と賞賛された。
「また遊びたいとねだったそうね」
「だって、勉強だけじゃつまらないもの……」
母親との食事は一日、何を学んだかを報告するだけのつまらないものになった。
遊びたいという発言は全て告げ口されて、母親に怒られる。
「もう淑女になる年齢でかくれんぼだなんて幼稚な……王女たるもの、そのような無駄で恥ずかしい願望を口にするのはやめなさい」
「だって、メフィ……」
自分のことをメフィと呼ぶと容赦なくはたかれた。
「もっと王女らしくなさい。あなたは第二王女なのよ。全く恥ずかしいったら」
大好きだったはずの母親の視線が泥のよう。自分の周囲にいる全員の視線も。
ずっとずっと、自分ではなく肩に乗る第二王女という立場に向けて話している。
同じ場所にいるはずなのに、まるで違う世界にいるかのような感覚にメレフィニスは陥って。
「お母様……」
「なにかしら?」
「メレフィニスって……呼んで……?」
「今のお説教が聞こえていなかったの……? そんな無意味で! 無駄で! 無価値で! 幼稚な願望を軽々しく口にするのはやめろと言ったわ!! もっと王女らしく着飾ることを望みなさい! 権力を望みなさい! あなたは王になる女なのですよ!! そして私は王の母たる女になるの!! それがアニムス家の人間の使命よ!!」
ああ、戻らない。
母親はメレフィニスが継承権を得た時からメレフィニスではなく、自分の夢だけを見ている。
母后となった栄誉で一族と自分を飾る未来を。
「気持ち悪い……」
初めての侮蔑と共に、母の顔を頭の中で黒く塗り潰した。
その日から、メレフィニスは全ての授業を放棄した。
一人でおままごとをして、かくれんぼをして、自分で魔術滓を出して宝探しもした。
母親は怒り狂ったが、生まれた時から世話をしてくれていた使用人だけは味方になってくれた。そのおかげもあってメレフィニスは好きに過ごした。
これがメフィだと、自分で居られる時間を取り戻すかのように。
失伝刻印者ゆえに継承権を放棄することも、地位を捨てて市井に下ることも許されなかった。
だからせめて、と全てを放棄して一人で遊び続けた。
自分らしく、メレフィニスらしく半年を過ごした。
けれど、耳に届く自分の評価を聞いて少女はさらに絶望した。
王女らしくない奔放さ。
王女らしくない態度。
王女らしくない怠惰。
いつの間にか、自分の基準が王女から始まっていることに。
第二王女にもそういう時期が来たか、と誰かが嘲った。
まるで王族特有の、一過性の反抗期であるかのように。
「違うよ。これがメフィだよ……!」
結局誰の目の中にも“メレフィニス”という人間はいないままだった。
部屋に置かれた大きな姿見がちらりと目に入る。
鏡に映し出された自分は涙でぼやけ、何が映っているのかわからなくて。
「私は、誰……?」
メレフィニスはその日から自分の呼び方を変えた。
関係ない誰かに塗りたくられた気持ちの悪い石膏はとっくに固まって、自分は別の存在にしか見えなくなってしまったのだと気付いて……今の自分にこの愛称を、使いたくなくなったから。




