163.あんたにとってここは
「"選択"」
魔力を全身に巡らせ、すぐさま噴水の影に跳ぶ。
どうせもうびしょ濡れだ。辺りも蒸発した水でもやが立っている。
向かってくる炎は風もないのにうねり、カナタを追尾する。
「『水球』」
「!!」
噴水の水に混じって、カナタの周囲に水の球体が浮かぶ。
先程より大きくはないが、その形は戦意を示すように鋭利な槍へと変わって炎を貫いた。
ローブの何者かは自分の魔術がいとも簡単に破られたのに驚いたのか、動揺が動きに表れて今度は距離を取った。だが逃げようとしているわけではなく、見える位置で踏みとどまっている。
(仮面で聞き取りにくいけど、詠唱は多分女の人の声……)
仮面の女はローブをたなびかせながら向かってくる。
詠唱の声、動きから女性だろう。
しかし疑問は尽きない。
ラクトラル魔術学院は学院長であり宮廷魔術師ヘルメスの庭。
魔術戦が始まった今、ヘルメスがこの事態に気付いていないはずがない。目的が自分の殺害として、この女はどうやって逃げる気なのかカナタには疑問だった。
そして何より、何故自分を?
カナタがそこまで考える前に仮面の女は噴水のため池に手を突っ込んだ。
「『波濤よ荒れ、狂え』!!」
「『黒犬の鎖』!!」
仮面の女が唱えると共に、ため池の水の支配権が仮面の女へ。
何をするか察知したカナタは、影から生まれた鎖で自分の体を噴水の外へと運んだ。
ため池の水は仮面の女で渦巻き、そのまま形を変えてカナタのほうに向かってくる。魔術の発想はカナタが直前で使った魔術に近いか。
「おおっと!!」
「逃が、げほっ、ごほっ……にがす、か……!」
カナタは鎖を操作して、大槌のように向かってくる一撃を躱す。
どうやら水全体を操作しているからか、どこかに命中しても水は減らない。
「……」
再び向かってくる大量の水の塊を見て、少し考える。
カナタは突然自分を運ぶ鎖を解除したかと思うと、懐からインク瓶を取り出して仮面の女に投げつけた。
「っぁあ!! そんな、ことでぇえ!!」
暗がりのせいか仮面の視界のせいか。距離感を掴み損ねた女の仮面にインク瓶がぶつかり、ローブはインク塗れになる。
しかし、その程度の牽制で向かってくる魔術が止められるわけもない。
女は仮面にも付いたインクをローブで拭い、怒りのまま魔術をカナタに叩きつけようと叫んだ。
「『炎精への祈り』」
最初に巨大な炎球を水球で迎え撃ったのとは逆。
今度はカナタが炎の魔術で水の魔術を迎え撃つ。
カナタが最も扱い慣れている第三域の攻撃魔法はカナタの意思を受け取って、向かってくる大量の水を燃やし尽くさんと業火を振るった。
「ぐっ――!?」
「ぶふっ!」
互いの魔術の威力はほぼ互角。
属性差を考えればカナタのほうが勝っていたが、ほぼ相殺に近い結末だった。
大波のような水は炎の熱でもやに変わり、業火は水によって鎮火する。
「しまっ……!? どこに――」
しかし、この相殺という結末がカナタの狙いだったということに仮面の女はようやく気付く。
すでに時間帯は夜。加えて今の魔術の相殺のせいか辺りは蒸発した水がもやとなって仮面の女の視界をさらに悪くした。
仮面の女は先程まで正面にいたはずのカナタの姿を見失う。
ここにある明かりは噴水に付けられた魔道具があるが、その光も今はもやに遮られて無意味に近い。
仮面の女は今の周囲の状態から、あちらもこちらの姿が見えないと推測するが――。
「照明用インクだ。そこらの店で買えるぞ」
「!!」
声はすぐ左側から。仮面の女は声に反応するがもう遅い。
カナタが先程仮面の女に投げつけたのは、この町の魔道具屋でならどこでも買える照明用インク瓶。以前に買い溜めした時のものであり、中身は発光するインク液だ。
仮面の女のローブは先程投げられた瓶から漏れたインク塗れであり、この視界の悪さでもカナタが位置を知るには十分すぎる目印となっていた。
仮面の女は咄嗟に魔術を唱えようと呼吸をするが、
「遅い」
「ご、ぶっ――!?」
仮面の女の喉にカナタの貫手が突き刺さり、呼吸が一瞬止まる。
判断を分けたのは戦闘経験の差。この距離ならば魔術ではなく殴る蹴るのほうが速い。
一瞬止まった呼吸は次のカナタの魔術に応戦するにはあまりに致命的な隙だった。
「『虚ろならざる魔腕』」
「ぎ……がはっ――!?」
背から生えた巨大な腕は拳を作り、仮面の女の体に容赦なく叩き込まれる。
ほぼ無防備でその一撃を貰った仮面の女は吹っ飛び、跳ねるように地面に転がった。
体を強く叩きつけられたからか、仮面の女は意識はあっても立ち上がれそうにはない。
「う……ぐっ……うう…………」
「じきにトップ……学院長が来るよ。洗いざらい話して……おい!?」
そう悟ったからか、仮面の女はどこからか取り出した短剣を自分の首に当てた。
カナタが止める間もなく、まるでそうすることを決めていたかのように淀みない動きで……仮面の女はそのまま自分の首を切り裂いた。
「馬鹿、野郎……!」
カナタは急いで駆け寄るも、もう仮面の女はぴくりとも動いていなかった。
首から流れ出る血をローブが吸って赤黒く変わっていく。
死体には慣れているものの、だからといって何も感じないわけではない。カナタは痛々しい表情を浮かべながらも、自分を襲ってきた何者かの正体を探るために仮面を取る。
「そういうことか……。元から……逃げる気がなかったんだなあんた……」
仮面の下の顔はあろうことか、目と口元以外が火傷跡でほとんど潰れていた。
火傷跡は素人目で見ても新しく、きっと傷の痛みを薬で誤魔化して戦っていたのだろう。新しいのは恐らく身元をわからなくするため。
そんな自分を襲うために焼いたような火傷跡を見て……カナタは悲しそうに呟く。
「何があんたをそうさせたんだ……? ここは、戦場じゃないのに」
だが、カナタの手には魔術滓すらない。
語り掛けるようにしながら、カナタは遺体の傍に座り込む。
シャンクティが駆けつけてくるまで、カナタはずっとそうしていた。




