枯葉人
痛い。
青い筋が浮き彫りになるほど、己の腕を強く握り締めるその手は微かに震えていた。力を入れ過ぎているのか、邪心がはびこっているのか、恐らくどちらともであろう。
「行表……」
友の不安げな顔は、悲しみの中に、懇願の思いを匂わせる。
「やはり、行くな」
少し尖った口調をした。だが、悲哀と懇願を滲ませるこの表情では何の厳格さもない。ただ、友が駄々をこねているようにしか思えなかった。
「なに、大和の少し大きい仏門を出るだけではないか。今生の別れにはなるやも知れぬが、死にはせぬ。お互い違う土地で気張ろうぞ」
張り付いたように握るその手を外しながら、朗らかな笑みを垂らす。
「何故なんだ……」
「先にも話したであろう。わしと道鏡様では、仏への考え方が……」
「お主は、力が欲しくないのか!」
動揺した様子で声を荒げるその目には、雫が溢れている。
「わしは、道鏡様の力が性に合わぬ」
「道鏡様と、お主と、この円興がいれば、朝廷を動かすこととて難儀ではない」
「そんなものには興味がない」
「道鏡様が出世すれば、わしらとて官位を賜れる」
「興味がないと言っておろう」
「では……では……」
友、円興は、膝が崩れたようにしゃがみ込み、
「では、いかがすれば、お主はわしの側にいてくれる……?」
埋もれた顔から、弱々しい声が漏れる。
「円興……」
友の泣きづらは、次第に胸を苦しくさせた。心の芯から覚悟したはずなのに、この蹲った背中を見ていると、精神が歪む。
「行きたければ、行けばいい」
不意に遠目から、図太い声が聞こえた。
「道鏡様……」
「お主が決めた道じゃ。わしらに止める筋合いはない」
腕を組み、厳格な表情を繕うその男には、背後の巨大な朱門が良く似合う。
「だが、力がなければ如何なる者も救えぬのは確かじゃ。わしという力を放棄するならば、お主はいかなる力を持つ?」
蔑んだ道鏡の目に、行表は白い歯を見せ、満面の笑みとなった。
「新たな力を、作りまする」
「新たな力?」
「はい。道鏡様のように手を汚さずとも、多くの者を救う。そんな力を作りまする」
行表は合掌をすると、笑みを浮かべたまま、
「では」
二人を置きざりに、朱門の外、遥か遠くへ足を踏み出した。
〇
「何回言わせんだよ! クソじじぃ」
「あ? 今、何と言った?」
近江国の古市郷というと、琵琶湖湾岸の土地柄を生かし、交易によって多くの銭が流入する地域であった。
「クソじじぃって言ったんだよ! 阿呆が」
「…………」
二十一年前の養老律令執行に伴って鋳造された万年通宝も、この古市郷には多く流通し、一大港町を形成していた。
「痛て! 何すんだよ」
「父上をじじぃ呼ばわりするからだろうが」
そんな港町の領主が強大な力を持つのは必然で、古市郷の郡司には、地方領主では破格の正八位下が朝廷より下賜されていた。
「じじぃ呼ばわりされたくないなら、父上と呼びたくなるようなことをしろよ!」
「してるだろうが!」
ここ、古市郷を領する滋賀郡の郡司館は、近江の銭を一手に握り、宮廷内であれば役職を賜る男の根城なのであった。
「痛て! めちゃくちゃだ」
「めちゃくちゃなのはどっちだ! 郡司の嫡子にもかかわらず、頭を丸め、寺に入りたいなど……」
握った拳には、頬の温もりが感じられる。愚言を放つ齢十二の息子に感じるのは失望ではなく、焦燥であった。
「お主が跡目を継がねば、誰がこの滋賀郡の郡司になるのだ! 誰がこの古市にある屋敷を守るのだ!」
荒げる声の表情は、必死そのものである。だが、板敷きの床に転げた息子も、父に負けぬ眼光で立ち上がり、
「そんなもの、一族の誰ぞに継がせればよかろう! わしは誰が何といおうと、国分寺へ入り、かの高名な行表上人の教えを賜って、山林仏教を極めるのだ!」
「嫡子を寺に出す家など聴いたことがないわ‼」
「ぶちっ」という奇妙な音が屋敷に響き渡った。
「クソじじぃめ……」
頬の痛みよりも、胸の奮起の方が煩わしい。
「くそ……」
反対されることはわかっていた。血眼になり止められるのもわかっていた。だが、それでも、あの父の必死な表情を見ていると、親不孝である自分をまじまじと写す鏡のようで、気落ちしないではいられなかった。
父に怒鳴られるだけで揺らぐ自分が腹立たしく、父にあんな表情をさせる自分も腹立たしく、胸の奮起が煩わしい。
「あそこへ行かねば、落ち着かぬ」
草花が揺れる新緑の田畑で、畦道を進む童は、ある一つの場所を目指している。
己が夢見るそれは、自然と人間とが一体となる境地である。生命の営みである山へ籠り、ただひたすらに万民の救済を願うことで、人ならざる世界へ導かれる。そんな世界に憧れた。
憧れてから、修練も始めた。屋敷近くの比叡山という山の山麓にある、大きな岩の上で瞑想をし、心のわだかまりを取り除く。
木々に囲まれ、自身も苔に覆われるその岩は、まさしく山林の仏のようであった。日中には葉の隙間から日の光が輝き、それを苔が一身に受け止める。まさに御仏の世界とはこのような輝きなのではないかと思わせる空間であった。
「ん……?」
行きつけの岩場へ着くと、直ぐに異変に気付いた。
「誰……だ?」
見知らぬ坊主頭の男が、木漏れ日を身に写し、一切乱れぬ姿勢で瞑想をしている。
先客など初めてであった。この巨大な岩は人の寄り付かないような山林の奥にある。てっきり自分だけの知る、とっておきの瞑想場だと思っていた。
童は、自分の行きつけを侵された苛つきと、ここが自分だけの場所でないことへの悔しさに、
「おい、そこのお坊さん」
思わず坊主頭に声をかけた。
「…………」
何も言わず、ゆっくりと半眼の目を開いたその坊主頭は、声の主に顔を向けると、慈愛に満ちた表情を浮かべた。
「道にでも迷うたか?」
優しく問くその表情には、初老の証である浅い皺が刻まれている。
「わしはここに毎日来ている。道になど迷うわけがない」
「毎日? 何をしに」
「あんたのように、岩の上で瞑想をしに」
「…………」
坊主頭の初老は、少し驚きの顔を見せた。目下の男は、明らかに童である。童が一人、山林に籠り瞑想など、一丁前にもほどがあった。
「髪を剃っていないように見えるが、どこぞやの寺の小僧かな?」
「寺にはこれから入る。今はその時のために修練をしているのだ」
「ほう、修練……」
「何か不満か?」
「いやいや」
手を左右に振るその顔は、微小なにやつきが浮かんでいる。
童の潤んだ目の中に、噴煙のように沸き立つ情熱があることは、初老にはすぐに察しがついた。仏道を志すにはなくてはならない目だと、長年の経験が訴えている。
〝新たな力を、作りまする〟
何よりも、この童の瞳により、昔の記憶を思い出したことに言葉では言い表せぬ魅力を感じたのは間違いない。
「どうじゃ、その修練をわしとせぬか」
笑みを浮かべると、己の身を右に寄せ、左手を叩いて童を促した。
「…………」
童は猜疑心を拭えぬ顔である。当然であった。見知らぬ坊主の誘いに乗るなど、自ら追剥の危険を晒すようなものである。まして郡司の嫡子であるこの童が……
「こう見えてわしは、大和の興福寺で修行をしたこともあるのだぞ?」
「興福寺で!」
童の目は漆でも塗られたかのように輝き、上機嫌で岩へ手をかけた。
〇
「ほう……」
瞑想の中で思わず声が漏れるほど、左隣の童の瞑想は感嘆に値した。期待以上といっていい。
かれこれもう一刻の間、乱れることなく瞑想を続けている。半眼の、遠くを見つめる瞳は阿弥陀如来を彷彿とさせ、背筋の張った姿勢は大日如来を思わせた。三十年以上の修行を費やした瞑想に匹敵するその童の瞑想は、まさに仏を信ずる才を遺憾なく発揮している。
「今宵はここらで切り上げるか」
初老は童の背中へ手を当て、瞑想の世界から俗世へと戻す。
「…………」
戻された童は、あたりの様子を把握すると、少し驚いた顔をした。
「まだ始まったばかりではないか」
「もう申刻の鐘が鳴った。疲れたであろう?」
「一刻しかしていないではないか」
「しかとは……。お主くらいの年であれば一刻も出来れば上々じゃ」
満足そうな初老に、童はあきれ顔を繕う。
「わしは毎日三刻は瞑想をしておる。何が上々じゃ。まだまだ修練が足りぬわ」
「なに……」
驚嘆するしかなかった。
仏道に入った僧であっても、毎日三刻の瞑想は辛いものだ。瞑想とは、己の精神を無の境地に誘い、俗世から拒絶させる修行である。そうすることで、己の中にはびこる邪心と向き合い、新たな教えが降ってくることがある。
しかし、瞑想は邪心と向き合うだけに、己の精神が壊れていく感覚になることがある。目の前の邪心に耐えられず、瞑想をする以前よりも精神が廃れるということも珍しくない。
特に、精神がまだまだ未熟な童など、直ぐに逃げ出してしまうものなのだ。
「わしは、続けるぞ」
そんな中、己の隣にいる童は、一刻という、瞑想の苦痛を感じてもおかしくない時間をやり抜いたにも関わらず、まだ続けるという。それだけでも、将来が伺い知れぬ逸材であることは間違いなかった。
「はははは! お主は高僧になれるぞ」
上機嫌で己の肩を叩く初老に、童は苦い表情を向ける。
「残りの瞑想は、わしが代わりにしてもうた。どうじゃ、少し物語でもせぬか?」
童の顔はまたもや猜疑心に覆われた顔つきとなった。
「興福寺の話、聞きとうないか?」
「しょうがない……」
あきれた様子を繕う童であるが、その目は確かに輝いていた。
「広野というのか。良い名じゃな」
初老の坊主は、うんうんと頷きながら懐から出した唐菓子を喰らう。
「あんたの名前は?」
米の粉を油で揚げたという上品な菓子をかじりつつ、初老に目を向けた。
「わしか? わしわな……」
岩の周りには白や黄の蝶が優雅に飛んでいる。紅く淡い光もあいまって春の夕を感じさせた。
「ちょう……。澄という」
「蝶? 女みたいな名前じゃな」
「いやいや、虫の蝶ではつまらん。サンズイに登と書き、澄じゃ」
広野という名の童は、怪訝な顔をする。
「ああ、すまん。サンズイなどと言われてもわかんらな。まぁ、ちょうという読みだけで」
「すみと書き、ちょうであろう? 変な名じゃな」
「ほう、字がわかるか」
「見くびるな。わしはこの滋賀郡の郡司である三津首(百枝の嫡子であるぞ」
「ほう……」
澄に少しの驚きと怪訝が襲う。
「郡司の嫡子であるのに、御父上はよく寺に入るのを許されたな」
「それがな……」
広野は首を落として深く項垂れた。
「父上には酷く反対されておる」
「そうか……まぁ、当然ではあるな」
剽軽な顔つきで残りの唐菓子を口へ放り込む。その様子に、広野は頬を膨らませた。
「何が当然じゃ。父上とてな、書庫に経典を数多置き、屋敷すら伽藍のような造りにして、御仏を深く信ずる一人なのじゃ。わしが山林仏教を志したのは父上の影響もある。それなのに、寺に入ると言い出した途端……」
赤く染まった己の頬に手を当てる。
「御父上にやられたか」
澄は、「子供じゃな……」という目で、呆れた表情を繕った。
「それに今、仏門に入らねばならぬ訳があるのだ……」
「それは?」
「近々、崇福寺におられた行表上人が、大国師としてこの近江国の国分寺に来られる」
広野の目は、次第に輝きを帯びていく。
「崇福寺において皆の信仰を集め、千手観音菩薩までお造りになったお方じゃ。お主も坊主の端くれなら名くらいは知っておろう?」
「…………」
「あれほど偉大な方に教えを賜れば、わしもいつか立派な僧になれるぞ!」
「その行表上人とやら、もう少し詳しく話してくれんか?」
澄の顔には何故だか満足そうな優越感が漂っている。広野はその顔に少しばかり頬を引きつらすが、
「行表様のすごい所はな……」
己の尊敬する人物を惜しげもなく話せる好機に夢中となった。
日はだんだんと落ちてゆく。
〇
その日から、広野は朝一番にあの岩場へと向かうようになった。
父による拳の痛みも、帰りが遅いという母の掌の痛みも、嬉しさにより消えていた。周囲の田畑から、「聞いたか? 郡司様の倅、仏門に入りたいとか言ってるらしいぞ」「跡を継ぐだけで土地も官位も手に入るというのに、贅沢なお方だ」どこから派生したかも分からない噂話が耳に入れど、広野の中ではただの雑音と化していた。
大地を緑と赤で染める野花を脛でかき分け、進んだ先には、いつもの場所にいつもの坊主がいた。
「今宵は、いかなる話をする?」
「まずは瞑想が先じゃ」
澄は己の身を右に寄せ、
「三刻やろうか」
「いや、四刻」
「ほう、気張るの」
童の情熱の目を、慈愛の顔で包み込み、初老と童は肩を寄せ合って無の空間へ己を誘った。
「いかなる話をする?」
広野は目を輝かせ、瞑想の姿勢で己の体を前後に揺らす。日は既に地平線へと近づき、紅い光を照らしていた。
「そうじゃな……」
澄は不意に目を細め、
「瀬田川にでも、出かけようか……」
微かに顔を引き締めた。
南方に琵琶湖と繋がる瀬田川は、京と琵琶湖を結ぶ物流の拠点であった。琵琶湖と瀬田川の境には、日本海からもたらされた唐や新羅の貿易品、京の都から運ばれてきた物品が混在し、日本国でも指折りの賑わいを見せている。
「瀬田川に来たなら、市にでも見聞すればいいものを……」
沈む日に呼応して、賑わいを落ち着かせる市を他所に、広野と澄は人里離れた河川敷へと足を運んだ。
「ここが、かの有名な瀬田川か……」
「澄は初めてか?」
「ああ。じゃが、平城の都にいた頃からこの川は知っていた」
広野は怪訝な顔で首を捻る。
「恵美押勝が起こした、大乱じゃよ」
河川は夕の光を揺り動かせ、清純な音と香りを運ばせる。それを見つめる澄の目は、どこか憐憫さを滲ませていることを、広野は容易く察し得た。
「瀬田橋での戦は、聞いたことがある」
「ほう、物知りじゃの」
「それに……」
広野は思わず顔を俯かせた。恵美押勝が起こした大乱は、己の生まれる二年前の出来事である。本来ならば、地元で起こった過去の大乱。程度の認識であったろう。
だが、広野にはそれでは片付けられぬ、人並み以上の思いがあった。この戦が、幼き童の心に火をつけ、山林仏教を志すきっかけを作ったのだ。
「あの戦で、山林仏教が衰退したとも聞いたことがある」
不意に呟いた広野の声には、少しばかりの怒りが纏わりついている。
「恵美押勝が討死した後、孝謙上皇の側近として法王にまで成り上がった、道鏡という僧侶が、山林仏教を堅く禁じたと聞いたことがある」
「…………」
澄の憐憫な目は、徐々に苦心の目へと変わっていく。
「恵美押勝の残党が、僧に化けて山林に籠るのを恐れ、出した下知じゃ。致し方ない」
「権力と仏の教えは全く別物であろう!」
童の純情な叫びは、初老をさらに苦しくさせた。
「そうで、あるがな……」
言葉に詰まる。童の放つこの言葉は、机上の空論に過ぎない。古来より仏の教えは朝廷の加護を受け発展してきた。まして今に至っては、仏に司る者が朝廷を牛耳っている。とても、権力と仏の教えが「全く別物」などとは言えない。それが日本の、いや、この世界すべての神仏と権力の関係であった。
「仏の教えは、権力とは無関係に多くの者を救わねばならない。間違っているか?」
しかし、そうでなくてはいけなかった。童の放つ机上の空論が、本当でなくてはいけない。そのような世でなくてはいけなかった。
「難しい、話だ……」
苦し紛れに出した言葉は、己でも弱々しさが伝わる。童の無垢な主張に胸を張れないこの世は、歪んでいるのだと感じる。
「わしの言っていることは夢見事か?」
広野の鋭い目つきに、一瞬たじろいだ。それはまるで、己のすべてを修行に捧げた修験道のような眼光であった。
「そのようなことは……」
「いや、いい。わかっておる。仏道を司る僧侶が朝廷の権力闘争に介入するなど、今も昔もよくある話だ。わしの言葉は、所詮は童の戯言じゃ」
「…………」
「だがな、澄。わしはそれでも、いや、だからこそ、ほんの十数年前まで虐げられてきた山林仏教を志し、立派な僧侶になりたいんじゃ。わしの築く礎が、いつか、教えの本来あるべき姿になれれば、本望なんじゃ」
広野の顔には、笑みが零れていた。
琵琶湖の風は、この瀬田川にまで吹き寄せ、童の髪を靡かせる。夕の紅い光と、夜の漆黒が混在する空を背に、朗らかに頬を緩めるその童は、仏陀の生まれ変わりではないかと初老に思わせる威厳であった。
〇
郡司の屋敷といえど、表門まで瓦葺にしている屋敷は恐らくここだけであろう。瓦の工人が在住する土地柄と郡司の趣向が生んだ豪勢な門であった。
「広野様、旦那様が居間でお待ちしております!」
広野の帰還を確認した下女は、慌てた様子で給屋から飛び出した。
「お早く伺った方がよろしいかと……」
玄門口で広野の足を拭く下女の顔には、哀れみが浮かんでいる。これから苦行を受ける人間を見つめる目であった。
「怒って、おられるか……」
「それはもう……」
空はもはや夜の黒に覆われ、三日月に欠けた月のみが、地上に光を注いでいる。
日が落ちるまで瞑想をした後、瀬田川にまで足を運んだ結果、童の帰還するような刻限ではなくなったのである。
「父上……」
簾越しに呟いたこの言葉には震えが混じっている。何の装飾もない無地な簾は、父の怒りに怯える己の思考のようであった。
「入れ」
図太い声である。だが、その声色は何の感情も芽生えていない、虚無な声であることを、倅である広野にはよく理解ができた。
「失礼致します」
月の愛でられる板敷きの居間に入れば、そこには父の隣にもう一人、怒りの表情を滲ませる母が座っている。
「どのような、ことで……」
苦笑の顔で両親の前に腰を下ろす広野に、
「自分でわかっているでしょう」
母は怒りの眼差しを向けた。
「…………」
「なぜ、こんな夜遅く」
「修練に、忙しかったのです」
母の眉間に、皺が寄った。
「何が修練ですか。あなたは郡司の倅でしょう? 多少、勉学ができるからって仏道などにうつつを抜かして。それで立派な郡司になれると思っているのですか?」
「私は、郡司に……」
「ならなくてはいけないのです。あなたの御爺様や御父上がいかなる苦心をしてこの土地を守ってきたかわかっているのですか? あなたには、この滋賀郡をいつかは治めるという覚悟が足りない」
母の顔には必死さが滲み出ている。
広野は俯き、
「はい……」
見繕いの言葉を発した。
「本当にわかっているのですか?」
「はい……」
「何ですか! その気抜けた返事は」
「はい……」
「もう、いいです!」
怒りの表情を、息子から背ける。
居間は一瞬、不穏な静寂を生んだ。父の背後に輝く三日月が無情にも美しく光を放っている。
「広野……」
やっと発した父の声は、失望も落胆も感じられない。ただ、諦めの声であった。
「勘当……するか?」
諦めの目を向けたまま、にこやかな笑みを垂らす。
「ちょっと!」
母は驚いた顔を見せるが、広野は変らず顔を俯かせたままである。
「お主が寺に入りたいと言い出してから、ずっと考えていた。わしとお主の縁を切れば、何の憂いもなく、寺へ入れる。今後、一族間で何かあったとしても、お主とわしは他人になるのだから、めんどくさいいざこざに巻き込まれることはない。もちろん、この滋賀郡を気にする必要もない」
「ほ、法螺を吹くのはやめてくだい! 広野が本気にするでしょう」
「法螺ではない!」
父の頬は、紅く火照っていた。
「広野。わしもな、幼き頃は寺に入ってみたかったのだ」
「え……」
広野は俯く顔を上げ、驚きの目を見開く。
「この屋敷や書庫にある経典を見ていればわかるだろう。わしは、仏の教えが好きじゃ。こんな地方の領主など直ぐにやめてしまいたいほど、好きなんじゃ」
「いい加減にしてください!」
憤激の怒りで我が夫の肩を掴む妻に対し、
「頼む。黙っててくれ」
父、百枝はこれ以上にない眼光で睨んだ。
「だが、わしは屈した。滋賀郡の郡司を継がねばならないという義務に、責務に、屈した」
広野を見つめるその目は、慈愛の目へと変わっている。
もはや、百枝は己の倅を郡司の嫡子とは見ていなかった。かけがえのない、一人の息子として広野を見つめていた。
「広野、お主が本気だと言うのなら、もうこれ以上は止めない。わしの代わりに、仏の道を志してくれ」
「…………」
言葉が出ない。父にこんなにも優しい表情を向けられたのは初めてだ。親不孝である自分になぜこんな慈愛の表情が出来るのか、わからなかった。父のやさしさに、親馬鹿に、屈してしまいそうになる。
広野は、己の唇を強く噛み締めた。
「勘当など、まっぴらごめんです。わしは、三津首百枝の倅として、寺に入りまする」
立ち上がり、威厳の張った顔つきで言い放った。
「失礼致しました」
「広野!」
母の叫びをよそに、居間の襖を勢いよく閉じる。
「勘当など、駄目であろう……」
絶対に、駄目であった。己は、親不孝者として、寺に入らなければいけないのだ。勘当をすれば、親に縁を切られた息子が、仕方なく寺に入る。という形が成り立つ。そうすれば、何の不自由なく、入門が出来よう。
しかし、それではいけなかった。自分は両親の期待に応えず、郡司の跡取りという責任を放棄して、寺に入るのだ。そんな、他人の横やりを受けない道など、選んでいいはずがなかった。
自分は、親不孝者であり、滋賀郡を捨てた不届き者として、寺に入らなくてはいけない。それほどの非難を受けたとしても、寺に入るという覚悟がなければ、結局、入門したところでものにならないとも思う。
広野は、夜の常闇の中、屋敷の目を盗んでいつもの場所へと向かった。いつもの坊主はいないだろうが、今、胸に抱くわだかまりを取り除くには、あの場所へ行かねばならなかった。
〇
「わしの手にかかれば、日ノ本全ての万民が救済されることも夢ではないぞ!」
薬師如来の前で、酒の頬になって高笑いをする道鏡様は、まさに憧れだった。
「行表、円興。わしはこれから、誰からも慕われるような高僧となる。じゃから、お主らもわしについて来い」
満面の笑みで渡されたその杯は、それを持つだけで夢見心地な気分に誘う。
まだ、どの建物にも木組みの纏いが取れぬ未完成な都で、大工の金槌が鳴り響くあの時間は、我が生涯で最も充実していたのではないかと思う。
「して、どのように高僧へ成り上がるのですか?」
「成り上がるという言い方は良くない。仏の教えを信じ、ひたすら人々の救済を願えば、次第に人がついてき高僧に押し上げられる」
友のこの無邪気な表情も、その無邪気さに乗り気で答える道鏡様も、皆が好きであった。この、青い春のような関係が、いつまでも続けばいいと、心の底から思っていた。
「人を救うには、力が必要なのだ」
道教様の顔が、僧侶から権力者に変わったのは、東大寺の阿弥陀如来が完成してからだ。あの巨大すぎる大仏には、誰もが目を見開いた。高僧である行基菩薩と、時の権力者であった聖武天皇が手掛けた大仏は、全ての僧の胸に一石を投じたのは間違いない。
「山に籠って瞑想をするだけで、あんなにも大きい阿弥陀如来を作れるか?」
大仏殿を見たその瞬間から、道鏡様は変わった。あれから瞑想の時間を削るようになり、代わりに皇族である高野姫に近づこうと、己の俗家である弓削氏や、師匠である義淵、良弁の伝手を頼りに、あの手この手で宮廷に入り浸たった。
もはや、見ているだけで辛かった。無邪気な円興は、道教様の仏に対する考えではなく、道教様という一人の人間に付いて行った。自分も、円興のように物事を簡単に考えられればと、何度も思った。
しかし、駄目であった。
「道教様と私では、仏の考え方が違いまする」
やはり、権力者の力に依存する仏道など、仏道ではない。
興福寺の朱門を出たあの日、道鏡様は何か言いたげであったが、もはや何も聞きたくはなかった。嫌悪感からではない。もう一度、道鏡様の声を聴けば、あの、楽しかった日々に戻れるのではないか。という甘い期待に胸が侵食されそうであったからだ。
朱門を出たその先には、眩い朝の光が注がれていた。自分の決意は間違いではないと、陽が教えてくれているようであった。
目を開けば、天井の梁が見える。寝室には朝の光沢が輝いていた。
「行表上人、お目覚めでしょうか?」
近江の小僧は、威勢のいい声をしている。
「うむ。気を使って起こしに来ずともよいぞ。今はただの暇人なのだから」
「そうはいきません。来月から近江国の仏道を一手に仕切って頂かねばなりませんから」
「大国師とは、気骨の張る役目じゃのう……。まぁ、まだ暇人でいられる隙に、また山林にて気楽に瞑想でもしてくるかの」
崇福寺の住職から、近江国分寺の住職、つまり近江国の大国師の役目を朝廷より下知された行表は、来月から仏道を纏める国を、自身で見て回るのが毎朝の日課であった。
「瀬田川の市にでも、出向くかの」
足取りは軽い。ここの所は心躍ることが多かった。
瞑想をしていた際に偶然出会った童は、想像以上の逸材であった。瞑想の姿勢は文句のつけようがなく、既に己のものとしている。小生意気ではあるが、志は高く、生まれがいいだけに教養も高い。
そして何より、仏への考えが自分と全く同じであった。
忘れかけていた、忘れようとしていた野心が、己の中で沸々と湧き上がっているのが分かる。
〝新たな力を、作りまする〟
興福寺の門前で、道教様に放った言葉が、現実になろうとしている。己では不可能と悟った志を、あの童ならば、叶えられるのではないか。そんな期待を、本気で思わせる逸材であった。
「そこのお坊さん! 何か買ってくかい?」
童について思考を浸らせるうち、賑わいのある市を気付けば歩いていた。
「今日は新羅から入った陶器があるよ」
琵琶湖へほど近い瀬田川周辺には、都での東西市同様、定期市が開かれる。瀬田川は、平城の都と琵琶湖を繋ぐ物流の拠点であるため、国内の特産品はもちろん、唐や新羅の物品も多く立ち並ぶ。
「ほう……。釉薬もよく仕上げられておる」
「そりゃあ、日本の須恵器とは質が比べもんになりませんぜ」
「そうか。では、この椀を一つ貰おうか」
「毎度あり!」
河川の流れを背に、取り繕いの笑みを浮かべる商人は、陶器の椀を木箱へ納めながら、
「こうして、河川の近くで商売が出来るのも郡司様のおかげでさ」
独り言のように呟いた。
「他の土地では、違うのか?」
「全然違いますよ。他の土地で河川に店を開こうと思ったら、その周辺の小領主や賊に銭を払わないといけないんでさ。領主の手が届かない神社や寺の門前くらいしか商売が出来ないのが、むしろ普通の土地ですよ」
市には様々な声が混在し、一つ一つの声は聞き取れない。しかし、その声はどれも活気が溢れており、都にも匹敵する賑わいを見せていた。
「ここの領主は、三津首百枝と言ったか」
「へぇ。本当に立派な方ですよ。我ら商人が無駄な銭を払わないよう、気遣ってくれてましてな。ここ、瀬田川の橋で恵美押勝と朝廷軍が戦った時も、我ら庶民の救済を一番に考えてくれて、朝廷に直談判して終戦から二年もの間、年貢を取り立てないと約束したんですから」
「ほう……。それはまこと、立派な方であるな」
行表は、驚きの顔を浮かべた。滋賀郡の郡司である三津首百枝が地方領主では強大な力を持ち、正八位下という官位を賜っていることは有名である。しかし、治世においてここまで徳の高い行いをしているとは知らなかった。あの童が教養高く、仏への考えもしっかりと芯を持っている所以が分かった気がする。
「ですがなぁ……」
商人は、納めた木箱を行表に渡しながら、苦い表情を浮かべた。
「その倅が、問題なんでさぁ……」
眉間の皺をさらに深くし、首を傾げる。
「仏門に入りたいと言っているとは、聞いたことがある」
「そう! そうなんですよ」
商人は、思わず身を乗り出した。
「しかもねえ……」
「しかも?」
「郡司様のお子は広野様一人でしてな。広野様がもし、我儘を通されて仏門に入ってしまえば、古市郷の三津家が途絶えてしまうんでさぁ」
「そうなれば、近縁の者が継ぐのではないか?」
商人は、得意げな表情で手を左右に振った。
「一族間の問題は複雑でしてな。そもそも、ここの郡司様が地方領主ではかなりの高位にあたる正八位下を賜ったのは、先代の浄足様からなんですよ。何でそんな地位を賜れたかっていったら、この、賑やかな市と交易。それに、恵美押勝の戦の折に、朝廷軍へ協力したのが理由なんですよ」
「それと、三津家が途絶えるのと何の関係があるのだ?」
行表は、怪訝な表情を浮かべる。
「考えてもみてください。三津家は、大友郷の宗家から枝分かれした家柄です。それなのに、この市のおかげで古市郷の三津家は、宗家を凌ぐ力を手にした。それに、賜った官位は恵美押勝の戦での恩が大きい」
「なるほど……。直系の後継ぎがいなくなれば、朝廷が、官位を古市の三津家に世襲させる義理もなくなるわけか」
「それどころか、分家の隆盛を妬む宗家が、嫡子のいなくなる隙に、宗家の息のかかった後継ぎを立てて、古市郷を吸収させるかもしれませんぜ」
「確かに……」
近江国は、様々な豪族が混在し、木の根のように広がった分家も数多あると聞く。疎遠となった一族はもはや、領土の覇権を争う敵も同然であった。
「ここの郡司様の治世は良心に溢れてるから、途絶えて欲しくはないんですけどなぁ……」
商人の顔は、どこか物悲し気である。
「広野様も、こんな複雑な情勢じゃあ、勘当でもしない限り一族間の問題や民の不満で寺に入るのすら覚束なくなりますよ」
「うむ……」
行表は、不意に顔を俯かせる。この商人の言葉を聞き、やっと、現実に戻れた気がした。童の才だけを見て浮かれている暇ではないと、叱咤されている心地であった。
「まぁ、こんな商人が嘆いても仕方がないんですがな……」
商人は、諦めの目で、苦笑を繕った。
そんな時である。
「ちょっとあんた、大変だよ!」
商人と行表の会話が一段落を迎えた頃、遠目に見える井戸端会議から、一人の婦人が激しい剣幕で店へ駆け寄った。
「何だよ! うっとおしい。今お坊さんの相手してるのが見えねぇのか?」
「あ」
婦人は取繕いの合掌を見せてから、
「郡司様の倅、広野様が屋敷を抜け出して見つからないんだって!」
「なに!」
最初に声を発したのは行表であった。婦人は行表へ目を向け、
「屋敷の下女に聞いた話ですから間違いないですよ。最後に姿を見たのが、昨日、玄門口で足を洗ったときだって」
「…………。釣りは要らぬ」
陶器の並べられている棚へ万年通宝を乱雑に置き、行表は血の気の引いた顔で駆けて行った。
「銭は畿内でしか流通してねぇから、使い勝手悪いんだよな……」
「でも、銭を持ってるなんて高貴なお坊さんなんだね」
焦燥が纏わりつく初老の背中を見届け、商人夫婦はあっけらかんとした表情を浮かべるしかない。
〇
広野がいる場所など、あそこに決まっている。
「馬鹿め……」
こんなにも、焦燥と憤怒を抱くのはいつぶりであろうか。
甘かった。つい、あの童を見ていると、道教様との会話を思い出し、その欲にしか頭が回らなかった。
「阿呆が……」
走りながら、己の太股を殴りつける。
広野は、郡司の嫡子なのだ。抱えている責の大きさ、仏門に入ることで嘆く人々。どれもが、他の者とは比にならない。
それを、齢十二の童が抱えているのだ。己の志と、果たすべき責の狭間で苦しんでいるのだ。なぜ、側にいた大人が救いの手を指し伸ばそうとしなかったのか。なぜ、呑気に己の野望に思考を浸らせえることしかできなかったのか。
己に対し、これほど憤怒をしたのはいつぶりであったか。
「広野‼」
いつもの岩場につけばやはり、朝の光と葉の影を一身に浴びた童が、半眼の目を浮かべている。
「澄……」
聞いたことのない初老の叫びに、広野は驚きの目を開けた。
「お主、屋敷から逃げ出したのか?」
「…………」
「逃げ出したのか⁉」
「そういうことには……なる」
澄は、眉間の寄せ皺を指で摘まみ、苦心の表情となった。
「すまなかった……」
呟くように出た澄の言葉は、広野が聞いたことのない弱々しいものである。
「何を、謝っておる?」
いつも淑やかで、冷静な澄の取り乱した姿に、広野は動揺しつつ、岩の上から飛び降りる。
「お主は、ずっと、郡司の嫡子である責と、己の志の狭間で苦心しておったのであろう?」
澄の顔は、苦しみの中に、どこか、自分の子供を見つめるかのような慈愛の目を写している。
「側にいる大人として、共に瞑想をする友として、もっと気に掛けるべきであった。すまん……」
広野に対し、深々と頭を下げた。
「…………」
その姿に、広野は顔を俯かせ、
「前言を、撤回する」
自信に漲る声を発した。
「は?」
澄は拍子抜けした表情で顔を上げる。
「わしは、屋敷には抜け出したが、逃げ出してはいなかった」
「ん?」
「わしは、三津首百枝の嫡子として寺へ入る!」
木漏れ日が揺れている。琵琶湖から瀬田川を通り、この比叡山の山麓に涼やかな海風が運ばれている証拠であった。
水の薫る風の中、広野は屋敷内で交わした父とのやり取りを事細かに話した。
「…………」
澄は、何やら真剣な表情で黙りこくっている。
父に勘当を持ちかけられたこと。勘当などという逃げの道には進みたくないと己の心で思ったこと。様々な感情が混在し、訳が分からなくなり、邪心を取り除こうとここへ来たこと。
話を進めるうち、澄の顔は険しさを増していった。
「けじめを、つけようか……」
何かを納得したように独り言を呟いた澄は、不意に、広野へと顔を向けた。その表情は、朗らかなものへと変わっている。
「広野、一緒に平城の都へ行こう」
「…………。は?」
突拍子もない発言に、広野は目の前の朗らかな表情が怖くなった。
急に名を叫ばれたと思えば、謝られ。挙句、意味の分からない発言までしはじめた。もはや、猜疑心すらも通り越す事態である。
「問答無用じゃ。わしはちと、旅の支度をしてくる。一刻ほどしたら、お主の旅道具も持ってここに戻る故、瞑想でもして待っておれ」
「いや、屋敷の者が心配……」
「使者に伝えておく。安心せい」
「使者?」
「では、大人しく待っておれよ」
「え、ちょ……」
ぽつんと一人残された感情は、喪失感だけである。未だ、頭の整理がついていないが、瞑想の他にすることもない。
首を傾げつつ、広野は岩へと手をかけた。
〇
三津家は、滋賀郡の大友郷から出た大友氏の流れを汲んでいる。その大友郷から、古市郷へ移り住んだのが三津家であり、そこからも分家が派生し、滋賀郡、特に古市郷は諸氏族の坩堝となっていた。
「百枝殿の倅が寺に入れば、直ぐにわしの次男を古市の屋敷へ入れましょう」
したり顔で酒坏を頬張る男は、百枝の側へ身を寄せ、
「なに、古市郷を奪うといのではない。元のように宗家の配下とするだけじゃ。立派な領主になれるよう、しっかり育てて下されよ」
ぽんぽんと、百枝の肩を叩いた。
「恐れながら、近縁の者に継がせるという選択もあります」
「いやいや、ここは宗家の血の濃い者が継いだ方が、今後のためであろう」
板敷きの広間には、二十人ばかしの男が居並んでいる。どれも、三津姓の者たちであった。
「広野殿が跡を継ぐのであれば問題はないが、この分だと真に寺へ入りそうだ。瀬田川の市にも噂話をちらほら聞きますしな。そうなれば、わざわざ近縁に継がせずとも、より血筋のいい者に継がせる方が、民の信頼を得られやすいのではないでしょうか」
末席に座る親族が、淡々と言葉を並べる。近江国に広く地盤を根付かせる三津家といえど、末席になれば、猫の額ほど田畑しか治められない。それほど、三津一族は枝分かれを極めていた。
「わしら古市三津家には、この古市郷を上手く治めるのうはうがあります。今から宗家の人間に継がせれば、古市郷の民は動揺しましょう」
「そうならぬよう、わしの次男をしっかり鍛えてくれと言っておる」
「…………。しっかり鍛えたとて結局、後を継げばあなたの操り人形になるのでしょう?」
「何を言っておる! そのようなことは……」
「操り人形でも構わない! 上手く古市郷を治められるのなら。しかし、古市郷を治めるには、銭の知識が必須。それは、一朝一夕で得られるものではない! あなたが古市郷を操れば、必ず失敗する!」
「こっちは、倅の我儘に苦心をしているお主を助けてやろうと言っておるのだぞ。大人しく従っていれば良いのだ!」
「そのような気遣いは無用!」
双方これ以上にない眼光を向けている。
「しかし……」
末席の男が、独り言のように口を開いた。
「三津一族を集めて、お次の大国師様は何を考えているのでしょうか?」
この言葉に、広間は怪訝の一色となる。
「問題の広野も連れてくるそうだぞ」
怪訝の中で一人、生気に満ちた眼光を浮かべるのは、広野の父、百枝であった。
〇
「平城の都といえど、外京なのだがな」
野草を喰らう鹿の視線を一身に浴びつつ、石段を上がった先は巨大な朱門であった。
古市郷から、平城の都まで半日がかかる。その間、澄はどこか、懐かし気な表情を節々に見せていた。
「なぁ、澄……」
巨大な朱門を前にし、広野は道中でずっと抱えていた疑問を投げかけた。
「お主は、一体何者なのじゃ?」
「…………」
澄は、不意に顔を上げ、雲一つない青空に目を細める。そこには、白や黄の蝶が優雅に飛んでいた。
「わしはちと、名が知られている故、偽りの名を名乗ることがある」
「澄という名は、偽りだと?」
広野が怪訝な眉を潜ませた時、
「行表‼」
紅い壁のような扉が開き、現れたのは行表と同じ六十手前ごろに見える初老の男であった。
「円興……。久しいのう」
「ああ」
互いの眼差しには、様々な感情が浮かんでいる。しかし、長い間、違う時間を過ごした友とまた再会できた。そのことに、嬉しさという感情が最も勝っていることは、どちらも同じであった。
「これで、道鏡様もいれば揃うのにな」
円興の悲し気な表情に、行表も顔を俯かせる。
「…………」
もう二度と会えぬ道鏡様のことを思うと、無念な感情が湧いてくるのは、確かである。もう少し、何か出来たのではないか。もう少し、何かを変えれば、あのような形が道鏡様との最後の姿にならずに済んだのではないか。そう思うと、後悔しか残らなくなる。
「これが、お主の言っていた新たな力か?」
円興は、哀感の空気をかき消すように、にこやかな表情で広野へ視線を落とした。
「み、みみ三津首ひ、広野と、申します」
広野は、自身の動揺すらも自覚出来ぬほど錯乱している。今まで共に瞑想をしていた初老は、近江国の大国師で、門前に立つ男は、宮廷において仏道を司る役所、僧綱所の重役である小僧都に任じられている高僧であった。
「お主の連れ、少し様子が変だぞ?」
「はは。こ奴は人一倍、僧への関心が強い故な」
行表は慈愛の表情を見せると、動揺する広野の背中を押し、朱門の中へ入っていった。
「ここで別れて、いつぶりになろうか」
行表は笑みを垂らして、内側の朱門を眺めている。
「二十年ほどになろう」
初老の目はどちらもここにはなかった。道教と行表が決別をした、あの日に戻っているのであろう。
「道教様は、お亡くなりになる直前まで嘆いていたぞ?」
「何を?」
「お主がいれば、もっと、徳の高い治世が出来たのではないかと」
「……。道教様らしいな」
行表は思わず「くく」と、小さな笑い声を漏らす。そんな行表を傍らに、円興は怪訝な表情を浮かべた。
「して、先に届いた文に書いてあったことは真か?」
「ああ」
道教の潔いい頷きに、円興はさらに眉間を深くする。
「お主は、権力とは疎遠の仏道を志すのであろう? お主のあの文は、矛盾しておるぞ」
「…………」
行表は顔を俯かせ、頬を少し引き締めた。
「ああ、そうだ。あの文は、わしの志とはかけ離れている」
「では、どうして」
「そうじゃな……」
朗らかな目を浮かべる行表は、不意に、金堂の巨大さに圧倒をされている広野に目を向けた。
「こ奴の、せいかの……」
広野の頭を、乱雑に掻きむしる。
「ちょう……行表上人。やめて下され」
皺かれた手を払い除ける広野は、どこか遠慮が含まれていた。
「澄が、行表という名になっただけじゃ。今まで通りの付き合いで良い」
慈愛の表情を、黒光りする髪に向けると、
「道鏡様が大仏で変わったように、わしは、この広野という童で変わった」
笑みを垂らした。
「この童のために、お主は手を汚すのか?」
円興は、苦心を纏った鋭い目線を向ける。
「人を救うには力が必要という、道鏡様の考えは、一概には間違いではないな」
もう一度、朱門へ首を擡げると、行表は覚悟に満ちた眼光となった。
「これが、最初で最後じゃ。わしは、この童のため、手を汚す。新たな希望のため、一度だけ、道鏡様と同じ道を行く」
「…………。そうか……」
鋭い眼光に、円興は諦めの表情となった。
「やりたければ、やればいい」
懐かしむ目で、円興は笑みを垂らす。あの日の、道鏡の言葉を再現しようとしているのだろう。
「お主が決めた道じゃ。わしらに止める筋合いはない」
行表も、笑みを漏らす。
「だが、力がなければいかなるものも救えぬのは確かじゃ。わしの……、わしの力を利用するならば、お主は如何なる力を持つ?」
行表は広野の肩を持つと、
「新たな力を、作りまする」
日の光は、三人を包み込むように優しく輝いていた。
〇
「失礼しますぞ」
広間の襖を勢いよく開けた大国師に、居並ぶ三津一族は緊張の張った表情となる。大国師の傍らには、広野の姿もあった。
「お次の大国師様が、我ら三津一族に話があるとは恐れ多いことでございます」
居並ぶ最上席にいる、三津宗家の男が取り繕いの笑顔をみせる。
「いやいや、皆さまを急に呼び出した挙句、郡司殿の屋敷も貸していただけるとは、真、申し訳ありませぬ」
一例をし、広野と共に、三津一族に囲まれるように居並ぶ中央へ腰を下ろした。
「早速ですが、話とは何でしょう?」
広野の父、三津首百枝が睨むような眼光で行表へ顔を向けた。
「…………」
行表はゆっくり周りを見渡すと、小さな吐息を漏らし、
「三津首広野を、どうか、近江国分寺に入れてもらいたい」
深々と、頭を下げた。
広間には慄くような声が響き渡る。広野が寺に入るという噂は、誰もが耳に入ることであった。しかし、まさか近江の大国師が懇願をするとは、夢にも思わないことである。
広間に不穏な静寂が生まれる。誰もが、この事態を飲み込めていなかった。
「寺に入ることは広野も望んでいたこと。まさか大国師様に頭を下げていただけるなど、父として、これ以上にない喜びであります」
百枝も行表に倣い、頭を下げると、
「しかし、広野を寺に出せば、我が古市三津家は後継ぎを無くすことになります。そのことに対し、何か加護というものはありますのか?」
「どのような加護が、お望みか?」
行表と百枝は、互いに目配せをし、したり顔を垂らした。
「我が一族の意思では、後継ぎを寺に出すならば、いっそのこと血筋のいい宗家の者に継がせた方が良い。という考えでございます。しかし、ここの土地は銭が多く行きかう特殊な土地。とても新参者では領主が務まる土地ではありませぬ」
「して、望みは?」
「古市の三津家が絶えぬよう、近縁の者に跡目を継がせることを朝廷に認めていただきたい」
「…………」
広間に緊張の静寂が訪れる。
宗家の男は睨むような目つきを百枝に見せるが、大国師の前では声には出せないようであった。
「それならば……」
行表がこれ以上にない卑しい表情を作る。百枝も同様に、片頬を吊り上げた。
「宮廷にいる小僧都に一人、伝手があります故、口添えをさせていただきましょう」
「それで、朝廷は認めていただけますか?」
「仏道と権力は、もはや切っても切り離せぬ関係ゆえ、大綱所の重鎮である円興上人の口添えでしたら、何の心配もいらないでしょう」
「それならば、良かった」
二人の会話は、まるで芝居のような取り繕った口調であった。
「百枝! 謀ったな!」
突如、宗家の男は憤怒の顔で身を乗り出した。
「小僧都に口添えをしてもらうなど、事前に話合いをしたとしか思えん。宮廷への伝手を利用するなど、大国師様の手を汚させて……。そこまで古市郷が惜しいか!」
「わしが……言い出したことじゃ」
行表は申し訳なさそうに苦笑を垂らした。
「え?」
宗家及び三津一族は、唖然とした表情を浮かべるだけである。
「この広野という童は逸材での。将来が楽しみで、わしの手で育てたくなったのだ。その見返りとして、事前に百枝殿の屋敷に使者を使わし、一連の話合いを済ませた。すべて、わしの意思でしたこと。わしの責任じゃ。どうか、恨み辛みがあるのなら、この行表に言ってもらいたい」
鋭い眼光を向けつつ、再び頭を下げた。
「…………。大国師様のご意思ならば、仕方ありませぬ」
宗家の男は、すねた顔つきで渋々口を噤んだ。
「広野‼」
突如、怒号のような声が響き渡る。
広間の者が一斉に声の主へ顔を向けると、百枝が眉間に皺を寄せていた。
「いいか、広野。お主は滋賀郡の民を裏切り、寺へ入るのだ。中途半端は許されぬぞ」
「わかっております」
父の眼光に負けず、広野の目は、光り輝いている。
「うむ」
その目に、百枝は何かを納得したのか、眉間の皺を緩めると、
「郡司の道であろうが、仏の道であろうが、目指すところは結局一緒だ。歩く道は違えど、皆、同じように懸命に生き、懸命に立派な人となろうとしている。行き着く先は、皆が皆、一緒なのだ」
問いかけるように、広野へ言葉を伝えた。
「…………」
広野は少し、怪訝な表情となる。
「心を一乗に帰すべし」
行表は、得意顔で広野の肩を持ち、
「そのうちわかればよい」
朗らかな笑みを見せた。
行表の朗らかな顔につられ、広野は思わず頬を緩めた。父の百枝もそれにつられ笑みをたらす。
父と何の邪心もなく笑い合ったのは、いつぶりであったか。
郡司の屋敷には、今日も清々しい風が吹き渡る。ある一人の童の門出を祝うように、空は青々と澄み渡っていた。
〇
「見送る立場とは、こんなにも切ないのか……」
「ん? お師匠様、今なんと?」
近江国分寺の正門も、興福寺に負けず大きく紅い。天の模様も、あの時と同じ、朝の光沢が光り輝いていた。
「いやいや、何でもない」
行表は、皺かれた手を左右に振る。
その手を見て、
「お師匠様が天に召される前に、帰ってこられるか……」
弟子は悲し気な声を漏らした。
「弱気なことを言うでない。お主が行くのは、仏道の総本山、洛陽であるぞ。日本の里心が抜けぬようなら、唐の僧侶に舐められてしまう」
師匠の、潜めた眉の中に見せる慈愛の表情に、弟子は納得のいった頷きをする。
「そうですな。洛陽で思う存分、気張ってきます」
背筋を張り、師匠の目に己の目を合わせる。それだけで、二人は十分すぎる程、分かり合えていた。
「では、行って参ります」
朱門をまたいだその足は、頼もしく、勇ましい。あの時から二十年以上がたった。寺に入りたいと眼を輝かせていた童は、今、唐の仏道を極めんとしている。勇ましいその背中は、こちらにまで勇気と自信を与える。
あの立派な僧を育てのは己だと、日ノ本すべての民に知らしめたいほど、うれしかった。
「新たな力は、実りましたぞ……」
そう、天に呟ける弟子が、うれしかった。
弟子の背中は、だんだんと小さくなる。もはや、声も聞こえないだろう。
行表は、はるか前方を見据える弟子に慈愛の目を向けると、
「気張れよ、最澄」
朗らかにほほ笑んだ。