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「……ねえ、本当にしなきゃ駄目なの?」
「うん。頼む」
肩越しに僕を見遣った彼女に頷くと、京香は露骨に渋い顔をして見せた。
新たな落書きが見つかった日の晩、僕は京香に頼んで「次の日曜に、凜の家へ連れて行ってほしい」と頼んだ。亜理紗とはあまり親しいわけでもなく、悠美に至っては京香に対し好意的でないため、消去法で凜から情報を探るほかになくなったのだ。京香に無理強いをするのは気が引けるが、僕だけではどうにもならないため致し方ない。
千代家から出発して十五分ほど住宅街を歩いたところで、おもむろに京香が遠くを指さした。
「あそこが凜の家よ」
妹の示した方へ目を向けると、他の住宅よりやや大きめな三階建ての一軒家が視界に映った。赤茶色の屋根瓦が特徴的な、立派な外観の家だ。
玄関の前に辿り着き、僕はインターホンのスイッチを押した。数秒してインターホンから少女の声が聞こえてきた。
『はい、水野ですけど』
「千代です。今、大丈夫?」
少女の声に応じたのは京香だ。
事前に京香が凜へラインのメッセージを送っていたためか、すぐに玄関が開いて凜が姿を見せた。
「こんにちは。そちらの方は、充さんですよね。話は京香ちゃんから伺ってます。どうぞ」
はにかむように笑んで、凜は充たちを中へ通した。少し古い雰囲気だが、洒落た花瓶や油絵が靴入れや壁に飾られ、垢抜けた内装だった。
階段を上がり、凜の部屋に入らせてもらうと、前もって用意していたのか中央のラウンドテーブルの上にコーヒーとクッキーが置かれている。
「狭い部屋ですけど、ゆっくりしていってくださいね」
ほんのりと頬を赤く染め、凜が僕とその妹に微笑みかけた。僕がテーブルの前に腰を下ろすと、京香もそれに倣って隣に座った。
兄妹に向かい合った凜が、僕を見てにこやかに尋ねた。
「充さんって、部活とかしてらっしゃるんですか?」
「ええ、新聞部に」
僕が返すと、凜は大げさに驚いたような顔になる。
「新聞部ですか、すごいんですね! けっこう忙しいでしょう?」
「いえ、全然すごくなんかないんですよ。文房具の記事を書くだけで、他はあまりすることもありませんしね」
「そう、いつも暇してて、家に帰ってくるのもいつも一番なのよ」
いきなり口を挟んできた妹を横目で睨むが、京香はどこ吹く風といった顔をしている。僕たちのやり取りを見ていた凜は、微笑ましそうに目を細めて僕を見た。
「私のことは敬語なしで構いませんよ。こっちが後輩ですから」
言われて見ればその通りだ。
僕が「分かった」と頷くと、凜はにこやかに訊いてきた。
「ところで、文房具の記事を書いてるっておっしゃってましたけど、文房具が好きなんですか?」
「うん、まあ色々集めてるよ」
「へえ! じゃあ文房具のこととか、いろいろ詳しいんですね」
「いや、ただ好きなだけだよ」
その後も凜は高校の話などを僕に尋ね、しばしば京香にも最近の芸能人の話題などを振った。笑顔で話す凜からは僕に対する警戒心は窺えなかったが、それでも油断はできない。
おすすめの可愛い文房具はないか訊いてくる凜に、自分の好きなシャーペンについて話しながら、僕はさりげなく室内を観察した。パステルグリーンのクッションや白熊のぬいぐるみが置かれ、いかにも女子中学生らしいファンシーな部屋だ。しかし、どこを見てもスマホが見当たらない。学習机の教科書の下などに隠れている可能性もあるが、探し出すのに手間取りそうだ。学習机の片隅には、赤い小型のノートパソコンが置かれている。
僕の血液型を訊いたあとに、凜がにこやかに続けた。
「ところで、充さんって誕生日いつですか?」
「六月三日だよ。六月って祝日がないから、いつも平日に当たって損した気分になるんだけど」
笑みを浮かべながら僕が答えると、京香は思い出したように口を開いた。
「そういえば、凜の誕生日っていつなの?」
「あれ、まだ京香ちゃんに教えてなかったっけ? あたしの誕生日は、十一月二日だよ」
「えっ、マジ? ついこないだじゃん! もっと早く訊いとけばよかった~、ごめんね」
「いいよ、そんな。気にしないで」
ややオーバーな仕草で落ち込む京香に、凜が穏やかに笑んだ。
二人の会話を聞きながら僕は凜の誕生日を脳内に刻みつけた。京香が凜に誕生日を尋ねたのは偶然ではなく、事前に僕が妹へ依頼しておいたためだ。僕よりも友人である妹の方が怪しまれずに訊き出せると考えたのだが、それは正解だったようだ。
談笑しているうちに全員のコーヒーが空になり、クッキーも残り二枚となった。
「コーヒーのおかわり、淹れてきますね」
言って立ち上がり、凜は自室を出て行った。
ドアが閉まるのを確認してから、僕は声を潜めて京香に訊いた。
「スマホが見当たらないけど、あの子はいつも持ち歩いてるの?」
「学校で友だちといるときは机やテーブルの上に置いてたけど……今日はそうみたい」
それを聞いて、僕は落胆の息を吐きそうになった。
予想外の展開を苦々しく思いながらも、凜の情報を得るための策を探る。
今時の中高生は物心ついた頃からネットが身近にある世代だ。よほど機械に疎くない限り、友人との連絡や情報交換はパソコンかスマホに依存している。つまり、スマホが見つからない場合、彼女の個人情報や人間関係を探るにはパソコンを見なければならない。
僕は学習机に置かれたノートパソコンを見遣り、ぽつりと呟いた。
「ただ、あれにアカウントのパスが設定されていたら手こずりそうだけど……」
「うまく探れそうなの?」
「京香がどれぐらい時間を稼げるか次第だね」
僕が正直に答えると、京香は露骨に渋面を見せた。
「そんな顔しないでくれよ。京香が持ってきた厄介事だろう?」
「そりゃ、そうだけど……」
「じゃあ、よろしく頼むよ」
僕が言い、京香はどこか自信のなさそうな表情で席を立った。部屋を出る間際、「終わったらメールは寄越してよ」と残してドアを閉めた。
妹を見送ってから僕は学習机の前へ歩み寄り、教科書やノートをどかしてスマホを探しはじめた。二人が訪れるまで数学の宿題をしていたのか、一次関数や証明の問題が書かれたプリントが数枚置かれている。それらをどかしたり棚の引き出しを開けたりしても、ゲルインキのボールペンや三角定規などの文房具しか見当たらない。
これ以上探しても時間の無駄と判断し、ノートパソコンを開いて起動ボタンを押す。予想通り、「水野リン」というユーザー名とパスワード入力画面が表示された。
さきほど凜が言っていた誕生日を思い出し、『1102』と入力するが、パスワードが違っているというメッセージが現れた。パスワードのヒントを見ると、『私の名前と、誕生日は?』と書かれていた。パソコンのアカウントに限らず、SNSなどのパスワードを自分の誕生日に設定している人は多い。情報リテラシーの未熟な中学生ならなおさらだ。ただし、パソコンのアカウント設定では数字のほかにローマ字と一部の記号も使えるため、かなり厄介だ。
僕は少ないヒントと勘を頼りに、猛然とキーボードを打った。
rin1102
1102rin
11rin02
mizumori1102
1102mizumori
mizu1102mori
mizu11mori02
rin*1102
mizumori*1102
rin1102*
それらしいパスワードをひと通り打ち込んでみたものの、どれも弾かれてしまう。やはり、パスワードの総当たり攻撃は効率が悪い。
万事休すか。
諦めかけた僕がふと視線を脇へ逸らしたとき、ベッドの上——掛け布団の端から小さい猫耳が出ているのが見えた。小さくファンシーなそれに手を伸ばすと、可愛い猫カバー付きのスマホだった。机周辺を探しても見つからないと思ったら、こんなところに置かれていたとは……
速やかに脇のボタンを押すと、ロック画面が表示されるがパスワードは設定されていなかった。これは思わぬ幸運だ。
とりあえずGメールを開き、メール内容を確認する。Gメールは使う機会が少ないらしく、ほとんどがネットでの買い物関係のメールだった。
他にめぼしい情報はないか、マイファイルのアプリを探ってみる。フォルダーに音楽や動画、文章はなかったが、写真は多く保存しているようだった。どれもみな人気のある芸能人や俳優のもので、おそらくネットでダウンロードしたものと思われた。ちなみにフォルダーは分けていないようで、様々な有名人の画像が一緒くたに保存されている。
「ん……これは?」
画像フォルダーの一部に顔の映っていない謎の写真を見つけ、僕は小さく呟く。それは、少女が露出の多い服装で自撮りをしているものだった。少女の体つきはどこか幼く、未成年のものと考えられた。複数人で映っているものもあれば、単体で映っているものもある。映っている人物の中には僕の知る顔もいくつかあった。
なるほど、そういうことか。
僕はにやりと笑んで、懐から自分のスマホとケーブルを取り出した。画像フォルダの数枚をそれに保存し、スマホを元の場所へ戻す。寸前に時間を確認すると、五時四十分になるところだった。
事が済んだと京香に連絡しようとしたとき、ちょうどドアが開いた。
「待たせちゃってごめんなさい、充さん。実は京香ちゃんがどうしてもミルクティー飲みたいっていうから、コンビニまで行ってました」
間一髪だった。
胸をなでおろしたい思いで、僕はふっと笑んだ。
「気にしないで」
言って僕が京香へ視線をやると、彼女は「大丈夫だった?」と訊きたそうな目を向けてきた。小さく頷いて見せると、彼女もにっと笑んだ。
その後、僕はぬるくなっていたコーヒーを飲み干し、「夕食の準備をしないとだから」と先に部屋を出た。
あとは、京香にもう一仕事だけ頑張ってもらうだけだ。
凜の部屋に残された妹にすべてを託し、僕は自宅のある方向へ歩いていった。