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翌日、京香は幾ばくかの不安を抱きながら登校したが、幸いなことに杞憂に終わった。
朝のホームルームでいきなり生徒の一人が立ち上がって火炎瓶を投げることもなければ、突如刃物を持った男が闖入して生徒たちを切りつけることもなかった。数人の生徒がひそひそ話をする中、担任と日直の生徒が淡々とホームルームを進め、何事もなく一時限前の休憩時間に入った。何一つ変わったことのない、朝の風景だった。
放課後、バドミントン部が練習する体育館へ向かう前、京香は音楽室に近い女子トイレへ立ち寄った。例の落書きがどうなっているのか気になったのだ。
トイレットペーパーの下のタイルを見ると、昨日見た文章が消され、新たに次のように書かれていた。
十一月十七日、愚かな奴らを皆殺しにする。
■
部活を終えて帰宅した京香は間食も忘れ、兄の部屋へ赴いた。
充は部屋で文庫本を読んでおり、突如部屋へ入ってきた妹を気だるげに見遣った。
「兄貴! 今週末、大変なことが起こりそうなの!」
「どうしたんだ、急に……」
面倒くさがるような態度を隠すこともなく、彼は本に栞を挟んで学習机へ置いた。目頭を指で押さえて揉みほぐし、退屈そうに欠伸を漏らす。
「何をそんなに慌ててるのさ」
兄が訊いてきたので、京香は新しく落書きされた文章について話した。それを聞いた彼は少し驚いたように目を見開いたが、すぐににやりと笑んだ。
「笑ってる場合じゃないんだけど」
刺々しい口調で京香が言うと、彼は軽薄そうな笑みを消して続けた。
「ああ、ごめん。ところで、十一月十七日っていうと一週間後の金曜だけど……何かイベントがある?」
「えっと……あっ!」
「?」
怪訝な顔をする兄に、京香はぽつりと言った。
「……マラソン大会の日だわ」
彼の表情が、わずかに驚愕の色を帯びた。
■
京香から事情を聞いた僕は、夕食の間もトイレの落書きのことが頭から離れなかった。
十一月十七日、愚かな奴らを皆殺しにする。
妹が言うには、トイレのタイルにそのように書かれていたという。
ちなみに昨日京香と学校のトイレに行った際、彼は落書きの下に『あなたのねらいは何ですか?』と小さく書き加えておいたのだ。あまり期待してはいなかったが、運が良ければ何か情報が得られるかもしれないと微かな望みを抱いての行動だった。
最初は自分の質問など無視されるだろうと考えていたが、大量殺人をほのめかす返答が返ってきたのは予想外だった。同時に、極めて奇妙に思った。計画的に大量殺人を実行しようとするならば、なぜ犯人は女子トイレの壁――それも、トイレットペーパーの真下という目立たない場所に書いたのだろうか。もし自分が大量殺人を行う犯人だったら、目立たないところとはいえ足が付くような予告など書かない。秘密裏に毒物あるいは刃物の用意をし、効率よく遂行するために綿密な計画を練るだろう。
つまり、犯人は予告せざるを得ない理由があったのだ。
他に、もう一つ疑問な点がある。それは、遠回しなメッセージの書き方だ。今回の殺人予告は日付こそ書かれているが、それ以外に重要な情報が記されていなかった。細かい場所や、殺害する対象、殺害方法も明らかにしていない。おそらく何も知らない人が見れば、ゲームかアニメの登場人物のセリフを真似ただけの落書きにも解釈できるだろう。こんな馬鹿げた文章で警察が動くとは到底思えないが、少し心配だ。
「ねえ、充。さっきからぼうっとしてるけど……大丈夫?」
ふと母の声が耳朶を叩き、僕は顔を上げた。どうやら自分は箸も動かさずに熟考していたらしい。
「ああ、ちょっと勉強で行き詰まってるところがあって……」
「そう? もし分からなかったら、私に相談してね。これでも、一応高校の勉強だって少しぐらいなら教えられるんだから」
「うん、ありがとう。でも、大丈夫だよ」
にこやかに返し、僕はそれ以上心配させないように焼き鮭を口へ運ぶ。
母は英語の教員免許を持っていて、大学卒業後は地元の高校で教鞭を執っていた。結婚して退職したあと、京香が小学校に入るまで専業主婦だったが、最近は駅前の英会話教室でパートの講師として働いている。
僕は箸を動かしながら、ちらりと妹のほうを見遣った。彼女も思案に暮れるように黙り込んでいるが、母が話しかけるたびに笑顔で相槌を打っていた。妹の要領がよいところは見習うべきだと素直に思う。
「ごちそうさま」
食事を終えて席を立った僕は、食器を片付けながら、どうやって犯人を探るか考えた。新たに書かれた落書きが単なる悪戯ではないとするなら、七日後のマラソン大会の日に何かが起こる。それが落書きのほのめかすような大量殺人ではないとは断言できない。
落書きの容疑者は、少なくとも水野凜と村井亜理紗、それから正木悠美の三人だ。先日、亜理紗と悠美は落書きについて話していた……つまり、落書きの存在を知っていたため、犯人である可能性は十分にある。凜については、第一発見者なので言うまでもない。
先ほど妹から聞いた話では、三人のほかに落書きの存在を知っている人物は知らないという。他に容疑者がいる可能性はゼロではないが、まずは彼女ら三人を疑うべきだろう。
皿を洗い終えて階段を上った僕は、自室に戻って読みかけの青春小説のページを開いた。
すでに、主犯を絞り込む方法は見つけ出していた。