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「……で、これが例の落書きか」
京香と共に音楽室近くの女子トイレを訪れた僕は、個室の前にしゃがみこんで落書きを見た。
次の会で、すべてが苦しみに包まれる。
少し丸みを帯びた字で、簡潔にそう書かれている。細めな黒いマーカーが使われているが、この情報だけでは詳細は分からない。しかし、油性か水性か確認するだけならば、話は別だ。
僕は立ち上がり、ポケットからティッシュを一枚取り出しながら水道へ向かった。流水でティッシュの端を濡らし、落書きの前へ戻る。
「え、兄貴……?」
戸惑う京香に構わず、僕は濡れた部分で落書きの末尾――「る。」の部分を擦った。案の定、落書きはいとも簡単に落ちた。水性のようだ。
突然の兄の行動に驚いたように、京香は声を荒げた。
「ちょ、ちょっと! 何してんのよ?」
「いや、インクが水性かどうか確かめただけだよ。てか、いきなり近くで大声を上げないでくれ。驚くから」
鬱陶しそうに妹を見る僕だったが、すぐに話を変えた。
「それで、この落書きのことを知っているのは、京香と水野さん以外に誰がいるの?」
「凛の友だちは知っているかもしれないけど……はっきりとは分からないわ」
「そうか」
京香が犯人ではないとして、容疑者はこれを知っている友人の水野と、その他数名ということになる。あるいはそれ以外であっても、女子生徒の可能性が高い。男子生徒が自分への疑いを隠すためにこの場所を選んだとも考えられそうだが、真っ先にそれを疑う必要はないだろう。
どのみち、こんな少ない情報で犯人を特定するなど、僕が警察にも不可能な話だ。
「さて、帰るか」
「えっ、ちょっと! まだ何もしてないじゃない!」
腕を掴んで引き止めようとする京香に、僕は溜め息交じりに返した。
「いくら何でも、これだけで犯人が誰か分かるわけないだろう?」
「そうかもしれないけど……せめて、明日のホームルームが大丈夫かどうかとか、はっきり言えることはないの?」
「ないね」
即答すると、京香が忌々しげに顔を歪めた。
中学校のトイレに監視カメラが設置されているはずもなく、落書きの近くを見ても髪の毛一つ落ちていない。警察ならば周辺の指紋や目撃者への事情聴取などできることはあるのだろうが、こんな曖昧なメッセージに犯罪性を見出して捜査に乗り出すことはまずないだろう。
「まあ、今僕たちにできることは、経過観察ぐらいだろうな。ただ、あくまで推論の域を出ないけど……犯人はまたここに落書きをしにくるかもしれない」
「え、それ、どういうこと?」
京香が訝しげに返したそのとき、知らない男の声が響いた。
「おい、そこに誰かいるのか?」
声を聞いた京香がまずいといった顔をする。
「用務員さんだわ。兄貴はいったんここに隠れてて。私がうまくごまかすから」
外に出ていく妹を見送り、僕はさっと個室のドアを閉めた。スマホを見て確認すると、すでに午後六時を過ぎていた。用務員が戸締まりをする時間帯で、ほとんどの生徒は学校に残っていないはずだ。在校生の兄とはいえ、男子高校生が女子トイレにいるのを見られるのはさすがに問題がある。
僕は改めて落書きを見て、考える。
落書きへの反応が目的の愉快犯が書いたとすれば、油性のマーカーを使って消えづらいように書くだろう。しかし、使われていたインクは水性だ。つまり、消すことを前提に書かれたと考えられる。犯人がこの場に戻ってこれを消し、新たなメッセージを加える可能性も十分にある。もし犯人が落書きへの反応にも興味がなく、今後同じ場所に戻らないのだとしたら、わざわざ落としやすい水性で書く必要はないからだ。
そう推測した僕は、懐から水性マーカーを取り出し、キャップを外した。僕は文房具の収集が趣味であり、ボールペンとシャーペン、マーカーの類は、常に制服の上着の内ポケットに忍ばせている。
「兄貴、用務員さん行ったわよ」
妹の声が扉越しに聞こえたのは、ちょうど彼が落書きの下に文字を書き終えたときだった。
マーカーを懐にしまった僕は、ドアを解錠して外へ出た。京香とトイレから出ると、トイレに向かう途中で散見した生徒の姿はほとんど見えなくなっていた。先ほどまで校庭から聞こえていた野球部員の声もなく、周囲は静寂に包まれている。電灯が点いていなかったら、幽霊でも出てきそうな雰囲気だ。
長居をする必要もないため、僕は足早に階段の方へ歩き出そうとする。
「ちょっと待って、兄貴」
突然京香が彼の手首を掴み、声を潜ませながら僕を引き寄せた。女子中学生の割に腕力が強く、ちょうど廊下の柱の陰に彼女と身を寄せ合って隠れる状態になる。
何事かと思った僕の耳に、誰かの足音と女のものらしき話し声が近づいてくる。
「……昨日の落書きの件だけど、水野さんは何て言っていたの?」
「あの落書きね。すごく怖がってるよ。それも馬鹿みたいに」
どうやら二人の女子生徒が歩きながら会話しているようだ。僕は話に「落書き」という単語が混じっていることが気になったが、京香が咄嗟に耳打ちする。
「兄貴はそこの地窓から教室の中に隠れて。私が――」
「いや、もう隠れる必要はないだろう」
京香の言葉を遮って、僕がすっと柱から身を出した。今は女子トイレにいるわけではないのだから、別に他の生徒に見つかっても問題はないはずだ。ちょうど京香は学校のジャージを着ていて、僕は私服姿なのだし、「部活が終わった妹を迎えに来た」とでも言っておけば不自然ではない。妹もすぐそれに気付いたようで、「そうね」と頷いた。
ちょうどそのとき、前から歩いてきた二人の片方が僕たちに目を留めた。
「あっ、千代さん」
明るく声をかけた女子生徒に続いて気付いたように、もう一方も僕たちの方を見た。
京香に話しかけた方は少し背が高めで痩せており、少し色黒な女子生徒だった。もう一方は中肉中背で、やや吊り目がちな目が特徴的な生徒だ。
長身の女子生徒が僕の方を見てから、にやにやと笑って京香に訊く。
「そちらのイケメンさんは誰? もしかして千代さんの彼氏?」
「違うわよ。一応兄貴」
顔をわずかに赤く染め、京香がはっきりとした口調で答えた。僕も軽く頭を下げ、脳内で考えておいた台詞を口にした。
「いつも妹がお世話になっております。今日は妹から帰りが遅くなると聞いていたので、迎えに来ました」
「ああ、そうなんですか。私は村井亜理紗です。よろしくお願いします」
長身の女子生徒が笑顔で名乗り、もう一方の女子生徒も彼に自分の名前を告げた。中肉中背の方は正木悠美という名前らしく、清潔感のある女子生徒だった。
亜理紗が目を細め、穏やかな口調で言った。
「だけど、こんなかっこいいお兄さんがいるなんて羨ましいなあ。ねえ、悠美」
「うん……そうね」
亜理紗が言って隣の友人に同意を求め、悠美は曖昧に笑んだ。優美は口元を穏やかそうに緩めているものの、京香へ向ける目つきはどこか鋭さを感じさせた。どうやら、京香は悠美とあまり仲がよくないようだ。
しかし京香は人当たりのよい笑みと声音で二人と言葉を交わし、適当なところで会話を切り上げた。
「じゃあ、また明日ね。千代さん」
立ち去る二人の背中が遠ざかるのを見送ってから、京香はぼそりと呟いた。
「あの二人、落書きの話をしてたわね……」
「そうだね」
短く答えてから、僕は彼女に尋ねた。
「村井さんだっけ。あの子は、京香の友だち?」
「ううん、私はあまり親しくない。水野さんとは仲がいいみたいだけど」
「そうか」
彼女の返答を聞き、僕は再び黙考する。
京香は水野凜とは親交があるが、普段は村井亜理紗と言葉を交わすことは少ないという。悠美はもともと凜や京香と同じグループに所属しているようだった。京香の話を聞く限りでは、亜理紗は凜のグループには入っていないながらも、少なからず凜と交際しているということになる。
女子中高生の人間関係が複雑であることは知識として知ってはいたが、これは何か不自然だ。直感的にそう察した僕だったが、確証がなかったため何も言わなかった。
僕たちが帰宅した頃にはすでに午後七時を過ぎており、夕食を作った母から厳しい叱責を受けた。