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梅干し味の飴を舐めながら回想している間に会議は終わり、僕はペンケースと書類を鞄に戻して席を立った。
教室を出る前に“もう一人の容疑者”から話を聞こうと思ったが、彼女は後輩の女子部員と話をしていて話しかけられる雰囲気ではなかった。仕方なく僕は容疑者である彼女――相庭先輩に声を掛けず、ドアの方へ歩いていった。相庭先輩の近くを通り過ぎる瞬間、彼女の切れ長な目が僕を捉えたように見えたが、僕は気付かぬふりをして部室を後にした。
階段を下りて廊下を歩き、梅の甘酸っぱい風味を楽しみながら下駄箱の方へ歩いていく。新聞部の部室は校舎の二階の端にあるため、玄関までそれなりに距離があるのだ。
玄関に着いた頃には校内の梅干しの飴は小さくなり、それを噛み砕きながら靴へ履き替えた。そのまま校門に差し掛かるところまで歩くと、突如後ろからよく通る声に呼び止められた。
「千代くん」
振り返ると、学生鞄を肩に掛けた相庭先輩が僕の方へ駆け寄ってくるところだった。
「どうしたんですか、先輩。そんなに焦って」
「いや、だって千代くん、部活が終わったらすぐに出て行っちゃうんだもん」
息を乱して言う彼女に、僕はいつものように素っ気なく返した。
「また、僕のおこぼれに預かるつもりですか?」
「もちろん」
悪びれる様子など一切見せず、相庭先輩は俺の隣に並んで歩いた。
大の甘党であり食の太い彼女は、週に三回ほど僕の家までついてきて、僕のおやつをご馳走になるのだ。その際に母や京香とばったり会うこともあり、今では二人とも彼女のことを気に入ってフレンドリーに接している。
僕は半ば呆れながら、彼女を横目で見た。
「さっきもじゃがりこ食べてたのに、他人のおやつまでねだってたら太りますよ」
「そんなぐらい大丈夫だよ。それに、最近は毎晩ジョギングしてるし」
確かに見る限りでは、彼女の体格は決して太くはない。着痩せするタイプなのか、黒いブレザーを羽織った上体は胸から腰にかけてすっきりと細く見える。いや、多く食べても太りにくい体質なのかもしれない。
歩きながら通りの洋菓子店の方を眺めている彼女へ、僕はさっそく切り出した。
「先輩。ちょっとお伺いしたいことがあるんですが」
「ん、なになに? そんなに畏まっちゃって」
興味を引かれたようにこちらを向く彼女に、僕は淡々と続ける。
「実は昨日、僕の家で妹のモナカアイスがなくなるという事件がありましてね。それで、誰が勝手に食べたのか色々と考えたところ、先輩が犯人なんじゃないかと思ったわけです」
「ひどい! 品行方正が服を着て歩いてるような先輩を疑うの?」
ショックを受けたような顔で相庭先輩は言った。少しオーバーに感じられる口調だが、本気で怒っているわけではなさそうだ。そう判断した僕は、容赦なく切り返した。
「先輩には前科がありますから。というか、しょっちゅう後輩の家にお菓子を食べに入り浸るような人が品行方正だなんて、つまらない冗談はやめてください」
そう言った僕に、相庭先輩は少し恨めしそうな目を向けてきた。
実は一か月ほど前、彼女は僕のアーモンドチョコを無断で食べたことがある。僕が彼女を新たな容疑者として視野に入れた理由は、他ならぬその一件だった。
■
その日は二学期が始まって数日ほどしか経っておらず、残暑の残る月曜日だった。
放課後の活動はいつもと同じく、全学年で記事の作成を行って、後半は学年別に分かれて作業をしていた。二年生が今日分の余った新聞の回収および翌日分の用意で、一年生が部室と新聞の設置台の掃除だ。
僕はあまり掃除が好きではなかったが、気の合う部員と談笑しながら和やかに掃除をしていた。
僕が雑巾を絞っていると、スマートフォンへ相庭先輩からラインのメッセージが送られてきた。それは『任された仕事が終わったから、先に千代くんの家に寄って待ってるね』という内容だった。
新聞部は仕事以外の規則は緩く、会議のある金曜日以外は自分たちの仕事が終わった学年から先に帰ることができる。相庭先輩によれば、このシステムは「部員たちが空いた時間を記事のネタ集めに活用できるように」と前の部長が考案したのだという。
僕は『いいですよ』と返してから、「失敗した」と思った。自宅には鍵がかかっており、当然ながら相庭部長は合鍵を持っていない。しかしすぐに今日は母のパートが休みであることも思い出し、安堵の息を吐く。寒い季節でないとはいえ、先輩を家の前で待たせるのは申し訳ないだろうから。
その後、僕は二十分ほどかけて掃除を終え、足早に帰路に就いた。普段はおやつを購入するためにスーパーに立ち寄るが、先輩が待っているので今日はまっすぐ帰宅することにした。
今ごろ相庭先輩はリビングのソファでくつろぎながら、母と世間話でもしているのだろう。そんなことを考えながら歩いているうちに、二階建ての自宅が見えてきた。
自宅の玄関を開けて中に入り、三和土に先輩の物らしき茶色のローファーが置かれていることに気付く。母と先輩の話し声は聞こえてこない。
僕がリビングに入ると、ソファに腰掛けていた相庭先輩が手を振って出迎えた。
「おかえり、千代くん」
「ええ、どうも……って、なに勝手に人のおやつ食べてるんですか」
相庭先輩は夏服のボタンを上から二つ開け、リラックスした様子でソファの背もたれに背中を預けていた。ソファの前のスクエアテーブルには、開封されたアーモンドチョコの箱が置かれている。いつも僕が学校帰りに買っているチョコだ。
「ああ、これ? さっき、千代くんのお母さんが台所の棚から出してくれたんだよ」
にこやかに返し、彼女は箱へ細身な手を伸ばしてもう一粒を摘まんだ。
僕は呆れながら、リビングへ目をやったが母の姿はない。トイレだろうか。気になった僕は、先輩へ尋ねる。
「ところで、母はどちらにいるんですか?」
「ん、ああ、そういえばさっき、ケチャップがないからってコンビニに行ったよ」
「……そうですか」
相手が息子の先輩とはいえ、さすがに不用心ではないかと僕は思った。もちろん相庭先輩が金品を盗むことはないだろうが両親も妹も人が好く、すぐ他人を信用する傾向がある。
僕は溜め息をつき、近くの壁際に鞄を置いて彼女に近づき、テーブルに置かれたチョコの箱を取り上げた。しかしチョコの小箱には重みがなく、中でチョコが転がる音も聞こえない。中を確認すると、アーモンドチョコは一粒も残っていなかった。
「え……」
思わず僕は、間の抜けた声を漏らしてしまう。
そう、今さっき彼女が箱から取り出したチョコが、最後の一粒だったのだ。その一粒はすでに彼女の口内に放り込まれ、おそらくもう溶け始めているだろう。
落胆して肩を落とす僕に、相庭先輩はにやにやしながら訊いてきた。
「最後のひと口、食べる? まだ全部は溶けてないけど」
「結構です」
「本当にいいの? 早くしないとアーモンドだけになっちゃうよ?」
「いや、本当にいらないですから。てか、返すなら代金で返してください」
そう言いながらも、僕は本気で怒る気にはなれなかった。それは、アーモンドチョコを口に含んでいる先輩が幸せそうに相好を崩しているからだろうか。
それから数分後に母が戻ってきて、相庭先輩は「じゃあ、また明日ね」とリビングを出て帰っていった。
翌日の午後、僕が部室に行って自分の机の中を見ると、折りたたんだ紙が入っていた。メモ帳らしき小さな紙に包まれていたのはミルク味のチロルチョコだ。よく見ると、紙にラメ入りの青いインクで次のように書かれていた。
昨日はごめんね。今日の帰り、コンビニであんまんおごるから許して。
相庭真美
チロルチョコと広げた紙を手にしたまま、僕は離れた席でほかの部員と話す相庭先輩へ目を向けた。数秒もしないうちに相庭先輩は僕の視線に気付き、目を細めて白い歯を覗かせた。屈託のない笑みに釣られて、僕も頬が緩むのを感じてしまう。
部活が終わった帰り、相庭先輩は約束通り僕にあんまんをご馳走してくれたのだが、偶然にも部活の練習でジョギングをしていた京香と鉢合わせしてしまった。相庭先輩と並んであんまんを食べる僕を見て、妹は意味ありげな笑みを浮かべて「兄貴もやるじゃん」と言い残して走り去っていった。
それまで先輩と下らない冗談を言い合っていた僕は、顔が熱くなるのを感じて黙り込んでしまった。ちらりと先輩を見遣ると、彼女も気恥ずかしいのか何も言わずに俯いている。心なしか、色白な頬はわずかに赤みを帯びているように見える。普段の大胆な彼女らしくない、可愛らしい表情だった。
その後、僕たちは当たりさわりのない言葉を一言二言交わし、いつもの分かれ道まで歩いた。その間、隣にいる彼女を意識するあまり、途中からあんまんの味が分からなくなってしまった。