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「だから、私はあいつに来てほしくないのよ!」
妹の京香が、向かいに座った僕に、半ば怒鳴るような口調で言った。
もちろん、彼女が怒りの矛先を向けている相手は目の前の兄ではない。京香が心中穏やかでない理由は、他ならぬ彼女の悪友のせいである。
今さっき聞いた話では、京香の通う中学校には悠美というクラスメートがいて、同じ漫画が好きな仲間なのだという。その日、いつものように京香が放課後の教室で好きなキャラの絵を描いていたとき、悠美が近づき話しかけてきた。
「そういえば千代さんって、いつもシャーペンで絵描いてるけど、ペンタブとか使わないの?」
その口調はいささか挑発的で、京香への侮蔑の色がありありと浮かんでいた。
悪友の不躾な問いに、妹は余裕を装って答えたそうだ。
「ペンタブでも描くけど、こっちの方が慣れてるし、手軽だから」
「ふうん、そうなんだ。あたしはペンタブの方が軽い気持ちで描けるけどな。そうだ、千代さんが描いたデジタル絵を見せてよ」
「悪いけど、データはパソコンの方にあるから見せられないの」
そう断ったのは、もちろん京香が「ペンタブを使って描く」と言ったことが嘘だからだ。しかし、それを暴こうとばかりに、悠美は口角を上げた。
「じゃあさ、今度の日曜に千代さんの家で、パソコンのデータを見せてもらってもいい? あたし、千代さんのデジタル絵がどんなかすごく気になるし」
こうして京香は引くに引けなくなり、後日自宅に悠美を招いて絵を見せることになった。しかし京香はペンタブすら持っていない。ペンタブ自体は金で何とかなるとしても、残念なことに京香はそれほど絵心がない。約束の日である今日、悠美が家に来れば嘘が露呈して赤っ恥をかくのは火を見るよりも明らかだ。
妹の部屋に呼ばれ、経緯を一通り聞き終えた僕は、呆れて小さく息を吐いた。
「後になってオロオロするぐらいなら、最初から無理な約束しなければいいのに……」
「断りづらかったんだから仕方ないでしょ! 何かいい方法を考えてよっ」
毎度のことながら、無茶ばかり言う妹である。
僕はまたも溜め息をつき、ちらりと壁の掛け時計を見遣った。ちょうど午後五時。京香によれば悠美が訪れる時間は五時半と約束したのだが、いつも彼女は約束の時刻より十分ほど早く来るそうなので、あと二十分しか時間がないことになる。いや、もしかしたらもっと短くなる可能性もある。
五分弱ほど黙考した挙句、僕はすっと座布団から腰を上げた。
「悪いけど、無理だな。いい方法が思いつかない」
「ちょっと! 妹を見殺しにするの!?」
言い残して部屋を出ようとした僕を、京香が叫ぶように呼び止める。渋々立ち止まって肩越しに振り返り、僕は呆れて返した。
「いや、見殺しっていうか、京香が勝手に墓穴を掘ったんじゃないか」
「だから、それを今さら言わないでよ!」
「そう言われても……」
言葉を切った僕はポケットからティッシュを取り出し、口に含んでいたガムを包んだ。普段はガムなど噛まないが、京香の部屋で間食すると「食べかすが飛び散る」と怒るため、仕方なくガムを持参したのだ。
「その、悠美さん、だっけ。その人の嫌いなものとか知らないの?」
「そんなの知らないわよ……」
絶望的な表情でうつむく京香だったが、すぐに何かを思いついたように顔を上げた。
「そういえば、前に教室であいつが他の子と話してたとき、虫が苦手だって言ってたかも……」
「虫が?」
「うん。ゴキブリはもちろん、蟻とか蛾とか、全部ダメなんだって」
妹の話を聞いて、僕は妙案を思いつき――しかしそれを口に出さず、部屋のドアを開けて外へ出た。
「それじゃ、一人で頑張って」
「え、ちょ、ちょっと! いい方法が思いついたんじゃないの!?」
狼狽する妹を無視してドアを閉め、僕は部屋を後にした。
ガムだけでは腹の足しにならないため、一階の台所に立ち寄って棚からアーモンドチョコの小箱を取り出す。それを開封して小皿に移し、流しのかたわらに置かれた蜂蜜のボトルを手にする。いつも学校から帰ると、アーモンドチョコに蜂蜜をたっぷりかけて食べるのが日課だ。
間食を終えた僕は、数粒だけ余ったアーモンドチョコを片手に握り、台所を出ていった。手が蜂蜜まみれだが、構わず玄関へ向かう。
妹は籠城を決め込んでか、部屋から出てくる気配は微塵もなく、僕が靴を履く間も彼女の足音は一切聞こえなかった。
■
兄の助力を得られなかった京香は、これから訪れるであろう悪友に怯え、ベッドの上で丸まっていた。時刻は間もなく五時二十分になろうとしている。いつあの女が来てもおかしくはない頃だ。
ベッドの上で無慈悲な兄を呪いながら、彼女は知恵を絞って防衛策を考えた。
約束してしまった以上、居留守を使うことはできない。ならば、仮病――例えばインフルエンザなどで急に高熱が出たということにして、玄関の前でお引き取り願うというのはどうか。いや、駄目だ。悠美は非常に疑り深く、すかさず京香の額に手を伸ばして見破ってしまうだろう。
となれば、急にパソコンが壊れてしまい、バックアップも取っていなかったと言うのはどうだろうか。いや、これも無理だ。そう言い張ったとしても、悠美は無理やり上がり込んで京香の部屋に入り、パソコンを起動させて嘘を暴くだろう。京香には、パソコンがウイルス感染してデータがすべて消失したように見せかける技術もない。
万策尽きた京香が諦めて目を瞑ったそのとき、玄関のインターホンが鳴った。悠美だ。もしここで京香が身を起こさず、部屋に閉じこもっていたとしても、悠美は再びインターホンを鳴らすだろう。それでも応答がなければ、大きい声で京香を呼ぶことは容易に想像できた。ちなみに、京香の両親は今日、父の親友の結婚式に参加しているため不在である。
京香が黙ってじっとしていると、再びインターホンが鳴った。
やはり、いさぎよく出るべきか。
そう考えてベッドから起き上がろうとしたとき、突如女のものらしき悲鳴と、それに続くように鈍い音が聞こえた。何やら重いものを地面に落としたような音である。おそらく階下からだと思われるが、今は家に自分以外の人物はいないはずだ。まさか、兄は出掛けるふりをして本当は一階のリビングにいて、来客に応答しようと玄関に向かったところでつまづいて転んだのだろうか。
疑問を抱きながらも京香はそこから動けず、さらに数分の間ベッドの上で身を固くしていた。
その後、インターホンが鳴ることはなかった。
■
翌日の月曜日、京香が登校すると悠美は足に包帯を巻いて現れた。
聞いた話では、悠美は昨日外出した際に転倒して足を捻挫したのだという。その詳細について京香は本人に訊いてみたものの、「別に大したことじゃないから」と素っ気なくあしらわれた。どうやら無様な姿を京香にさらすことが耐えられないらしく、この日はデジタル絵の件にも一切触れてこなかった。
そのあと京香は悠美と親しい女子生徒に訊いてみたものの、みな異口同音に「詳しくは知らない」と首を横に振った。おそらく京香にだけは知られたくはないと、友人に口止めをしているのだろう。あるいは、噂が広まるのを避けるべく友人にすら詳細を話していないのかもしれない。
結局、京香は真相を知ることなく帰路に就き、いつもの自宅の玄関へ辿り着いた。ドアノブに手をかける前に、玄関前の石畳を観察するが、足を滑らせるような油や液体が撒かれていることもない。石畳の段差の縁に踏み込めばバランスを崩して転倒することもあるかもしれないが、抜け目のない悠美がそんな失態を犯すようには思えなかった。しかし、話によれば悠美はここで転んで怪我をしたのだ。
疑問が拭えないまま京香がドアノブを握ったとき、小指のあたりに異質な感触がした。水飴か蜂蜜のようなべたつく感触である。
思わず手を離して鼻へ近付けると、何やら甘い匂いがした。それはしばしば兄の充がアーモンドチョコに付けている蜂蜜のようで、どうやら彼は汚れた手でドアノブに触れたらしい。
「全く、もう……」
溜め息をつき、京香はポケットからハンカチを取り出してドアノブの蜂蜜を拭い取った。ようやく汚れが取れたと思うと、ドアノブの端にも同様の汚れが付着しているのに気づく。しかも足元を見ると蜂蜜の匂いを嗅ぎつけてか、黒い蟻が数匹ドアを這い上がっていた。
内心苛立ちながらも汚れをすべて拭き取り、京香が玄関を開けたそのとき、ふと彼女の脳裏に一つの仮説が浮かんだ。
それは、充が蜂蜜を使って悠美を追い返したのではないかというものだった。昨日、充は彼女の部屋を出た後、呑気にいつものおやつを食べた。そのときに作戦が浮かんだのか否かは知らないが、彼は家を出る際ドアノブに――いや、もしかしたらドアから蟻の巣付近まで、蜂蜜を塗ったのだ。蜂蜜でおびき寄せられた蟻は線を描くようにドアを上がり、ドアノブに群がった。
そして、約束の時間が近づいて悠美が訪れ、彼女はインターホンを押した。ドアに蟻が集っていたことに気付かなかったのは、辺りが薄暗くなっていたためだろう。京香が出てこないことに痺れを切らし、悠美はドアノブへ手を伸ばした。きっと鍵がかかっていれば留守と判断して引き返すつもりだったのかもしれない。しかし不運にも彼女は蟻まみれのドアノブをもろに掴み、虫が苦手な彼女は大声を上げて飛びのいた。そのときに段差になっている石畳の縁を踏んでバランスを崩し、玄関前の脇に転倒した。
これが京香が考えた、悠美の負傷の全容だ。もちろん物証もなく本人からの情報もないため、真相ははっきり分からない。
靴を脱いだ京香がリビングを通って自室へ向かおうとしたとき、リビングのソファでアーモンドチョコを口に運んでいた充と目が合った。
「お帰り、京香」
言って充は、思い出したように訊いた。
「あの後、どうだった?」
「ん、絵のこと? あいつ、何も言ってこなかったわよ」
彼女がそれだけ返すと、充はチョコを口に含んだままにやりと口角を上げてみせる。それを見て、京香は自分の推理が間違いないことを確信した。
「そうか、それはよかった」
普段の兄らしからぬ凄絶な笑みに、京香は半ば驚き呆れて笑みを返した。
自分とは全く似ていないほど聡明で、末恐ろしい兄である。そう思いながら、京香は充に「ありがとね」と言い残してリビングを後にした。