催眠術の地下街
これは、家路を急ぐ、ある男の話。
「今日も疲れたな。
早く家に帰って休もう。」
夜、帰宅する人たちで賑わい始める時間帯。
その男は、その日の予定を終えて、
帰宅するために家路を急いでいた。
信号が点滅する横断歩道を足早に渡り、
川にかかる橋を渡って向こう側へ行こうとした時。
ふと、橋の袂から下の川岸に向かう先に、
見慣れない地下階段が口を開けているのに気が付いた。
急ぎ足だった足を止めて、その男は、
橋の袂から下を覗き込んだ。
「おや、あんなところに地下道があったのか。
どうやら中は地下街になっているみたいだ。
毎日同じ道を通り過ぎるだけなのも味気ないし、
せっかくだから通り抜けてみようか。」
そうしてその男は、
いつも通っている道から外れ、
吸い込まれるようにその地下階段を下っていった。
地下階段を下った先には、
思ったよりも長そうな地下道が伸びていた。
幅は人がすれ違える程度の広さしかないが、
先が折れ曲がっているのか、
薄暗い地下道の先にあるはずの出口はよく見えない。
地下道の左右にはちょっとした空間が設けられていて、
そこに並べられた露店が地下街を成していた。
俯き加減の売り子たちが、売り物を並べて佇んでいる。
売られているものは、
薄汚れた古着だったり使い古された置物だったり、
お金を出して買おうと思えるものではなかった。
そんな中で目を惹かれたのは、催眠術体験と称する露店だった。
「いらっしゃい、いらっしゃい。
こちらで催眠術やってるよ。
この催眠術は何と、生き物と体を入れ替える体験が出来るよ。」
露店の男が手を叩きながら、場違いな呼び込みをしている。
呼び込みの言葉を聞いて、その男は顎を撫でながら言った。
「催眠術か。
興味があるし、ちょっと覗いてみようか。」
「はい、こちら一名様ね!」
間髪入れずに、露店の男がその男に手招きをしてみせた。
そうしてその男は、
催眠術体験と書かれた露店に吸い寄せられていった。
「さあさあ、こちらに座ってくれ。」
その男が案内された露店には、
小さな椅子と机が一組設えられていて、
机の上には様々な絵画が用意されていた。
露店の男が用意をしながら説明する。
「では早速、催眠術を始めるよ。
この催眠術は、生き物と体を入れ替える体験が出来るんだ。
あんたが体を入れ替えたいのは、どの動物だい?」
椅子に座ったその男の前に、何枚もの絵画が並べられた。
その絵画に描かれているのは、様々な動物たちだった。
犬、猫、蛇、馬、などなど。
その中からその男が選んだのは、空を飛ぶ烏の絵画だった。
鳥になって、空を飛んでみたかったのだ。
その男が烏の絵画を選ぶと、露店の男は笑顔を作って頷いてみせた。
「烏だね、分かったよ。
では、空を飛ぶ烏の姿を思い浮かべてくれ。
この絵を見ながらで構わないから、
なるべく詳細に、全身の姿を思い浮かべて。」
「動物の姿をイメージするだけでいいんですか?
まだ催眠術をかけてもらって無いんですが。
あと、戻る時はどうしたら。」
「催眠術なら、もうかけてあるから心配いらないよ。
戻りたくなったら、自分自身の姿を思い浮かべてくれよ。
そうすれば戻ってこられるからね。」
その男の疑問に、露店の男はペラペラと早口で応える。
はて、催眠術などいつかけられたのだろうか。
その男が疑問に思う暇を奪うかのように、
目の前に烏の絵画が差し出された。
仕方がなく、
その男は露店の男に言われるがまま、
差し出された絵画を見ながら烏の姿を思い浮かべた。
黒い羽毛、黒い目玉、黒い嘴・・・嘴はちょっと曲がっているのだったか。
そうしてその男が、
烏の姿を詳細に思い浮かべていくに従って、
視界がふよふよと揺らいでいった。
やがて、視界がぐにゃりと一層歪んだかと思うと、
水流に吸い込まれるようにして、意識が消えていった。
烏の姿を思い浮かべていったその男は、
やがて吸い込まれるようにして意識を失った。
それから視界が突然開けて、目近に広がる夜空が飛び込んできた。
全身が風に吹き付けられる。
遠くの眼下に、街明かりが広がっているのが見える。
自身の体を見渡すと、両の翼は真っ黒な羽毛に覆われている。
その男は、夜空に舞い上がる烏になっていた。
「すごい。
なんて現実感のある催眠術なんだ。
まるで、本当に烏になってしまったみたいだ。」
その男は真っ黒な嘴を開くと、
人のものではない言葉で、感嘆の声を上げた。
そうして烏になったその男は、真っ黒な翼を羽ばたかせると、
広々とした夜空を堪能した。
烏の体になったその男は、
いつもは見上げるばかりだった建物を、
今は眼下に見下ろしていた。
夜空高くから見下ろす街並みは、それは美しいものだった。
街並みをキョロキョロと見渡しながら、
その男は烏の嘴で感嘆の声を上げた。
「あのビル、屋上は菜園になっていたんだな。
いつも前を通っていたけど、下から見るだけでは分からなかった。
あっちの建物は、屋上に小屋が建っているぞ。
何かの店みたいだし、今度行ってみよう。」
そうして上空からの景色を楽しんでいたのだが、
次第に疑問が湧き上がってきた。
催眠術とは、心に作用するもの。
心に作用して、考え方や体の動きを制御するものと言える。
つまり、映像を見せる催眠術というのは、夢を見せているようなものだ。
夢とは、頭の中にある記憶から作られるもので、
夢を見ている人が知っている物事だけが現れる。
逆に、知らない物事は、夢の中には現れない。
もしも夢の中に、知らない物事が出てくる必要がある場合は、
知っていることに置き換えられたり、ぼやかされて現れるだろう。
そこまで考えてその男は、もう一度、
眼下に広がる街並みを見下ろした。
そこには、
建物の屋上から人々の姿に至るまで、
隅々まで鮮明な街並みの様子が映し出されていた。
それを見て、その男は確認するように言う。
「・・・今、烏になった僕の目には、
建物の屋上の様子や、人の表情が事細かく映し出されている。
僕は、あの建物の屋上を見たことが無い。
建物の構造を、詳しくは知らないはず。
向こうの店の人の顔は知っているが、頭上から見下ろした姿は見たことがない。
どれもこれも、僕が知らないはずのものだ。
僕が知らないものは、僕の夢の中には出てこないはず。
身を切る風の感触も、まるで本物みたいに生々しく感じられる。
・・・これは本当に夢、催眠術の効果なんだろうか。」
あまりにも鮮明すぎる体験に、気味が悪く感じられてしまった。
もう十分だ。
自分の体に戻ろう。
その男は、烏の体から自分の体に戻ろうした。
「えーっと、帰る時は確か、
自分の姿を思い浮かべれば良いんだったか。」
自分自身の姿を思い浮かべようとして、
その男は顔を強張らせた。
「・・・自分の姿がイメージできない。」
今日着ていた服装や持っている荷物などは、正確に記憶している。
だがそれらはその男に付随するもので、その男自身ではない。
だから、
そういったものをいくら思い浮かべても、
自分自身の姿を思い浮かべたことにはならない。
そういうものを取り除いた自分自身の姿を、
その男は思い浮かべることが出来なかった。
無理もない。
手や足ならばともかく、
自分自身の全身を事細かに記憶している人は、そう多くはないだろう。
毎日、鏡で自分の顔すら満足に見る暇もないその男にとっては、
なおさらのことだった。
「・・・やっぱりだめだ。
どうしても自分自身の姿をイメージできない。
仕方がない。
烏の体であの地下街まで飛んでいって、
そこにいる自分の体を見ながらイメージすることにしよう。
自分自身の姿なら、必ず記憶の中には存在しているはず。
記憶の中に存在するのなら、
自分で意識してイメージすることはできなくても、
夢の中の世界には再現されているはずだ。」
そうしてその男は、
烏の体で夜空を滑空すると、
地下街の入り口がある橋の袂へと降りていった。
烏の姿から自分の体に戻るためには、
自分自身の姿を詳細に思い浮かべる必要がある。
しかしその男は、
自分自身の姿を思い浮かべることが出来なかった。
それならば、
実際に自分の体を見ながら思い浮かべればいい。
今までに自分の体を見たことくらいはあるはずだから、
咄嗟にイメージできなくても、催眠術の世界には再現されているはず。
そう考えたその男は、
烏の姿のままで地下街へと戻ることにした。
橋の上空にたどり着くと、高度を下げていって、
地面に近付いたところで羽ばたいて減速する。
烏の動きを見様見真似したものだが、上手く着地することができた。
それから、
烏の足で地面をちょこちょこと歩いて、
地下街に繋がる地下階段を下っていった。
地下階段を下った先。
そこには、露店が立ち並んだ地下街があるはずだった。
しかし、そこにはもう、
露店は一つも存在しなかった。
あの催眠術の露店はおろか、他の露店も全て姿を消していた。
そこにはただ、薄暗い地下道が広がっているだけだった。
「・・・いない、いないぞ!
どうなってるんだ。
ここには催眠術の露店があって、僕の体があるはずだ。
それを見ながら自分の体をイメージして、元の体に戻るはずだったのに。
これじゃ、どうやって自分の体に戻ったらいいんだ。」
烏の嘴で、人のものではない言葉で喚く。
しかし、その声に応える者はいない。
そうしてその男は、
烏になった姿のまま、自分の体を探し求めて、
薄暗い地下道の中をうろうろと彷徨い続けていた。
それから数日後。
その男が住んでいる街で、
閉鎖された古い地下道の中から、
何体もの白骨死体があるのが発見された。
その地下道は、
昔に作りかけのまま放置されていたもので、
規模に対して換気口が少なすぎるという、構造的に欠陥を抱えたものだった。
発見された白骨死体は、
地下道の中に入り込んで雨風をしのいでいた人たちが、
換気不足で酸欠になってそのまま亡くなったものだろうと推測された。
しかし、
その中に真新しい烏の死体が混じっていたことは、
原因が分からず謎とされた。
また、
その地下道に死体があると通報した男がいたはずなのだが、
その男が何者だったのか、それも分かっていないという。
終わり。
地下道をテーマにしようと思い、この話を作りました。
動物と体を入れ替えるという話はよくありますが、
戻り方がわからなくなったら恐ろしいだろうなと思って、
それを合わせて一つの話にしました。
お読み頂きありがとうございました。




