レンタル氏名
「やっほー。今日もアレ、借りに来たよ」
駅前にあるレトロな喫茶店……の二階にあるとある事務所。
あたしはここで、半年前から月一ペースで派遣のバイトをしに来ている。
「こんにちは、秋月菜穂さん。今日の『レンタル氏名』はこちらになります」
白いワイシャツに紺色のスーツ、漫画のキャラクターみたいに赤い蝶ネクタイを結んだ男性が、派遣バイトのオーナーである町田という人物。下の名前は知らない。このバイトに、余計な情報は必要ないのだ。
「小森田美紀」
彼が差し出して来た紙に書かれた氏名を読み上げ、心の中で三回唱える。
小森田美紀。
こもりだみき。
あたしは、小森田美紀。
「よし!」
気合十分。どんな仕事でもかかって来なさい!
「今日も威勢の良いことで。では、こちらにお客様の住所を記してありますので、一日頑張ってきてください」
町田が見せてきた「お客様情報」は個人情報なので、契約しているバイト以外絶対に見せてはならない。スマホで写真を撮ることなんて、もってのほかだ。だからあたしはお客様情報の載った紙を上着のポケットに入れた。
「いってきまーす」
ニコニコと笑顔を浮かべる町田を背に、あたしは事務所を飛び出した。
「今日一日お世話になります、小森田美紀です。よろしくお願いします」
今日の「お客様」が住んでいるところは、ここら一帯では有数のセレブたちが集う住宅街だった。小ぎれいな戸建の家が立ち並んでいて、いかにも気位の高いおばさまでも出て来そうな雰囲気を醸し出している。
だから、初対面の人との仕事に慣れてはいるものの、目当てのお家では玄関の前に立った時から、ちょっとばかり緊張していた。
「いらっしゃい、美紀ちゃん」
身構えていた割に、中から出て来たのはとても優しそうなおばあちゃん。
「こ、こんにちは」
予想とは全く違うタイプの人が現れて、ちょっとたじろぐ。
「さあ、お上りなさい」
おばあちゃんは優しい口調のままあたしに家に上がるよう促した。
「お邪魔しまーす」
普段なら出てくるお客様のほとんどが、お金持ちの気位が高い人だったり、おかしな性癖のある男性だったりするため、こういう善良そうな人が相手だと調子が狂う。
「お茶、出しますからね」
「あ、ありがとうございます……」
何という待遇の良さ! 一応お金をもらうために働きに来たのに、なんだかとても申し訳ない気持ちになる。
「おばあちゃんは、小森田さん?」
「いいえ、私は岡本。小森田は、私の娘の旦那さんの名前なんだよ」
なるほど……ということは。
「小森田美紀さんは、娘さんか、お孫さんの名前?」
「そうそう。孫のね、名前なんです。孫に会いたくてねえ、あなたを呼んじゃったわ」
「そうなんだ」
いけない。今日のあたしは小森田美紀なのに、秋月菜穂目線で美紀のことを聞いちゃだめだ。
「おばあちゃんは、あたしと話したかったの?」
「そりゃあねえ、とても。美紀ちゃんに、最後に会いたくて」
「最後? なんで最後なの?」
「だっておばあちゃん、もうすぐ逝ってしまうかもしれないでしょ。だからその前にね」
湿っぽい話なのに、相変わらず柔らかな口調で語るおばあちゃん。美紀とは、長いこと会えていないのだろうか。気になったけれど、それを聞くのはあまりに無粋な気がした。
「今日は来てくれてありがとう」
帰り際、玄関でそう言われた時、あたしは思わず、「いえ、こちらこそ!」と勢いよく頭を下げた。お茶とお菓子までいただいて、のんびりできた一日。これまでのバイトの中で一番安らげる時間だった。
「美紀ちゃん、会えて嬉しかったわ」
彼女と美紀の間に何があったかは知らない。
けれど、最後におばあちゃんが流した涙を見て、美紀はもうこの世にいないのだと悟った。
「ありがとう、おばあちゃん」
名前を一日レンタルしてお客様に会いにいく、おかしなバイト。時には不快なことを言われることもあるけれど、今日のあたしの心はとても透明だった。