異形の賜物32
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十二月も半ばに差し掛かる頃に、彼女と水族館に行く事になった。その水族館の最寄りの駅で待ち合わせをして、電車で長い時間を、一人で考え事をしながら過ごしていた。
彼女と僕らの家は近いのだから、一緒に行けばいいのかもしれないけれど、彼女は遠くの駅を待ち合わせ場所に選び、僕もそれを受け入れた。
少し寂しい気もしたけれど、確かに電車のこの長い移動時間に会話をしなければいけない重圧を考えると、一人で電車に揺られながら、笑顔で会話をするカップルを眺めて、水族館での会話の予習をしている方が心は落ち着いた。
途中の駅でおばあさんが乗ってきたのだけれど、席を譲る人はいなくて、僕は譲りたかったけど、知らない人にどうぞなんて声をかける事が出来ないから、少しだけ時間を置いた。電車が次の駅に着く少し前に席を立って、まるで次の駅で降りるから席を立ったのだという演技をしておばあさんを席に座らせた。
「ありがとう」
おばあさんは、僕の演技を見抜いているかの様にお礼を言って席に座った。
「いえ、次の駅で降りるので」
僕の声は自分でも驚く程微かで、周りの誰にも気付かれる事は無いだろうと思った。
駅に着いてドアが開くと、降りたのは僕だけだった。それから、二つ隣の車両に乗りかえると、少し混み合っている車両内で席に座る彼女と目が合った。
そこから気付かなかった振りをするのも考えたけれど、それはあまりにも不自然な事だった。僕が彼女の方に近寄って行くと、驚いた様子で彼女は言った。
「なお君こんな所から乗ってきたの?」
確かに、降りる人の少ないこの駅から乗ってくる姿は異様に映っただろう。
「いや、なんていうか、君の姿を見つけたからこっちの車両に乗りかえたんだよ」
「それにしては目が合った時凄い驚いてたけど?」
「そうかな?」
「それに、それなら電車の中から移動してくれば良くない?」
「それは、そうだね。気が付かなかったよ」
急に彼女と会話をしなければいけなくなり、僕の準備は不完全なまま、彼女とのデートは始まった。
でも僕はいくつかの疑問を抱えていた。何故彼女はその水族館に行きたかったのか、そして何故僕と一緒に行くのか、何故あんなに思い詰めた顔をしていたのか。
何を話したかは覚えていないけれど、いつの間にか電車は駅を三つ跨いで、目的の駅まで辿り着いた。彼女と一緒に電車を降りて、改札口の所でさっきのおばあさんと鉢合わせてしまった。
「さっきはありがとう」
おばあさんは満面の笑みで僕に言った。
「いいえ、全然」
僕は苦笑いでおばあさんに返した。
「何かあったの?」
当然彼女は聞いてきた。
「いや、何でもないよ」
「何でも無いの?」
「うん」
「謎な人だな」
彼女は微笑んで言った。僕はその時、彼女に嘘をつかないと誓ったのに、偽ってしまった事に後ろめたさを感じた。多分人が人と関わっていくのに、嘘をつかないという約束は成し得ないものだと思った。
「でも、あのおばあさん、あんなに笑顔でありがとうって、きっとなお君良い事をしたんだろうね」
彼女は嬉しそうだった。彼女が喜ぶ理由が僕には分からなかった。
水族館に入ると、彼女の雰囲気が変わったのを感じた。
さっきまでの柔らかく僕を受け入れる彼女は居なかった。
僕等の会話は無い。それは話すことが無いのではなく、彼女が会話を拒否していた。訊ねた訳では無いのだけれど、僕は強制的な沈黙を受け入れた。
ゆっくりと歩く彼女に僕は着いていきながら、水槽の中の魚達を見ていた。
魚や動物達の中には、自殺という概念はあったりするのかな、と思ったりした。
でも、もしもこの魚達の一匹が自殺をしたとしても、僕達は深い感情も持たずに、水槽に浮く死体を眺めるのだろう。
彼女の足が止まった。その水槽の中には、大きなマンボウが一匹底に沈んで横になっていた。
僕は何かの病気に罹っているのかと思ったけれど、説明を書いているボードを見てみると、天敵が居なくなってこのマンボウは泳ぐ事をやめてしまいました、と書かれていた。
泳ぐ事を止めてしまったマンボウに人が集まる事は無く、二人きりで眺めていると、彼女は少し微笑んで何かを思い出している様に感じた。
僕は分かっていた。でもまた気付かない様にしていたんだと思う。でも多分僕は、彼女の事を知り過ぎていた。なのに彼女の為になる様な事を言えない、出来ない自分がまた嫌いになった。
挙げ句の果てに、分かっているのに分からない振りをする事を選んだ。僕は、誰かにありがとうなんて言われる人間じゃ無かった。
また彼女は歩き出して、水族館を二周ほど無言で回ると、ここに来てから初めて僕の方に向き返り、彼女から聞いた事の無い様な低い声で僕に語り掛けた。
「今夜一緒に居て欲しいの」
僕はまずその声に驚いてしまい、そして突然すぎる彼女の要望へ、返す言葉が遅れてしまった。
「今夜って、どこか行きたい所があるの?」
彼女が応えるまで、ただ合う事も無い瞳を見ていた。
「抱いて欲しいの」
どれだけ彼女と向き合っていても、ずっと見つめていた彼女の目と交わる事は無かった。




